(1)
「また行くのか?」
「ええ。多分今日くらいに完成すると思うから後で見せるわ。ちゃんと評価してね、お父様」
そう言い残し、少女は画材道具を荷台に乗せ、自ら馬車の手綱を取ると軽やかに駆け出していった。
少女の名はアンジェリーヌ・ラ・ブランシェス。歳は十五歳。
シルクのような細く真っ直ぐ腰まで伸びた髪は黄金色。見るものすべてに興味を抱くような好奇心を宿した瞳はエメラルドグリーンに輝いている。
アンジェリーヌの父ロドリグ・ラ・ブランシェスは、このアランテル王国の宮廷画家を勤めており、代々王家の肖像画を描いてきた一族だ。
それゆえ血筋からいえば平民出身なのだが、先祖が絵の才能を見初められて以来、彼らは男爵の称号を授かってきた。
貴族とはいえ元々は平民出身。生活は質素なものである。
父の血を濃く受け継いだアンジェリーヌもまた、絵の才能を持って生まれていた。
ブランシェス家には何人かロドリグの弟子がいるのだが、アンジェリーヌはその誰にも勝る才能を持っていた。
ロドリグも最初はアンジェリーヌと弟子の中の自分の後継者を結婚させようかと考えていたが、アンジェリーヌの開花した才能に、彼女自身を自分の後継者へと考えるようになっていた。
当のアンジェリーヌはそんな父の思惑を露とも知らず、今はただ描くことを楽しむ毎日を送っている。
今日もまた、彼女はお気に入りの場所……王宮からも貴族達の住む街からも程近いモンシェルジュリーの森の奥にある小さな湖へ足を運んでいた。
滅多に人の来ることがないその湖の静かに流れる時間を感じるのが、アンジェリーヌは好きだった。
誰の目を気にすることもなく、その時の流れを描いてみたい。
アンジェリーヌは木々の木漏れ日を体に受け、心を静めキャンパスに向かう。
絵はすでにほぼ完成している。後は細かな調整をするだけだった。
アンジェリーヌは風景画を描くのが一番好きだった。
もちろん肖像画や静物画も描くし、その完成度は代々ブランシェス家を築いてきた画家達に勝るとも劣らない腕前である。
それでも静物画や肖像画にとらわれず風景画を好むのは、一瞬一瞬自然が色や形を変えていくからだった。
その変わりゆく様を描き留めることが出来たら。
アンジェリーヌはいつか自然の持つ光や動きすら感じさせられる絵を描いてみたいと思っていたのだった。
アンジェリーヌは絵筆を置いた。
(完成……だわ)
安堵した満足げな笑みが零れる。
今までで一番の出来と言っていいほどのものが描けた。
だがアンジェリーヌは更に高みへと目を向ける。
次はもっと素晴らしい絵を、と。
アンジェリーヌは椅子から立ち上がり、傍の地面へ直に座りくつろぐ。
その時、馬の蹄の音とともに嘶きが遠くの方から聞こえてきた。
反射的にアンジェリーヌは音のした方向に目を向ける。
(……誰?)
もう何度もこの場所へ来ているが、人と会ったことなど一度たりともない。
自分の他にここへ来る者がいたことを初めて知ったくらいだ。
アンジェリーヌは少し警戒心を抱いてじっと見つめる。
すると黒馬が一頭対岸に現れた。
馬上には男が一人、馬の首筋を誉めるように撫でている。
アンジェリーヌは彼を目にした瞬間、その姿から目を逸らすことが出来なくなっていた。
(まるで軍神が地上に降臨してきたよう……)
神々しく凛々しい姿。
彼を描くなら、その線は力強く太いものが相応しい。
あまりにじっと見つめていたからか、視線を感じた男がアンジェリーヌに目を向けた。
(あ、……気づ……いた)
それでもアンジェリーヌは彼を見てしまう。
彼の瞳から放たれる力がアンジェリーヌを惹き付ける。
(私どうしてしまったの? 目が……離せない)
男の方もしばらくアンジェリーヌを見つめていたが、背筋を伸ばし手綱を持ちなおすと馬を走らせ始めた。
(こっちに来る!?)
まぎれもなく男はアンジェリーヌに向かって来ていた。
アンジェリーヌは逃げようとは思わなかった。
誰かなんて何も分からない。
ただ惹き付けられてしまう。
胸が高鳴ってしまう。
男はアンジェリーヌの目の前まで来て馬上より舞い降りた。
彼もまたアンジェリーヌから目を離すことなく、座り込んでいた彼女に目線を合わせるよう片膝をつく。
アンジェリーヌは息をするのも忘れてしまいそうだった。
右目が灰色、左目が琥珀色の双眸は人を従えるような逞しい光を放ち、少し癖のある肩にかかるかどうかの栗色の髪が風になびき頬に触れると艶やかな雰囲気を醸し出す。
「娘、名は?」
男の低くだがよく通る声に、アンジェリーヌは我に返ったように口を開く。
「ア、アンジェリーヌ。アンジェリーヌ・ラ・ブランシェス」
「ブランシェス?」
男はすぐ傍のキャンパスを見て、納得した顔で再びアンジェリーヌを見た。
「ブランシェス男爵の娘……か。父親に似て絵の腕前は相当なものだな」
男は立ち上がり、絵と真っ直ぐ向き合いじっと見つめる。
「いい絵だな。本当に日の光が降り注いでいるようで暖かな温もりを感じる。お前の心もきっとそうなんだろうな」
真剣な眼差しで絵を見つめ言った男の言葉がアンジェリーヌには嬉しかった。
彼の眼差しを見た時直感した。この人はお世辞を言う人ではないと。そして絵を見る目は確かだと。
ブランシェスという名と絵だけで、ロドリグの娘と見抜いたのだから。
「父を……ロドリグを知っているってことはあなたも貴族なの?」
言った後すぐ、間抜けなことを聞いてしまったと思った。
男の身なりを見れば平民でないことは一目瞭然。
上質な布で作られた服。袖口や裾を彩る品のある刺繍。細工を施したボタン。
どれをとっても名ばかりの貴族のアンジェリーヌが身に着けたことのないものばかりだった。
男はアンジェリーヌに再び近づき、彼女の横に腰を降ろした。
アンジェリーヌと顔を見合わせた男は涼しげに笑った。
「俺はアルフレード」
「アルフレード? この国の人ではないの?」
アンジェリーヌは不思議そうに言葉を返した。
アランテルではあまり聞かない名前だからだ。アランテルでは一般的にアルフレードではなくアルフレッドと呼ばれている。
「隣国のリジェーロ人とのハーフだ。親はリジェーロの子爵の血筋だから、俺も貴族の血を引いているってわけだ」
「……そうなの。歳はいくつなの? 私は十五歳よ」
「俺の方が三つ上だな」
話をしているうちに、自然とアンジェリーヌにも笑みが浮かぶ。
初めはその存在感に圧倒されたが、アルフレードの気取らない、自分のことを「俺」と呼ぶ砕けた態度に親しみ易さを感じていた。
「ここへはよく来るの?」
「たまに、だよ。……ここに来ると日頃の煩わしいことを束の間でも忘れていられるんだ。素直な自分に戻れるっていうか落ち着けるっていうか……。俺の一番お気に入りの場所さ」
そう言うとアルフレードはごろりと仰向きに寝転がった。
初対面でここまで気を許しているアルフレードに、アンジェリーヌもまた彼に対して素の自分を見せていた。
「私もここが一番好きな場所なの。モンシェルジュリーの入り口までなら昔からよく来ていたけど、こんな奥まで入ったのは何かいい風景がないかと思って……。アルフレードはここ、どうやって知ったの?」
アンジェリーヌは寝転がっているアルフレードの顔を見下ろした。
「……日常の束縛から解放されたくて逃げ出した先に辿り着いたのさ」
アンジェリーヌは不思議そうにアルフレードを見つめる。
彼の言葉が冗談なのか本気なのか判断がつかなかったからだ。
「アルフレードの家って厳しい家柄なの? 私の家は貴族といっても名ばかりだからわりと放任主義なの。だから本当の貴族ってどんな生活しているのかいまいち分からなくて……」
「ん……厳しい方なのかもな。でもここへ来るのは逃げ出したいからばかりじゃない。初めはそうでも今はただこの場所が好きだから来たりもしてるしね」
アルフレードの明るい口調に、アンジェリーヌにも笑みが戻る。
(この人意外と苦労してるのね。でもそんなこと微塵も感じさせないなんて強い人)
二人はしばらく取りとめもない会話をした。
その中で二人は互いに好意を寄せ始めていた。
「俺そろそろ戻らないと」
会話が一区切りした時、アルフレードがそう言って立ち上がった。
アンジェリーヌもつられて立ち上がる。
彼女の胸に切なさがよぎった。
(もう逢えないのかしら)
アルフレードは黒馬に騎乗する。
切なげに傍で見上げるアンジェリーヌに、アルフレードは優しく微笑んだ。
「またここで逢いたい。今度はいつ来るんだ?」
彼も同じ思いだったことを知り、アンジェリーヌの表情が明るくなる。
「天気のいい日ならいつでも来られるわ!」
「では次の晴れた日の午後、ここで逢おう。アンジェリーヌ、必ずまた逢おう!」
アルフレードは力強い言葉を残し、黒馬とともに森の中へ姿を消した。
アンジェリーヌは姿が見えなくなってもしばらくそのまま見つめていた。
アルフレードの残した「逢おう」という言葉を何度も胸で噛み締めながら……。