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「ラ、ランベール公爵!?」


 アンジェリーヌは驚いた。


「ここへはあなたは入って来られないはず。なのにどうして?」


 入れるのは王族と医師と彼女の世話をする者、そして宰相のイレールのみである。


「兄上に許しを頂いた。俺は再び王子に戻ったんだ。そして今はこの離宮の警護の責任者も兼ねている。……お前の傍にいたくて戻って来たんだ」


 思いもかけない訪問者にアンジェリーヌは放心状態だった。そんな彼女にジャンは歩み寄った。


「絵を描いていたんだな。……これは家族の肖像画か?」


 四人の温かな人柄。愛する人が幸福でいてくれたことがジャンにも安らぎを与えた。


「お前が幸せでいてくれて俺も嬉しいよ」


 ジャンの顔をアンジェリーヌは見つめる。彼の穏やかに包み込む眼差しが彼女の心を落ち着かせた。


「二度と絵を描かないと思っていたわ。でも今こういう状態になって、もし私が死んだ時、私は愛する人達に何が残せるかと考えたら結局描くことしか出来ることがなかったの。私の愛した心をここに描き残したいと思ったのよ。それが私の示せる感謝の心でもあるのだから」


 愛し愛されたことの象徴がこの絵なのだ。そしてもう一枚、アンジェリーヌには残したい絵があった。


「ランベール公爵……いえジャン、あれを見て」


 アンジェリーヌは部屋の隅に立て掛けてあるまだ描きかけの絵を指した。彼女は同時進行でもう一枚描いていたのだった。


「あれはもしかして……モンシェルジュリーの森?」


 半分確信した思いでジャンは言った。まだ大雑把にしか色ののせられていない絵だが、それでも忘れるはずのない風景がそこにはあった。


「もし私が死んだらあの絵をあなたにあげたいの。少女の頃の私の幸せがそこにはあるの。私の大切な、決して色あせることのない想いを私はあの絵に残していくわ」


 アンジェリーヌの二つの心。リュシアンへの愛とジャンへの愛。彼女はその想いを二枚の絵に残そうと思ったのだった。


 アンジェリーヌには何となく分かっていた。ジャンが結婚しない理由が。


 まだ愛されている。彼の眼差しを見るたびにそれを感じていた。


 許されないことなのかもしれない。しかし最期になるかもしれない今、残されるジャンに自分の心を伝えたかった。自分にもあなたを愛する心が残っていると。苦しむことが多かった愛だが出逢えて良かったと。


「俺は絵を貰うよりも、お前が生きていてくれる方が嬉しい」


 ジャンは以前よりも頬の赤みが消え痩せた彼女の顔を見て言った。彼女の姿が嫌がおうでも死の影をちらつかせる。それでも彼は切なる願いを口にしていたのだった。


「私もここから生きて帰れるのなら帰りたいわ。……でも悪化しているのが分かっているの。だからリュシアンもあなたを私のところへ呼んだのでしょう。私は残された時間に精一杯のことをしておきたいの。……死ぬ時まで」


 アンジェリーヌは死を受け入れている。それを知りジャンは逆にアンジェリーヌから励まされた気がした。死を受け入れられず動揺している己の心が、きちんと死と真正面から向き合おうと動いていた。


「あまり根を詰めて絵を描かないようにな。お前が少しでも長く生きていてくれることを皆望んでいるのだから」


「無理はしないわ。……それからジャン、あなたもあまりここに来てはいけないわ。私は誰の命も奪いたくないの。私は一人で大丈夫だから」


 一人心細い思いでいるだろうと心配してくれているのはアンジェリーヌも分かっていた。事実何度も死への恐れに呑み込まれそうになった。


 しかし同じ病に侵させるわけにはいかない。たとえ本心が彼が傍にいてくれることを望んだとしても。


 ジャンは首を横に振った。


「ジャン、私にあなたを死なせるようなことはさせないで!」


 ジャンはもう一度首を振った。その瞳には強い意思が秘められていた。


「たとえ肺病になって死のうと、俺はここに来ることをやめない。たった一人でこの病と向き合っているお前の傍に俺自身がいたいんだ。お前が絵で心を示しているように、俺は俺の心をこうしてでしか示せないんだ。出逢ったこと、愛し合えたこと、俺は後悔していない。……もし肺病になったとしても、お前と同じ病で死ねるなら本望だ」


 昔と変わらないジャンの熱い想いに、アンジェリーヌは一人耐えていた苦しみの重さが軽くなるのを感じた。


「本当に後悔はないの?」


「ない」


 即答するジャンに、アンジェリーヌはもう一人で耐えなくてもいいのだとホッと安心した思いから涙が溢れた。


「……ありがとう、ジャン」


 ジャンはアンジェリーヌを慰めるように、そっと彼女を包み込んだのだった。


              *    *    *


 アンジェリーヌの二枚の絵が完成するのを待ち構えていたかのように、国家を揺るがす報告が宮殿にもたらされた。それは隣国ノーリンゲン王国との国境ミュニヨンからの緊急の報告だった。


 他国からの使者との謁見中だったリュシアンの許に、事の次第を聞いたイレールが彼の耳元にこっそりと耳打ちをした途端、彼の顔色が緊張に強張り立ち上がった。


「使者殿、申し訳ないが緊急の用が出来てしまったので私はこれで失礼するが、どうそ我が国でゆっくりしていって下さい」


 使者も慌しい事態に何か重大な事が起こったのだろうと悟り、リュシアンに最敬礼で答えた。


「後のことは頼んだぞ。丁重にもてなしするように」


 外交担当の伯爵にそう言い残し、リュシアンは会議の間へと急いだ。彼が着く頃にはすでに多くの大臣が顔を連ねていた。


「陛下、話はお聞きになりましたか?」


 外務大臣が切羽詰まったように言った。リュシアンも頷く。


「聞いた。ノーリンゲン王国がミュニヨンへ攻め入ったと。どんな状況になっている?」


「相手の兵はおよそ五万。ミュニヨンには一万程しか兵がおりません。兵力は圧倒的に我が国が不利です。恐らく数日持ち堪えるのがやっとでしょう」


「何故急にアランテルに戦いを持ちかけたのだ? つい先日亡くなった先王は戦いを好むような人ではなかったはずだ」


 ノーリンゲン王国とアランテル王国の国交は上手くいっていた。互いの利益を上手く分け合っていた。牙を剥かれる覚えなどない。


「今の王ゲルベルト三世は力で望むものを手に入れる人物だそうです。それがどんな卑怯なやり方でも手段を選ばない。兄である先王が亡くなったのもゲルベルト三世によって暗殺されたのではと専らの噂です」


 自国の権力を手中にした後、この国に狙いを定めたのかとリュシアンは愕然とした。


「……狙いは我が国の鉱脈でしょうね」


 イレールが呟くように言った。リュシアンはイレールの言ったことに息を呑んだ。


「狙いは……黄金か」


 アランテル王国の鉱脈からは良質の金が多く産出されている。それを輸出することで他国から利益を得ている。アランテルには欠かせない輸出品だ。


「すぐに兵をミュニヨンに向かわせよう」


「お待ち下さい陛下。今から兵を送ってもミュニヨンは恐らく陥落した後でしょう。ここは次の砦グルーニュで体制を整えて待ち受けるべきです」


 イレールが助言する。確かにあの兵力の違いでは間に合わない。初めて経験する戦いにリュシアンは動揺していた。


「陛下、今こそ神の血を使うべきです」


 大臣の一人が言うと、神の血を知る大臣達は巨大な守り神がこの国に存在していることを思い出し、その意見に賛同する。


 リュシアンは躊躇った。神の血の力を使えば国を守ることは出来る。しかし体の弱っているアンジェリーヌを戦地へ同行させたくはない。少しでも彼女に生きていて欲しい。


「……王妃は今病で伏せっている。今回は神の血なしで国の総力を挙げて戦いに挑もう」


「今使わないでいつ使うのですか? 神の血の力を使えば被害は少なく抑えられるのですよ。そもそも王后陛下の病とは何なのですか? 国の一大事に王后陛下はどうしているのですか!?」


 大臣からの問い詰めにリュシアンは唇を噛む。そしてイレールを見た。イレールは頷く。もう隠してはおけない……と。リュシアンは口を開く。


「王妃の病は肺病だ。……恐らくそう長くは生きられないだろう」


 大臣達はざわめいた。


「でしたら尚更今使わずしてどうするのですか? アランテルが滅んでもよいのですか!?」


「では弱った王妃を戦地へ送れと言うのか! そなた達は国のため王妃に犠牲になれと言うのか!!」


「……国のためには仕方ないことかと」


 リュシアンの心に怒りが込み上げる。アンジェリーヌはこの国のために尽くしてくれた。それなのに彼女を今誰も守ろうとせず切り捨てようとしている。


「ここへ医師を呼べ」


 リュシアンは医師の口からアンジェリーヌの病状がどんなものか大臣達に聞かせようとした。呼ばれた御典医は王妃の今の状態を告げる。


「王后陛下の病状は深刻です。あともって半年程と思われます。長距離の移動には何とか持ち堪えられるでしょう。しかし体への負担は大きいかと。命を削ることになると思われます。そして何より神の血を使うことでの影響が心配されます」


「神の血の影響……?」


 初めて知ることにリュシアンは眉を顰めた。


「はい。初代国王が神の血の力を以ってこの国を建国したことはご存知だと思いますが、王がその力を使った時、紅の女神は重症だったそうです。代々伝わる書にはこう記されています。神の血の力は紅の女神の体力を奪う。普通ならば多少の疲れで済むことも、体力の弱った紅の女神には過大な負担を与えると。当時の紅の女神が重症でありながら辛うじて命を取り止めたのは、その身に次代の神の血の命を宿していたからだろうと記されています。次代の神の血の生きる力が彼女の命を救ったのでしょう。しかし今回すでに次代の神の血は産まれておいでです。今の王后陛下のお体で神の血の影響を受けましたら、その力を行使した瞬時に王后陛下のお命は失われるやもしれません」


 リュシアンは息をするのも忘れるほど愕然とした。この力が最愛の人の命を奪う。半年の残された時間をも奪ってしまう。


「……頼む皆の者。今回だけは神の血の力を頼らないでくれ。納得出来ないなら私は譲位する。私達一族は王族から身を退く。……すべての兵にすぐに出立するための準備するよう伝達してくれ」


 リュシアンは大臣達に言い残すと部屋を出て行ってしまった。すべてを敵にしてもアンジェリーヌの命を守りたい。その一心しか考えられなかったのだった。


              *    *    *


「イレール、それは本当なの? 陛下がそんなことを……?」


 アンジェリーヌは驚きを隠せなかった。


「はい。陛下はその責任を負う覚悟を決めておいでです」


「兄上が王位を捨てるというのか……」


 ジャンも信じられない思いで呟いた。


 ここは離宮。イレールはアンジェリーヌとジャンに今回の件を伝えた。これはイレールの一存でした行動だった。王妃が何も知らないのはいけない。知った上で今後のことを決めてもらうべきだと。


 アンジェリーヌはしばらく考え込んだ。リュシアンの立場、そして自分とリュシアンの心。


 自分の命に関わることなのにアンジェリーヌの心は静かにそれを受け止めていた。


「イレール、陛下をここへ呼んで下さい」


 イレールは自らがリュシアンを呼びに一度宮殿に戻り、出陣の仕度をしていた彼を連れて戻って来た。初めリュシアンはこの戦いのことをアンジェリーヌに伝えたことでイレールを叱ったが、出陣前に彼女に会っておきたいと思ったので離宮へ赴いたのだった。


「リュシアン、私も共に行きます」


 開口一番アンジェリーヌは言った。


 リュシアンは悲痛な表情を浮かべた。


「戦いの状況を……神の血の力の影響を聞いたのだろう? そなたはそれを分かっていて言っているのか?」


「……ええ」


「だったら何故……!?」


 戸惑いを隠せないリュシアンをアンジェリーヌは穏やかに見つめた。


「この国を愛しているから。家族を愛しているからよ」


 リュシアンの本当の妻になった時心に誓ったこと。この国を守ろう。リュシアンと共にこの国の礎になろうと。


 そして親となった今、子供に未来を残したい。愛しているから守りたい―――と。


「私にそなたの命を奪えというのか……」


 リュシアンは呟いた。それを見てアンジェリーヌはジャンに言う。


「ジャン、あの絵を持って来て」


 ジャンは言われるままに一枚の絵を持ってきてリュシアンに差し出した。リュシアンはその絵を切ない心境で見つめた。


「私もあなたと守りたいものは同じよ。たとえ命を散らすことになってもこの幸福を守れるなら本望だわ。……私達には守る力があるのよ。今はその力を授けられたことに感謝すらしているわ。だから私もついて行くわ」


 アンジェリーヌの思いも痛いほどリュシアンは分かった。子を持つ親として明るい未来を残したい。国を統べる者としてこの国の平和を守りたい。それでもまだ行かせたくないという思いが勝る。


 リュシアンはジャンを見た。


「お前は止めないのか?」


 アンジェリーヌを失いたくない思いは同じはずとジャンに意見を求めた。ジャンはアンジェリーヌを見つめた。


「アンジェリーヌは王妃の義務感で決めたんじゃない。国を、家族を愛しているから行くと決めたんだ。その思いが偽りでない以上、俺は彼女の思いを尊重する」


 ―――たとえ死期を早めると分かっていても。


 その言葉にリュシアンはジャンが自分よりもアンジェリーヌの心を理解していたことに気づいた。


 アンジェリーヌは生きようとしているのだ。生かされるのではなく、力の限り愛する者のために生きようとしているのだと。


 リュシアンはそっと彼女を抱き締めた。


「……そなたの思いは分かった。私に力を与えて欲しい。一緒に行こう」


「……はい」


 アンジェリーヌは彼の背にそっと手を回しそれに答えた。


 しばらくしてアンジェリーヌはリュシアンに言う。


「リュシアン、発つ前に一つお願いがあります。子供達にもう一度会わせて欲しいの。最後の別れを告げておきたいの」


 もう生きて帰ることはないのだから……。


「子供達も会いたがっているよ。会って心のままに話しなさい。子供達もきっとそなたの思い、分かってくれるから」


 母と子。その別れの辛さを思うと、リュシアンの彼女を抱く腕に自然と力がこもるのだった。

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