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(16)

 年月は流れ、アンジェリーヌは二十九歳の歳を迎えた。


 リュシアンとの間には一男一女の愛し子を授かっていた。


 長男のフレデリック・デュ・シャルロ・サンルブランは十二歳。父譲りの栗色の髪に母譲りの緑色の瞳を持つ王太子。そして次代の神の血の持ち主だ。


 長女のオルガ・ドゥ・サンルブランは八歳。金髪に緑色の瞳の少女。幼児の頃は父親似だったが、ここ数年歳を重ねるごとに母親に似てきている。大人になる頃には今よりももっと母親のアンジェリーヌにそっくりになっていることだろう。


 リュシアンとアンジェリーヌはとても仲睦まじく日々の暮らしを送っている。


 リュシアンは国を統治する者に相応しい国王としての力を備え持つようになっていた。もう誰も彼を生母のことで見下したりはしなくなっていた。民からの信頼も厚く、彼が国を支える柱であることを否定する者はいない。


 アンジェリーヌも今やすっかり王妃としての生活に馴染み、王妃として国王を支え助言する一方で、妻として夫の心安らぐ存在となっていた。また二児の母として惜しみない愛情を注いでいた。


 そしてジャンは公爵になり、ジャン・アルフレード・レ・ランベールと名を改め、モンシェルジュリーの森にほど近い屋敷で暮らしていた。彼は未だに独身を貫いている。


 周りには「いい人がいたら結婚するさ」とは言っているが、心の中では今でもアンジェリーヌへの愛を大切に抱いていた。報われぬ愛に心を痛めることもあったが、それでも彼女の姿を見るだけで救われるのだった。


 忙しいながらも平和な時に感謝するアンジェリーヌの生活は満ち足りたものだった。


 今も庭園でオルガと昼下がりの散歩をしているところである。そこへ会議を終えたばかりのリュシアンとフレデリックが現れた。


 フレデリックは今年元服し大人への仲間入りをしたばかり。リュシアンはこれまで以上に国王としての心構えや神の血の持ち主として相応しい人柄をフレデリックに教育している。


 リュシアンもかつては歩んできた道のり。その難しさを分かっているが故に厳しくも温かく見守っていた。


「お父さま、お兄さま!」


 姿を見つけたオルガが一目散に二人に駆け寄って行った。後からアンジェリーヌがゆっくりついて行く。リュシアンがオルガを抱き上げた。


「いい子にしてたか、オルガ?」


「はい、お父さま。今日は歴史のお勉強をしたのよ」


「そうか」


 束の間の娘との触れ合いに、リュシアンは目を細めた。アンジェリーヌも一日の内で決して多くはない一家団欒の時を幸せに思っていた。


「母上、お加減はよろしいのですか?」


 アンジェリーヌの傍に寄りフレデリックが気遣う。


「ありがとう、フレデリック。大したことはないのよ」


 アンジェリーヌはここ数週間少し体調を崩している。だが時折咳が出るのと少し熱っぽく感じるだけで、寝こむほどのものでもなく普段と同じ生活を送っていた。


「本当に大丈夫なのか? そなたはよく我慢する方だから心配だ」


 リュシアンも本調子でないアンジェリーヌを気に掛けていた。


「ええ、無理はしていないわ」


「……ならいいが」


 明るい様子のアンジェリーヌにリュシアンも心を撫で下ろす。


 それからフレデリックにじゃれつくオルガを穏やかに見守りながら、リュシアンはさっきの会議で話し合われたことをアンジェリーヌに報告した後、遊んでいる子供達の中へ合流していった。


 しばらくした後イレールが次の謁見の仕事のため、リュシアンとアンジェリーヌを呼びに来た。


 リュシアンとアンジェリーヌとフレデリックは謁見の間に向かう。オルガの明るく手を振って見送る姿に、アンジェリーヌは待っててねと優しく語りかけた。


 残されたオルガはイレールと共に来たジルダに連れられ、王妃の私室の隣にある自分の部屋へ戻って行った。


 夕方ひとまず務めを終えたアンジェリーヌは真っ先にオルガの部屋へ向かった。


「お母さま、お帰りなさい!」


 お絵描をして遊んでいたオルガが椅子から飛び降りるようにしてアンジェリーヌの許へ駆け寄ってきた。アンジェリーヌも温かく包み込むように娘を迎える。


「ただいま、オルガ」


 言った後アンジェリーヌは傍に立って一礼したジルダを見た。


「ありがとう、ジルダ。変わったことはなかったかしら?」


 娘を思う親心にアンジェリーヌは王妃から母の顔へと戻っていた。


「はい。今日は一生懸命絵を描いておられました。オルガ様の絵はのびのびと自由でいて、とても八歳のお子様とは思えない出来ばえです。きっとアンジェリーヌ様の絵の才能を受け継いでおいでなのですね」


 性格ばかりか絵の才能もオルガはアンジェリーヌに似ている。


(お父様、あなたの血がこうして受け継がれていくのですね)


 その絆を感じ、アンジェリーヌは今は亡き父へと思いをはせた。


「コ……コホ、コホッ!」


 突然アンジェリーヌが咳き込んだ。


「ア、アンジェリーヌ様!」


 心配するジルダにアンジェリーヌは咳に苦しみながらも言う。


「だ…大丈夫よ」


「しかし……」


 激しく咳き込むアンジェリーヌをジルダは心配そうに見つめることしか出来ない。


 一際大きく咳をした瞬間、アンジェリーヌは口を覆っていた掌に何かが付いたのを感じた。訝しげに掌に視線を落としたとたん、アンジェリーヌの心臓が大きく脈打つ。


(こ…れは……)


「アンジェリーヌ様!?」


 動揺しそうになったアンジェリーヌは同じく動揺してしまったジルダの声に逆に冷静さを取り戻す。


「ジルダ慌てないで。……まず医師を呼んで来て。それからまだ陛下には知らせないで」


「は………はい」


 駆け出して行くジルダを見送った後、アンジェリーヌは深呼吸を一度する。


「お母さま、大丈夫?」


 心配そうに服を引っ張るオルガを見下ろしたアンジェリーヌは、安心させるように微笑んだ。


「何でもないのよ。大丈夫だからね」


 オルガはそれにつられ笑顔になるが、どこか不安を拭い去れていない様子だった。自分の不安が我が子にも伝わっているのだろうと思った。


 アンジェリーヌはもう一度現実を確かめるように掌に目を向けた。そこには鮮血がくっきりと付いていたのだった。


(…………喀血?)


 アンジェリーヌは鼓動が激しくなるのを感じていた。


 愛する夫と愛する二人の我が子から引き離される思いがした。


 今の幸せな生活が消えうせようとしている。それを感じ、アンジェリーヌの心ははち切れそうだった。


 しばらくしてジルダが宮殿に常勤している御典医を連れて戻って来た。アンジェリーヌはジルダにオルガを預けると、御典医と共に自分の私室へと場所を移した。


 アンジェリーヌは不安に耐えながらも、必死で現実を受け入れようとするのだった。


              *    *    *


 現実は残酷なものをアンジェリーヌに突き付けた。


(私にこれから何が出来るのかしら)


 リュシアンと二人で見つめていきたかった国の将来、子供達の未来。そこから一人別の道を進まなくてはならないかもしれない。


 引き離されたくはない。もっとずっと見ていたい。


 しかし時間は待ってはくれないのだ。


 アンジェリーヌは事実を告げるため、リュシアンの部屋へ向かった。


「そなたから来るなんて何かあったのか?」


 就寝前に書物に目を通していたリュシアンが珍しそうに言った。


「あなたに話があって。……どうしても早く知らせなければならないことがあって」


 深刻に話すアンジェリーヌを心配しながらも、リュシアンはとりあえず彼女を長椅子に座らせ己も隣に腰を降ろす。


「話って何だい?」


 優しく見つめてくるリュシアンの瞳を見ていられなくて、アンジェリーヌは俯いた。


(私はまたこの人を苦しめてしまうのね)


 昔父の死で辛い思いをさせてしまった。それなのに今度は己のことで再び苦しめようとしている。


 アンジェリーヌの胸は痛んだ。それでも言わなければならない。避けようのない現実なのだからと、アンジェリーヌは喉の奥から掠れそうになる声を絞り出す。


「私の体調不良の原因が分ったの。私は…………肺病です」


 リュシアンの表情が凍りつく。


「う……そだ」


 首を振ったアンジェリーヌの瞳から涙が零れ落ちた。


「今日初めて喀血したの。医師にも診断してもらったわ。……辛いけどこれが現実なの」


 俯き涙を流すアンジェリーヌの姿がリュシアンに深刻な事実を突き付ける。


 リュシアンはアンジェリーヌを強く抱き締めた。愛する妻を失いたくない、その思いが抱き締める腕に力を込めさせた。


「……医師は何と言っていた?」


 抱き締めたまま現実を知ろうとするリュシアンに、アンジェリーヌは己が言われたことを告げる。


「肺病に対する効果的な治療法は皆が知っているように今の医学にはないわ。静かな環境の中で療養することぐらいしか方法がないの。そして治る人は全体のほんの数十分の一だけ。あとの人は……」


 その先は言えなかった。己もその中に入るかもしれないのだ。


「アンジェリーヌ、希望を捨てるな。絶対治る。治してみせる。そなたを死なせはしない!」


 リュシアンの思いがアンジェリーヌの心に熱く響く。


(まだ死にたくない。この人と共に子供達と一緒に生きていきたい)


 少しでも長く時を共にしていきたい。しかし今までと同じように暮らせないことも分っていた。


「リュシアン、私は離宮に移ります。肺病は伝染病。このまま一緒にいてはあなたにも子供達にも移らないとも限らないわ。だから私は一人で離宮へ行きます」


 未来ある人達を巻き込むわけにはいかない。愛しているから尚更に。


 孤独に身を置こうとするアンジェリーヌをリュシアンは出来ることなら引き留めたかった。たとえ己の命が危うくなったとしても、彼女の傍にいたかった。


 しかし国王としてそれは許されないことだった。自分の身は自分だけのものではない。国のものでもあるのだから……と。


「……分かった。離宮にそなたの病が治るような環境を整えておくから、ゆっくり療養しなさい。国のことは私とフレデリックに任せなさい。あの子ももうしっかりしないといけない年頃だ。案ずることはない。そなたは病を治すことだけ考えて欲しい。そしてきっともう一度皆でここで生きていこう」


 皆が一緒に暮らせる日を待っているからとリュシアンはアンジェリーヌを励ました。


 いつになってもきっとここへ帰ってきたい。


 アンジェリーヌはリュシアンの温もりを忘れまいとしっかり抱き締めた。


 アンジェリーヌが宮殿から一番近い離宮へ身を移したのはそれから二日後のことだった。


              *    *    *


 二週間が過ぎようとしていた。


 アンジェリーヌの病状は快方に向かっているとはいえないものだった。医師の言葉も思わしくない。


 リュシアンは重臣達にさえ正確な病状を伝えてはいなかった。ただ体調を崩したからしばらく療養させるとだけ告げていた。


 病名を知っているのはリュシアンの他はイレールとジルダだけ。


 徐々に悪化しているとさえ感じる病状に、リュシアンは一つの決断を下した。


「陛下、お話があるそうですが……」


 イレールに呼ばれ政務の間にやって来たのはランベール公爵―――ジャンだ。


 リュシアンはジャンを奥の部屋へ招き入れた。イレールはリュシアンがこれからジャンに何を告げるのかリュシアンから直接聞いていたため、その場に残って奥の部屋へは赴かなかった。


 リュシアンはジャンとテーブルを挟んだ向かいに座る。


「こうして話をするのも久しぶりだな、ジャン」


「陛下、話とは何です? こんな奥の部屋に通すほど内密なことなのですか?」


 臣下の礼を崩さないジャンにリュシアンは苦笑したが、すぐ真顔になる。


「ジャン、今日呼んだのは私の信頼する弟のお前に話があるからだ」


 リュシアンの言葉にジャンは眉を顰めた。臣下ではなく身内として呼ばれたことを訝しげに感じた。


 公爵になってから王族とは一線を引いて付き合ってきたジャンのその心構えを分かっていたから、リュシアンもあえて一貴族として接してきた。


 その兄が自分を弟として呼んだ。それほどのことが王族の中で起こったのではないかと事の重大さを感じていた。


「私の弟として正直に答えて欲しい。……お前は今でもアンジェリーヌを愛しているか? 昔と想いは変わっていないか?」


 リュシアンの意外な言葉に、ジャンは目を見開いてリュシアンを見つめた。


「お前が未だ妻を迎えていないのは、アンジェリーヌを愛しているからではないのか?」


 リュシアンの心を見透かすような瞳にジャンは戸惑う。


(兄上は何故今さらこんなことを聞くんだ? アンジェリーヌとの生活が上手くいっていないわけでもあるまいに)


 否定したところでリュシアンには見抜かれている。正直に答えるべきかどうか。


「大切な話があるのだ。その前にお前の気持ちを確かめておきたい。きちんとお前の口から聞いておきたいのだ」


 迷って口篭っているジャンにリュシアンは熱心に語ってきた。彼の熱意にジャンはようやく決心する。


「兄上の言う通り俺の気持ちはあの頃と少しも変わってはいない。俺はアンジェリーヌを忘れたことはない。彼女だけを愛している」


 その言葉にリュシアンは満足そうに頷いた。待っていた通りの言葉を得られたからだ。


 リュシアンはアンジェリーヌの置かれた状況をジャンに告げる。


「……心を落ち着けて聞いてくれ、ジャン。アンジェリーヌが今離宮で療養中なのはお前も知っていると思う。だが極一部の者以外その病状は知らされていない。これがどういうことを意味するか分かるか?」


 リュシアンの言おうとしていることを察知したジャンは動揺した。


 離宮へ療養と称して束の間の安らぎ、つまり休暇を取る以外、その事情が内密にされるのは、よほどの重病だということを。


「……アンジェリーヌの病は何なんだ?」


 ジャンは震えそうな声を発した。口がやけに渇いていた。


 リュシアンもジャンが重病と気づいたと分かり、覚悟を決めたジャンに事実を告げる。


「彼女は肺病に侵されている。……それも症状は徐々に悪化しているらしい」


(肺病……だと)


 その病がどんなものかジャンも知っていた。


 愛する人が死に直面している。


 手足が震えた。動揺せずにはいられなかった。


「……らしいって兄上は彼女に会っていないのか? アンジェリーヌは離宮でたった一人病と戦っているのか!?」


 リュシアンも悔しさを滲ませる。


「アンジェリーヌから言われているのだ。国王に感染させるわけにはいかないから来ないで欲しいと」


 愛する人がたった一人で恐ろしい病と戦っている。どれほど心細い思いをしていることかと思うと、ジャンの胸は苦しかった。


「ジャン、もう一度王族へ、私の弟へ戻ってきてはくれないか? そうすればお前は彼女の傍へ行くことが出来る。彼女の傍にいてやって欲しい。決して私の代わりではない。お前自身で会ってやって欲しいのだ。彼女も心の底ではお前への想いを忘れてはいない。ブランシェス男爵の時のようにお前の力で彼女を支えてやって欲しい。もちろんお前が感染を恐れて断るなら別だが……」


「俺はもう貴族になった身。今さら王族に復帰など……」


「お前はカミーユとは違って自ら臣下になった。復帰は出来る。もうあの頃とは違う。王太子としてフレデリックがいる。たとえお前が王子として戻っても私と対立するようなことは起こらないはずだ」


 ジャンは感染したとしてもアンジェリーヌの傍にいたいと思った。一人で耐えている彼女を想像するだけで悔しさが込み上げる。


「彼女は死ぬかもしれない。その前に少しでもお前との時間を作ってやりたいのだ。私は結局お前から彼女を奪ってしまった。残された時間を私はお前に返したい。お前が過ごすはずだった彼女との時を奪ったままにさせないでくれ。頼むジャン、決心してくれ!」


 アンジェリーヌと過ごした過去がジャンの脳裏を駆け巡った。幸せだった日々、別れに苦しんだ日々、そして目の前で父を失った彼女の哀しみ。


 今あの時のように誰かの助けを求めているのなら、それに応えたいとジャンは思った。


「兄上、許されるなら俺はアンジェリーヌの傍へ行きたい。……王族へ戻りたい」

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