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(15)

 ジャンは執務室からアンジェリーヌの私室へ向かった。扉の前に立った時、偶然中からジルダが出て来て二人は顔を合わせた。


「殿……下?」


 ジルダは突然現れた人物に驚いた。アンジェリーヌがあの事件から落ち着きを取り戻して以来、ジャンがこの部屋を訪れたのは初めてのことだった。


「ジルダ、すまないが今一度アンジェリーヌと二人にさせてくれないか?」


「で、でも陛下以外の男性を無闇に入れることは……」


 あの時は緊急事態だったから許されたこと。しかし今は状況が違う。それをジャンも分かっていた。だがきちんと直接会って自分の決意を伝えたかったのだ。


「無理を言っているのは分かっている。けれどどうしてもアンジェリーヌに伝えたいことがあるんだ。俺の口から直接話したいんだ。……もうここへ来るのはこれが最後だから」


 思い詰めたように言ったジャンを、ジルダはこれ以上拒否することが出来なかった。


「……分かりました。どうぞこちらへ」


 ジルダは部屋の中へジャンを招き入れる。そしてその奥の書斎にいるアンジェリーヌの許へ案内した。


「王后陛下、ジャン殿下がお話があるといらっしゃっています」


 扉越しにジルダが中のアンジェリーヌに呼び掛けた。程なく突然のジャンの来訪に戸惑いの色を浮かべたアンジェリーヌが姿を見せた。


「それでは私は失礼します」


 ジルダは二人を残し私室を後にした。


「ジャン、どうしたの急に……。何かあったの?」


 深刻に見つめてくるジャンの片腕をアンジェリーヌは不安そうに掴んだ。その手にジャンが手を添える。


「……大切な話がある」


「大切な……話?」


 ジャンの話が何なのか、アンジェリーヌには見当がつかない。だが彼の表情からそれがどれほど重大なものかは窺えた。


 アンジェリーヌの胸に不安が込み上げる。ジャンの話がよくない話題だと直感していた。緊張からアンジェリーヌの鼓動は大きく激しくなった。


 ジャンはしばらく不安げに見上げてくるアンジェリーヌを愛しそうに見つめていた。


 もうこうして触れ合うことも出来なくなる。彼女の心に自分はどんな存在として残るだろうか。苦しまないで欲しい。悲しまないで欲しい。


 ジャンの心はアンジェリーヌへの愛で溢れていた。


 だがいつまでもこうしているわけにもいかなかった。ジャンは意を決して口を開く。


「今兄上にも了承してもらったんだが、俺は王族から公爵へ降ることにした」


 思いもかけないジャンの話にアンジェリーヌは目を見開いた。


「…………何故……なの? 何故あなたが……?」


「こうすることが皆にとって一番いい方法だからさ」


「どういうことなの? あなたが王族から退くくらいなら、私こそ元の身分に戻るべきだわ!」


 戸惑い、説得しようとするアンジェリーヌの真摯な眼差しをジャンは静かな心で見つめ返した。


「俺の存在は兄上にとって危ういものになってしまったから……な。兄上は自分の立場がどんなに危険になろうとも、絶対俺を自分のことより大切にするだろう。だが周りの者は違う。神の血の存在を知らない者にとっては、兄上と俺は権力を等しく持つ者も同然。そうなるとまた今回のような事件が起こらないとも限らない。俺は俺のために誰も死なせたくも苦しめたくもない。もう二度とお前の父ブランシェス男爵のような犠牲は出したくないんだ。……分かってくれるな、アンジェリーヌ?」


 諭すように語ったジャンの言葉がアンジェリーヌの心に切なく届いた。ジャンの行動の真意を悟ったからだ。


(私と陛下を守るために……なのね)


 起こりかねない争いを防ぐのも王子としての役目。それを果たそうとしているジャンを止める権利は自分にはなかった。


 心のまま想いを口に出来るのなら引き留めていた。どんなことが起ころうと、ジャンを失うことの辛さに比べたら耐えられるとすら思った。


 父を失った悲しみを乗り越えられたのもジャンの存在があったからだといっても過言ではない。その彼を失ったら、何を支えにして生きていけばいいのかと心細く感じた。


 アンジェリーヌの瞳に自然と涙が浮かぶ。静かに頬を伝う涙を、ジャンが頬を包み込むように親指で拭った。


「ごめんな、お前を傍で守れなくて……。これからは兄上がお前を守ってくれるから。兄上ならお前のどんな思いもすべて受け止めてくれるよ。安心して思いをぶつけて大丈夫だからな」


 別れの言葉を告げられたアンジェリーヌは、ジャンへの想いから彼を失いたくなくて無意識に首を横に振っていた。


 アンジェリーヌの想いを告げたくても告げられず、それでも涙を流さずにはいられない思いに、ジャンは彼女のまだ気づいていない想いを伝えて悲しみから救おうとする。


「アンジェリーヌ。まだ自分でも気づいていないだろうが、お前は兄上のことも慕っているんだ。今も俺を愛してくれている、その想いを疑ってはいない。けれどもう俺への想いは捨てていいから……。今度は兄上への、まだ今は芽生えて間もないその想いを大切に育てていくんだ。……いいな?」


 ジャンの意外な言葉にアンジェリーヌは訳が分からないといった顔を彼に向けていた。


(私が陛下を……愛している?)


 自分の心が分からなかった。


「……陛下を慕っているわ。陛下は優しく包み込むように私を守ってくれているの。国を統べる人として、その誇り高い心を尊敬しているわ。それが愛だというの……?」


 人として尊敬している。自分に向けられる瞳から、差し伸べられる手から、彼の愛を感じていた。その想いに応えたいと思ってきた。それでもどうしてもジャンへの想いを捨てられなかった。それなのにリュシアンを愛していると言えるのだろうか。


「俺はいつもお前を見つめていた。たった一つの仕草も見逃さないほど見つめ続けてきた。……だから分かったんだ。兄上に惹かれていくお前の心が」


 ほんの一瞬たりとも僅かな彼女の異変をも逃さないよう、ジャンはアンジェリーヌを見守り続けてきた。それは後悔の念からしてきたことだった。


 父親をさらわれたアンジェリーヌの異変に気づくことが出来なかった。そのために起きてしまった不幸な出来事。


 二度と彼女をそんな目に合わせはしない。ジャンの心に立てた誓いが起こした行動だった。


「アンジェリーヌ、兄上と幸せになれ」


 ジャンの声にアンジェリーヌは彼の両腕を掴み、俯き拒否するように首を振る。


「そんなこと言わないで。私は……私はまだあなたを……」


 ―――愛しているの。


 アンジェリーヌは飛び出そうになる言葉を寸前で呑み込んだ。噛み締めた唇から微かに押し殺した泣き声が漏れていた。


 ジャンが言うのだからリュシアンに心が動いているのかもしれない。それでもジャンを失うことがアンジェリーヌにとって耐えがたい苦しみとなって心を支配していた。


 ジャンはそっとアンジェリーヌの両頬を包み、顔を上げさせる。二人は見つめ合った。


 ジャンのもう揺らぐことのない決意が表情から溢れていた。


 アンジェリーヌのジャンを掴んでいた両手が力なく彼の腕から離れた。


(私……この瞳を知っている。もう……止められない)


 力強い意思を持った瞳。それはかつてあの森で、身分を捨ててまでもアンジェリーヌを選ぶとプロポーズした時と同じ輝きを放っていた。


(あなたは……あなたの進むべき道を決めたのね)


 ジャンが自らの意思で選んだ道を、これ以上アンジェリーヌは止められなかった。


 以前自分は避けられない状況に陥ってジャンと別れ結婚した。自分の意思ではなく、そうせざるを得なかった。


 しかしジャンは選んだのだ。王子としてアンジェリーヌを見守ることよりも、離れることで守る道を。


(じゃあ私は? 私の取るべき道は……?)


 選ばされるのではなく、選ぶべき進むべき道はどこにあるのかとアンジェリーヌの胸をよぎった。


 ジャンの表情がふと和らいだ。


「最後に笑ってくれないか?」


「……えっ?」


「最後にお前の笑顔が見たいんだ。モンシェルジュリーの森で過ごした日々、いつもお前が俺に向けてくれていた微笑みを」


 モンシェルジュリーの森と聞いた途端、アンジェリーヌの心にも同じように幸せだった頃の二人の姿が浮かんだ。


 木漏れ日を浴び、水浴びをするジャンの傍らで絵を描き、時には彼の束の間の眠りを守り、その寝顔を見つめていた。そんな些細な、そしてこの上ない幸せに満ちた過去。もう二度と取り戻すことが出来ないが故の輝いた記憶。


 アンジェリーヌの瞳に、目の前のジャンがあの頃のように屈託のない表情を浮かべているのが映った。


(彼のこの表情を見られるのも最後。……もう最後だから見せてくれた顔なのね)


 ジャンの思いに応えたい。


 アンジェリーヌは切ない胸の痛みを隠し、心を静めるように目を閉じた。そしてゆっくり瞳を開けると同時に柔らかく微笑んだ。


(思い出すわ、あの頃を。あの頃は会うといつもこんな表情を浮かべて過ごしていたわ)


 瞳の奥が潤んでいながらも微笑みを向けてくれるアンジェリーヌが愛しくて、ジャンは堪らず彼女を引き寄せた。


(あっ……)


 体勢を崩したアンジェリーヌをジャンは力強く抱き締めた。


 アンジェリーヌも抵抗しなかった。分かっていたのだ。最後だから……と。


 その思いからアンジェリーヌもまたジャンを抱き締めた。


 最後にジャンから向けられた熱く激しい想いに、アンジェリーヌの瞳からは堪えきれず涙が流れ落ちた。


 ジャンもアンジェリーヌの髪に顔を埋め、最後の最後に心を曝け出しこうして応えてくれた彼女を今一時だけ抱き締めていた。


 抱き締めながらジャンは思った。この先もどんなことが起ころうとアンジェリーヌを愛していこう。報われなくても、彼女が生きてこの世にいてくれるだけで充分だ。それが自分の生きていく証なのだと。


 どれほどの時間が流れただろう。ジャンは思いを断ち切るようにして、名残を惜しみながらアンジェリーヌを離した。


「さよならアンジェリーヌ。……お前の幸せを誰よりも願っている」


 そう言い残し立ち去るジャンをアンジェリーヌは引き止めそうになり、その手を握り締めた。


「ジャンも……幸せになってね」


 アンジェリーヌも愛しているからこそ、彼の幸せを願って言った。


「……ああ」


 ジャンは立ち止まり、だが振り返ることなく言葉を残すと部屋から出て行った。


 アンジェリーヌは扉が閉ざされると同時に、力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。


 次々走馬灯のように浮かんでは消えるジャンとの思い出に、アンジェリーヌは失ったものの大きさを痛感し、その喪失感に呑み込まれていったのだった。


              *    *    *


 その夜更け。アンジェリーヌの私室へリュシアンがやって来た。


 アンジェリーヌは眠れずベッドに入りながらも体を起こし俯いていた。ジャンとの別れによってもたらされた喪失感に、時折その瞳からは涙が流れ落ちていた。


 前日リュシアンがこの私室を訪れていたこともあって今晩は来ないだろうと思っていたアンジェリーヌは、己の心を曝け出していたのだった。だから突然現れたリュシアンに驚き、とっさに取り繕おうとする。


「へ、陛下……今夜お越しになるとは知らず、みっともない姿を……」


「気にせずともよい」


 涙を拭い慌てふためくアンジェリーヌに優しく声を掛けると、リュシアンは彼女と向き合うようにベッドに腰を降ろした。


 リュシアンはアンジェリーヌの様子が己の予想通りだったことで驚きはしなかったものの、彼女の受けた哀しみを思うと胸が痛んだ。


「ジャンから話を聞いたのだね?」


「はい。……陛下、ジャンを止めて下さい。陛下なら止められるはずです。私みたいな者が王族にいて、産まれながらの王族のジャンが貴族へ降るなんて……。私さえいなかったら何も起こらなかったのに。自分で自分が許せない。そんな思いすら……」


「私でももう止められなかった。ジャンの決意は固かった。……許せ、アンジェリーヌ」


 苦い言葉を口にしたリュシアンにアンジェリーヌは思った。この人も己の無力さを悔んでいるのだと。誰よりも頼りにしていた、身近に感じていた弟を失うことなど、この人が望むはずはないのだと。


「いえ、私こそ言葉が過ぎました。申し訳ございません」


「よい。そなたもあまり己を追い詰めるな」


 気遣うリュシアンの言葉が優しくアンジェリーヌの心に染みた。


 アンジェリーヌの心にふとジャンの言葉が蘇る。リュシアンに惹かれているのだと。それが本当ならこんなリュシアンの包み込む優しさに惹かれているのかもしれないと思った。


「アンジェリーヌ、大事な話をするからよくお聞き」


 リュシアンがじっとアンジェリーヌを見つめ語り掛けてきた。その真剣さに思わずアンジェリーヌはごくりと息を呑んだ。


「そなたはジャンと共にこの国から逃亡しなさい。もうこの方法しかそなたをジャンの許へ返せないのだ。ジャンが王族のままであれば王妃を再婚させるという前例のないことも出来るのだ。そのジャンが貴族になってしまったら、もうそんなことも完全に不可能となってしまう。ジャンは必ず説得する。ジャンには私から手筈を伝えておくから」


 リュシアンの計画にアンジェリーヌは驚きを隠せなかった。国王たる者が、その妻と弟を国外へ逃亡させるなど許されるはずのないことだ。


「無茶です。そんなことをしたらあなたの立場が……。私とジャンがあなたを追い詰めて苦しめてしまう。そんなこと私もジャンも望んでいません!」


 国を裏切り逃亡すれば追っ手がかかる。捕まればまず死罪。家族にも多大な罪を背負わせることになる。


 そのすべての判決を下すのはリュシアン本人なのだ。もし国王が手引きしたと分かれば、リュシアンはもはや貴族にされるがままの国王という飾り人形にされてしまう。それどころか譲位しなければいけないかもしれないのだ。


「私の立場のことは考えなくていい。そなた達を決して誰にも追わせない。私のすべてを懸けて約束する!」


 リュシアンの思いがアンジェリーヌを貫く。この人のどこにこんな熱い思いが隠されていたのだろうと思った。


 リュシアンはふとアンジェリーヌから目を逸らすように俯いた。その瞳には暗い影が落ちていた。


「私はそなたの父の命を奪ってしまった。私はもうそなたから何も奪いたくないのだ。……アンジェリーヌ、私が望むのはただ一つ。そなたが幸せでいてくれること。そのためなら私は何だってする。それでしかそなたの父に報いることは出来ないのだから……」


 リュシアンの懺悔の念に、彼の心に巣食う闇をアンジェリーヌは感じ取っていた。


(お父様の一件を陛下はこれほどまでに重く受け止めておられる。陛下のせいではないのに、その罪を背負って生きていく覚悟をしておられる)


 この人は回りで起こることすべて己の身に受けて生きていこうとしているのではないだろうかと思った。


 リュシアンの痛々しくやつれた表情がそれを物語っていた。ブランシェス男爵の死だけでなく、王族に近い血を持つカロンヌ公爵の処刑、カミーユ王子への処分。それだけでもリュシアンの心が苦悩するには充分だった。彼らへの罰が適当であったか、果してこれでよかったのか、リュシアンは思い悩み、夢にうなされることもたびたびあった。


(この人をこのまま放っておくことは……出来ない)


 孤独な国王という地位をたった一人でこなそうとしているリュシアンのその手を、アンジェリーヌはそっと握った。


「アンジェリーヌ?」


 彼女の行動にリュシアンは意外そうに彼女を見つめた。


(国王とはいっても生身の一人の人間。そんなことも気づけず、私は王妃なのにこの人一人にすべてを背負わせてしまっていた。この人も私と同じように……いえそれ以上に辛く苦しい思いを抱えていたというのに……)


 アンジェリーヌの胸にサーボワールでの出来事が蘇った。目の前で多くの命が一瞬にして消えてしまった。それを行ったのはこのリュシアン。あの時は自分のことで精一杯だった。けれども今にして思えば、あの時リュシアンはどれほど深く傷ついていたことだろう。


(この優しい人が命を奪っておいて心を痛めないわけがないのに!)


 守ってあげたい、この人を。もう誰も無闇に死なせてはならない。彼が神の血の力を使わなくても済むようにしてあげたい。もし使うことが起こっても、二人でその責任を背負っていきたい。


(この人の思いを共に分かち合っていきたい)


 アンジェリーヌは今はっきり自覚した。


 王妃としての自分の役割を。


 ―――リュシアンへの想いを。


「お慕いしています。……私は陛下を愛しています」


 ようやく悟った自分の心にアンジェリーヌは涙が込み上げてきた。


「……アン……ジェリー…ヌ?」


 彼女の言葉にリュシアンは戸惑った。アンジェリーヌが愛しているのはジャンだと思ってきたからだ。


「私を気遣っているのか? 私のことは置いておいて、まずジャンとのことを……」


 アンジェリーヌは首を横に振る。


「……やっと自分の心が分かったのです。今もジャンを愛しています。けれども確かに陛下のことも愛しているのです。こんなこと信じられないかもしれませんが、同時に二人の男性を愛していると分かったのです」


 すべてを捨ててジャンを選べなかったのは、周りの人々を思ってのことだけではなく、もしかしたらリュシアンを一人にしたくなかったという思いがあったのかもしれないと、今となっては思えた。


「そなたは私にジャンを重ねて見ているのではないか?」


「いいえ。確かに外見はとてもよく似ています。でもお二人はそれぞれの愛し方で私を愛して下さいました。ジャンはまるで一瞬にして業火に包まれ何もかもを焼き尽くしてしまうような熱く激しい愛を。陛下は自然の澄んだ空気のような穏やかでいつも私を後ろから包み込んでくれる優しい愛を。私はいつの間にかそれぞれの愛し方に、二つの心で応えていたのです」


 アンジェリーヌは言葉を口にするとリュシアンを愛している自分をことさらに実感し、穏やかに微笑みさえ浮かべていた。その瞳からはずっとリュシアンの心に応えたいと思ってきた、その願いが叶ったことから静かに一筋の涙が流れ落ちていた。


 アンジェリーヌはリュシアンの手をぎゅっと握り締めた。


「私は陛下と共に生きていきます」


 リュシアンはなおも戸惑っていた。このままアンジェリーヌの想いを受け入れてよいものか悩んだ。


「私を選ぶというのか? ……ジャンを諦められるのか?」


 アンジェリーヌのジャンへの想いは痛いほど分かっている。その想いを捨てて後悔はないのだろうかと彼女の心を心配していた。


 アンジェリーヌは彼の目を見てしっかり頷く。


「ジャンが自分に相応しい道を決めたように、私は私の進むべき道をたった今決めました。私の選んだ道はこの国の礎になること。紅の女神として、そして一人の女性として陛下を愛し、陛下と共にこの国を愛し守っていきたいのです」


 アンジェリーヌの心を知り、リュシアンは初めて彼女を抱き寄せた。初めて感じる愛する女性の温もりに少し戸惑いながらも、溢れ出る愛でアンジェリーヌを包み込んだ。


 アンジェリーヌはリュシアンの胸の中で瞳を閉じた。


(お父様、私は私に相応しい生きる道を選びました。後悔はしません。あなたが最期に残してくれた「生きろ」という言葉通り、私はここで精一杯生きていきます。……そしてジャン。私はあなたとの日々を一生忘れることはないでしょう。きっと少女時代の記憶として心の中で永遠に輝き続けるでしょう。あなたを愛したこと、後悔しません。あなたに愛されて私は本当に幸せでした。……さようなら私の愛したもう一人の男性、ジャン・アルフレード・ドゥ・サンルブラン)


 アンジェリーヌは漠然と少女時代が過ぎ去って行ったことを感じていた。


 リュシアンの手がアンジェリーヌの頬に触れる。


「アンジェリーヌ、愛している。私と共に生きていってくれるか?」


 アンジェリーヌは静かに頷き、その瞳を閉じた。


 初めてのリュシアンとの口付け。そっと触れた唇の温もりから伝わってくる愛がアンジェリーヌには愛しかった。


「陛下、……私を本当の妻にして下さい」


 優しくアンジェリーヌの髪を撫でていたリュシアンの手が止まる。


「急がずともよい。そなたの心が落ち着くまで私は待っているから」


 そう言って微笑むリュシアンを見つめ、アンジェリーヌは今の正直な心を伝えたくて口を開く。


「私に証を下さい。この国で、陛下の傍で生きていく証を。今日のこの想いと決意を私の心にしっかりと刻み付けたいのです」


 リュシアンへの想いと彼と歩んで行くと決めた心を、一生忘れることのないようにしたかった。


「本当にいいのか? ……そなたを我が妻にして」


「はい、陛下」


 アンジェリーヌの迷いのない返事を聞き、リュシアンはもう一度唇を重ねると彼女をそっと横たえた。真っ直ぐ見上げてくるアンジェリーヌの額にかかる前髪をかきあげながらリュシアンは囁くように言う。


「こうしている時は……国務から解放されている時は名前で呼んでくれないか? リュシアンと」


 彼の望んでいることがアンジェリーヌにも分かった。陛下ではなくリュシアンと呼ばれる時にだけ彼は国の重圧から解放されるのだ。それは自分がジルダに言ったことと同じ思いに違いないと思った。


 そして以前ジャンも言っていた。愛する者の前では一人の人間として在りたい。身分など関係なく一人の男として存在したいと。リュシアンもまたそれを望んでいるのだろうと。


「リュシアン、愛しています。心から……」


 リュシアンはアンジェリーヌの心からの言葉に微笑みを浮かべた。


 そして初めて目にするアンジェリーヌの紅の女神の印にそっと唇を当てる。


「この印に誓おう、そなたを永遠に愛すると。……必ず幸せで満たすと」


 ―――アンジェリーヌはその夜、名実ともにリュシアンの妻となったのだった。

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