(13)
(お父様逃げて! ……お父様―――!!)
父の断末魔。広がる血溜り。
絶命した父を前に、その両手を血に染めたアンジェリーヌは悲鳴をあげた。
「アンジェリーヌ、……アンジェリーヌ!」
懸命に呼び掛ける声がアンジェリーヌを現実へと引き戻す。
アンジェリーヌははっと目を覚ました。その額には冷や汗が浮かび、瞳からは涙が流れ落ちていた。呼吸も荒い。
アンジェリーヌは自分がまた夢を見ていたことを悟る。
あの事件から一週間が過ぎていた。
毎夜毎夜見る悪夢。
夢の中でアンジェリーヌは毎回父を惨殺され続けていた。
どうしても父を助けられない。
脳裏に焼きついた父の最期の姿がアンジェリーヌに悪夢を見続けさせる。
アンジェリーヌの見た最期の父の姿。それがあの「生きろ」と言い残したロドリグの姿だった。
一国の王妃の身で、下級貴族の一人に過ぎないブランシェス家の葬儀に出席することは許されなかった。それ故アンジェリーヌの心には父の死が惨い形で刻まれてしまっていた。
彼女に出来たのは宮殿内の教会で、遠くから父に祈りを捧げることだけだった。
「アンジェリーヌ」
彼女の手を両手で包み込んでいたジャンが、その片手を離し彼女の涙を拭う。
「内に溜めるな。俺には心を曝け出していいから。辛い思いは吐き出せ」
優しく語り掛けてくるジャンに、アンジェリーヌはその身を起こし彼に抱き付いて声をあげ泣いた。
ジャンはアンジェリーヌを大切に包み込む。
あの事件が起こってから、毎夜ジャンはアンジェリーヌの私室で彼女に付き添っていた。
夜だけではない。
惨い事件で憔悴しきったアンジェリーヌは国務から遠ざかり、私室で一日のほとんどの時間を過ごしていた。それも病人のごとくベッドに横になっていることが多かった。
リュシアンは国務をこなしながら、イレールと共に事件の首謀者の割り出しと全貌の解明に奔走している。昼夜問わず事件解明に乗り出すリュシアンは、この状況でとてもアンジェリーヌの傍で彼女を支えることが出来ない。
そこでリュシアンはジャンにずっとアンジェリーヌに付き添うよう頼んだのだった。
本来なら王妃の私室に国王以外の男性が入ることは許されない。だがこの緊急事態に、リュシアンは掟よりもアンジェリーヌの身を案じて出来るだけのことを彼女にしてやりたかった。
王妃に無理に即位させてしまった上に父親までも奪ってしまった。そのことがリュシアンに後ろめたさを感じさせていた。
そして何よりジャンが彼女にとって一番頼りになる存在と知っていたから、自分ではなくジャンを彼女の傍に置いたのだった。
彼女の世話係のジルダは、初めジャンが王妃の私室にいることに戸惑った。
ジルダはリュシアンから、ジャンとアンジェリーヌが恋人同士だったこと、王妃になったわけ、そして今回の事件のことも聞いていた。だがもし万一この二人が密通などということになってしまったら……と案じていたのだ。
だがそんな不安も二人の様子を見ているうちに不要なものと解消されていった。
心に深い傷を負ったアンジェリーヌに無償の愛を注ぐジャン。
ただアンジェリーヌを守りたい。そんなジャンの思いがジルダに痛いほど伝わっていた。
ジャンの胸の温もりに、アンジェリーヌの心が徐々に落ち着いてきた。そこへ部屋の扉が不意に開いたのだった。
アンジェリーヌはその音にはっと気づき、ジャンの胸から身を起こし扉に目を向ける。
「……陛下」
そこにはリュシアンが一人で立っていた。
アンジェリーヌはベッドから降り、リュシアンを出迎えようとする。
「そのままでいいから」
それを見たリュシアンはアンジェリーヌを気遣い静止した。
リュシアンの優しさをアンジェリーヌは申し訳なく感じた。
自分は国務から外れジャンに甘えてしまっている。それなのにリュシアンは一人で通常の国務をこなしている上に、今回の事件の犯人追及に力を尽くしている。その上こんなにも気を遣ってくれているのに、自分は何もリュシアンにお返しをしていない……と。
リュシアンの疲労を濃く滲ませた表情を見ていて、アンジェリーヌはただ頭を垂れる思いだった。
リュシアンがベッドに歩み寄る。
「今日そなたの母上が来たよ」
「お母様が?」
「そう。お父上の後継者の許しを得にね。そなたに会わせたかったが、母上は立場を重んじて辞退してしまったよ」
貴族の後継者となるには国王の許しが必要である。
「母はどんな様子でした? 誰が後を継ぐことになりましたか?」
アンジェリーヌは胸を痛めていた。夫を奪った娘を憎んでいるだろうと。あれほど重んじていたブランシェス家を途絶えさせてしまうところだったと。
「バティストという青年が養子に入って継ぐことになったよ。ロドリグはいつ何があってもいいように遺言を残していたそうだ。そなたに継がせることが出来なくなった後、きちんと遺言を書き直していたのだそうだよ」
「そう……、バティストなら安心して男爵家を任せられるわ」
彼をアンジェリーヌは兄のように慕っていた。彼なら画家としての資質も人間性も信頼出来ると思った。
「それから母上はそなたを案じていたよ。傍にはいられないがいつでもそなたのことを思っていると。離れていても娘への愛は何一つ変わらないと。きっと夫も見守ってくれているはずだとも言っていたよ」
アンジェリーヌの心に両親の姿が浮かび、その愛情に涙が溢れた。
ジャンがアンジェリーヌから離れた。アンジェリーヌはジャンと目を合わせる。
「兄上が今夜はお前を守ってくれるから」
ジャンは心細そうな眼差しを向けてくるアンジェリーヌを安心させるように微笑んだ後、リュシアンを見る。
「後は頼みます、兄上」
アンジェリーヌをリュシアンに託そうとしたジャンを、リュシアンは小さく首を振って止めた。
「今日は報告に来ただけだから。今夜も傍にはいられない。いや、しばらく今まで以上に忙しくなるだろう」
思い詰めたように顔を強張らせてリュシアンが言った。
「……報告?」
リュシアンの暗い表情にジャンは呟いたが、次の瞬間思い当たり目を見開く。
「首謀者が分かったのか!?」
その言葉にアンジェリーヌは驚きジャンを見て、本当かどうかすぐさまリュシアンに視線を注いだ。ジャンも食い入るようにリュシアンを見つめる。
リュシアンは二人の瞳を見つめ返し、深く一度息を吸うと無言で頷いた。
捜査は難航していた。ポベール子爵に命令したサンペーニュ伯爵もまた首謀者ではなく、彼は裏切らないよう家族を人質に取られていた故に口を堅く閉ざしていた。その彼がようやく吐いたのだ。
「陛下、誰なのです? 誰が父を殺したのです!?」
アンジェリーヌの心がまだ見ぬ首謀者への憎しみに駆られた。
出来ることならこの手で敵を討ちたい。父の味わった恐怖と苦痛を少しでも敵に味あわせてやりたい。
無理なこととは知りながら、そう思わずにはいられなかった。
「今その者の許へ兵を向かわせている。敵は必ず取るから」
リュシアンの言葉はアンジェリーヌの憎しみを留めようとしていた。
リュシアンを見上げるアンジェリーヌの瞳から涙が零れ落ちた。
「教えて下さい。誰が何故父を殺したのかを。……やはり私みたいな身分の低い者が王妃の地位に就いたことで、他の貴族の恨みをかったのですか?」
敵を憎み、父を死に追いやったのは己のせいと自分を責めるアンジェリーヌの心に、リュシアンは胸を痛める。
「アンジェリーヌ、私はそなたにまず詫びねばならない。そなたの父を死なせてしまったのも、そなたを危険な目に遭わせてしまったのも……今回の事件そのものがすべて私のせいで起こったことなのだから」
「陛下の……せい?」
アンジェリーヌのリュシアンの言葉を信じられない呟きに、リュシアンは頷いた。
「それでは兄上、犯人の目的はやはり?」
確認するようにジャンが言うと、リュシアンはもう一度頷き口を開く。
「首謀者は私を亡き者にし、カミーユを王位に就けようとしていたのだ。神の血を持つ者ではなく、本来の正当な血筋の直系に王位を戻すために……。それでまず神の血の力を封じるために、紅の女神であるそなたを殺そうとブランシェス男爵を利用したのだ。だからアンジェリーヌ、そなたは何も悪くない。悪いどころか逆にそなたも王家の継承争いに巻き込まれた犠牲者の一人なのだ。……すべては王家の、この私のせいなのだ。本当に済まないことをしてしまった」
リュシアンはアンジェリーヌに頭を下げた。
アンジェリーヌはすぐに言葉が出てこなかった。
王妃などという身分不相応な地位に就いたから父が犠牲になってしまったのだとずっと己を責めてきた。それが違うと分かり、神の血と王家の系統のためだと知り動揺した。だが自分が紅の女神でなければ、継承争いは起こったかもしれないが、父が殺されることはなかったのだとも思った。
紅の女神だからと王妃に望まれ、心が血の涙を流すほど悲しい思いをしてジャンと別れた。それなのに神の血ではなく血統を重んじた貴族によって、今度は紅の女神だからと命を狙われた上に敬愛する父を殺されたのだ。
(私が紅の女神であるためにお父様が……。陛下は私のせいではないと言って下さったけれど、やっぱり私のせいでもあるのよ)
ロドリグの最期の姿が脳裏の蘇り、やり切れない思いでシーツを握り締めた。
「兄上、それで黒幕は誰だったのだ?」
ジャンの問いかけにリュシアンの表情が陰る。リュシアンは重々しくその口を開いた。
「……カロンヌ公爵だ」
ジャンはショックから目を見開き何も言えず、アンジェリーヌもまた愕然とし言葉を失った。
リュシアンは二人の、特にジャンの反応を自分の姿を映し出しているように感じながら見つめていた。
神の血を知る者が黒幕ならば、それは大臣クラスの国の中枢を担っているうちの一人だろうと覚悟はしていた。だがあまりの大物の人物に、リュシアンもまたそれを知った時、動揺せずにはいられなかったのだ。
「カロンヌ公爵がずっと王家の血筋の正当性を重んじ、愛人の子の私達を快く思っていなかったことはお前も感じていただろう。あの厳格な人は最後まで正当性を貫き通そうとした。やり方は間違っていたが、あの人こそ本来の王家に忠誠を示した稀に見る家臣だったのかもしれない」
王家のことを思えばこそ、その血筋の正当性を唱え続けた男。
リュシアンには彼の考えがすべて間違っていたとは言えなかった。
「兄上は公爵を許すのか?」
直系でない身で王位に就いた後ろめたさを心に抱き続けている兄リュシアンに、カロンヌ公爵を裁くことが出来るのかとジャンは問う。
リュシアンの表情が厳しくなった。
「カロンヌ公爵の考えは理解出来るが、彼が犯したのは男爵の殺害と共に王妃国王の暗殺を企てた罪。恐らく裁判でも厳しい判決が出るだろう。私も公爵には極刑を望むつもりだ」
アンジェリーヌの心は複雑だった。
父を手に掛けた者に死が与えられようとしている。敵が取れるのだ。だがそれを告げたリュシアンの辛い表情を見ると、私的感情を押さえ国王としての立場を取る彼の苦悩が、アンジェリーヌの胸に痛みを与えていた。
リュシアンが本当は極刑を望んでいないことを、彼の優しさを知るアンジェリーヌは分かっていた。しかし犯した罪の大きさに、国王として罪を許さないことは、家臣の手前避けることの出来ないものなのだ。
そして極刑が下されても、二度と父が戻ってくることはないのだと虚しさもあった。
「アンジェリーヌ、そなたには刑の執行に立ちあう権利があるが、どうするかそれまでに考えておきなさい。……恨みを晴らしたい気持ちが分からぬではないが、私としてはあまり死刑を見せたくはない。でも選ぶのはそなた自身だ。よく考えてから決めなさい」
リュシアンはそう告げると再び務めに戻って行った。
これから兵がカロンヌ公爵を捕らえ連行して来る。それに備えておかなければならなかった。
残されたジャンとアンジェリーヌはこれから起こることを想像し、重々しい雰囲気を漂わせるのだった。