(11)
アンジェリーヌの十六歳の誕生日が間近に迫っていたある日のこと。
アンジェリーヌは私室で紅茶を飲みながら束の間の自由な時間を過ごしていた。
同じテーブルには彼女の身の回りの世話を任されているジルダ・ロ・クローデルもいる。
ジルダはクローデル伯爵夫人であり、アンジェリーヌよりも七歳ほど年上ある。
王妃の世話係ともなればそれなりの地位の女性が勤めるもの。そこで人柄のよいジルダに白羽の矢が立ったのだった。人選はリュシアンが行った。アンジェリーヌに最良の人をつけたかったのだ。ジルダは伯爵夫人として家にいるよりも、一人の人間として自立してみたいと思っていたので快くこの話を承諾した。
気取らず裏表のないジルダに、アンジェリーヌは彼女に対し姉のような気持ちを抱くようになっていた。
宮廷に親しい女友達のいないアンジェリーヌにとってジルダの存在は大きかった。そこで私室でもこうして同席させるほどジルダを大切に扱っていた。
人前では王后陛下と呼ばれるアンジェリーヌも、プライベートではジルダから「アンジェリーヌ様」と呼んでもらっている。ジルダも初めは王妃であるアンジェリーヌを皆と同じに王后陛下と呼んでいたが、アンジェリーヌ自身が望んだためプライベートでは名前で呼ぶようになっていた。
アンジェリーヌが素の自分に戻れる数少ない人物、それがジルダであった。
「アンジェリーヌ様、私手紙を一通預かっていますの」
そう言ってジルダは白一色の封筒をアンジェリーヌに手渡した。
アンジェリーヌは受け取ると封筒の表裏を見る。表には「親愛なる王后陛下様」とあり、裏にはよく知っている人物の名が記されていた。
「ブランシェス男爵……お父様からだわ」
アンジェリーヌは嬉しそうに微笑んだ。
「そういえばアンジェリーヌ様の実のお父様でしたわね」
男爵の娘であるアンジェリーヌに対して、伯爵夫人のジルダは決して見下したり冷たく当ったりはしない。本来なら格下の身分であるアンジェリーヌに仕える立場ともなれば快くは思わないのが当然だが、ジルダは身分の上下よりも人間の本質を大切に思う人柄だったのでアンジェリーヌに対しても親身になって仕えていた。
「ジルダ、お父様にお会いしたの? 元気そうだった?」
ここ一か月ばかり会っていないアンジェリーヌは、様子が知りたくてジルダに尋ねた。
「いえ、私も人づてにお渡しするよう頼まれただけですので男爵の姿は見ていませんの。ごめんなさい」
ジルダは申し訳なさそうに答えた。
「そうなの……。もしお父様の姿を見かけたら、どんな様子だったか私に教えてね」
「ええ。必ずご報告致しますわ」
アンジェリーヌとジルダは顔を合わせると互いに微笑んだ。
封筒を開けようとしたアンジェリーヌの手がふと止まる。
父の名の横に一言記されていたからだ。「一人の時に読むように」と。
(何かしら?)
人に知られてはならないような内容なのだろうかと思った。あの厳格な父が、表向きは他人となった娘に手紙を書いてよこすとは、考えてみればどうもピンとこないことだった。
(家に何かあったのかしら?)
何故だか不安が胸をよぎる。
「アンジェリーヌ様、どうかなさいました?」
先ほどの嬉しそうな笑顔とうって変わった浮かない表情のアンジェリーヌに、ジルダが心配そうに声を掛けた。
アンジェリーヌは俯いた。
何が書いてあるのか早く知りたい。だから一人にして欲しいとジルダに言ってもいいだろうか……と。
「あの……ジルダ、これ……」
アンジェリーヌは戸惑いながら父からの手紙をジルダに差し出した。ジルダは封筒に書いてある言葉でアンジェリーヌの心を察し席を立った。
「私少し席を外します。何かありましたら私室にいますので」
そう言うとジルダは宮殿に用意されている自分の私室へと向かった。
ジルダの姿が消え部屋に一人になると、アンジェリーヌは緊張の面持ちで封を開けた。
きっと大した用件ではない。心は自ずとそう願っていた。
中にはこれもまた封筒と同じ真っ白な便箋が一枚だけ入っていた。
アンジェリーヌは中から取り出し、広げ、文字を目にする。瞬間アンジェリーヌは真っ青になり、ショックから便箋を握り締めていた。
「お…父…様……が」
いてもたってもいられず立ち上がったアンジェリーヌだが、足に力が入らず床に膝から崩れ落ちてしまった。
(どう……して?)
アンジェリーヌの頭は混乱し、瞳は愕然と一点を見つめていた。
便箋に書かれていた言葉。
『父親の命を助けて欲しくば翌朝サーボワールの森へ一人で来られたし。このことを他人に漏らした場合、来なかった場合は父親の命はない』
父ロドリグが何者かに誘拐されたのだ。
何の目的でロドリグを誘拐したのか、アンジェリーヌは動揺し混乱した状態の頭で考える。
(……王家の財産欲しさから? いいえ、私には自由に出来る財産など多くはない。それならば私を誘拐して陛下に要求する方が高額を狙えるはず。……狙いは私自身、私の命ということ? 本来なら王妃に相応しくない私がその地位についたことを快く思わない人物が、私を排除しようとしているの……?)
きっとそうだと思った。他に思い当たることが浮かばなかった。
自分の考えが合っているのか間違っているのか自信などない。ただ一つはっきりしているのは自分一人で父を助けに行かなければということだけ。
(私のことでお父様を巻き込みたくはなかったのに……)
リュシアンとの結婚を選んだのも家族を失いたくなかったから。それなのにまた自分のために家族の命を危険に晒してしまったことに、アンジェリーヌの心は痛んだ。
そして思う。たとえ自分はどうなっても父の命だけは守りたいと。
アンジェリーヌは次の務めの始まる前までに懸命にこのことを悟られまいといつも通りの自分を保つ。
―――誰にも知られてはならない。
父の命を守ろうと、アンジェリーヌの心は必死だった。その必死さがリュシアンにもジャンにもイレールにさえも、彼女の異変を感じさせることなく一日が過ぎていった。
その間再びジルダと二人になったアンジェリーヌは彼女に一つ頼み事をしていた。就寝前までに男物の服を一着用意して欲しいと。それもできれば質素な物をと。
聞いたジルダは一瞬何故かと思った。アンジェリーヌがそんなことを頼んだことなど一度もなかったからだ。しかしきっと今夜一晩リュシアンがこの部屋で過ごすから、明日着る物を用意して欲しいという意味なのだろうと思ったのだった。
王家に嫁ぐ前ならアンジェリーヌも動きやすい服の一着や二着は持っていた。しかし王妃となってからはもっぱらドレスのみを着用している。そんな格好ではとても宮殿の外に出られない。
ましてやサーボワールの森はモンシェルジュリーの森と調度宮殿を挟んで反対側に位置しており、馬でないととても行けない距離だ。
しかもアンジェリーヌがまだ一度も行ったことのない未知の場所。女一人で行くには変装しないで行くことが出来るような場所ではないと思ったのだ。
幸い今夜リュシアンはアンジェリーヌの部屋へ来ることはない。昨夜来たばかりだからだ。相変わらず他愛のない話をしてベッドを共にすることのない夜を過ごしている。リュシアンが部屋を訪れるのは大体三、四日置き。昨日の今日で来るはずはないと思ったのだ。
アンジェリーヌはジルダに用意してもらった服を目の前に、その夜は一睡もすることなくただ椅子に座ってじっとその時が来るのを待っていた。ひたすら父親の無事を祈りながら……。
やがて窓の外の景色が夜の闇から徐々に白みを帯びてきた。夜が明け始めたのだ。
アンジェリーヌは立ち上がり、髪は後ろに一つに縛り服を着替える。リュシアンのサイズで作られた服はアンジェリーヌには大きかったが、そのおかげで襟で顔が隠れたので都合がよかった。
アンジェリーヌは自分の部屋からそっと抜け出し馬屋へ向かった。
宮殿には夜明け前とあってまだ人は警備の者がいるだけ。誰も王妃のアンジェリーヌが外へ出ようとしていることなど気づきもしない。
アンジェリーヌは馬を一頭連れ出し騎乗すると門へ馬を走らせた。
門は閉じられている。
アンジェリーヌは門番に開門を命じる。王妃だと気づかれないよう声を低く発し、義理の父である公爵の遣いだと告げると、門番は公爵の名に逆らえず門を開けた。
アンジェリーヌは夢中で馬を走らせた。
父を助けるためならば自分はどうなってもいいと、まるで呪文のように繰り返し心の中で唱えていた。
一度も来たことのない地域であることが災いして、途中道に迷ってしまった。そうこうしているうちに夜が完全に明けてしまい、街にも人が行き来し出した。
アンジェリーヌは焦る。道に迷っている場合ではないのにと。
仕方なく道行く人に尋ね、馬を全力で走らせた。
(間に合って!)
アンジェリーヌはようやく着いた森の中を、父の姿を捜しさ迷った。
(どこ? ……どこにいるの、お父様!)
アンジェリーヌの心は焦りを増すばかり。
「お父様!」
堪らず声に出して呼び掛けた。何度か呼びながら馬を駆けさせていると、大きめの洞穴に出くわした。
アンジェリーヌはその入り口に立つ人影を見つけ凍りついた。
そこには後ろに手を縛られ剣を突き付けられ身動きを封じられた父ロドリグがいたのだった。
* * *
宮殿では西の塔の教会で毎朝王家が行っているこの国の繁栄の祈願と先祖への祈りが始まろうとしていた。
ジルダがアンジェリーヌを呼びに来くると、部屋はもぬけの殻。
ジルダはアンジェリーヌがリュシアンの部屋へ出向いているのだと思い、リュシアンの部屋へアンジェリーヌを迎えに行く。彼女を連れ戻り、朝の身支度を手伝うために。
だが事態はジルダの予想を覆すものだった。
「王后陛下はこちらにいらっしゃらないのですか? お部屋にいないものですからついこちらにいらっしゃるものとばかり……」
リュシアンはジルダの言葉に怪訝そうな顔をする。
「部屋にいない……?」
こんな朝早くから一体どこへ行く用事があるのだろうか。
リュシアンは嫌な予感がした。
「もう一度アンジェリーヌの部屋へ行ってみよう。戻っているかもしれない」
リュシアンに促されジルダは彼の後についてアンジェリーヌの部屋へ向かった。だがやはりアンジェリーヌの姿はない。
「ジルダ、アンジェリーヌはどこへ行くとか言っていなかったか?」
「いえ。特別には何も……」
ジルダはアンジェリーヌと交わした会話を必死で思い出すが、今日どこかへ行くからとは何も聞いていないと思うばかり。
「変わった様子はなかったか?」
聞いたリュシアンもアンジェリーヌはいつもと同じだった気がしていた。
ジルダも首を傾げる。
「変わった様子はなかったと思います。……変わったことといえば、王后陛下の実のお父様から手紙があって喜んでおられたこと。そうですわ、男物の服を一式用意して欲しいと……。私てっきり陛下がお召しになるとばかり思っていましたけれど違ったのですか?」
リュシアンは訝しげにジルダを見た。
アンジェリーヌに服を用意して欲しいと言った覚えはない。彼女は何故そんなことをジルダに頼んだのだろうか。ジャンにでも用意したのだろうかと思った。
「ブランシェス男爵の手紙には何が書いてあったのだ? 喜んでいたそうだが」
「いえ、私は何も存じません。手紙には一人で読んで欲しい旨が書かれてありましたので、私は席を外していました。ただ手紙を受け取った時は嬉しそうでしたが……」
リュシアンは寝室に入るとベッドを見た。昨夜そのベッドを使った形跡はない。リュシアンはふとベッドの脇の台にある白い封筒を目にした。
「これが男爵からの手紙か」
これが原因かもしれない。そう直感したリュシアンはアンジェリーヌの了解もなしに私物を見ることを一瞬躊躇ったが、そうもいっていられない状況に便箋を取り出す。
リュシアンは内容を知ると息を呑んだ。アンジェリーヌの命が危険に晒されていると知ったからだ。
「この手紙は誰から受け取った?」
「クレール伯爵からですわ。でも伯爵も頼まれただけだそうです」
誰が首謀者なのか、この手紙からでは分からない。痕跡を残さぬようあえて真っ白な物が使われたのだろうと思った。
「ジルダ、イレールをすぐジャンの部屋へ呼んでくれ。大至急だ、よいな!」
「は、はいっ」
リュシアンの命令に驚きつつも、ジルダは慌てて駆け出して行った。
リュシアン自身もジャンの私室へ急ぐ。
男爵ごとき娘が王妃へ就いたことへのアンジェリーヌの抹殺か。それとも紅の女神である彼女を抹殺し、本来なら後継ぎではなかった神の血を持つこの自分を排除するためか。
(どちらにしてもアンジェリーヌが危ない!)
「ジャン、いるか!?」
早朝から大声で駆け込んできたリュシアンにジャンは驚いた。
「兄上? そんなに急かさなくても朝の祈りにはちゃんと出るから」
リュシアンが朝の祈りに出るよう言いに来たと思ったジャンは、もう用意出来ているとばかりに身支度を整えた姿で振り返った。そんなジャンにリュシアンは厳しい表情でつかつか足早に歩み寄ってくる。
「アンジェリーヌの命が危ない」
突然予想外のことを告げられジャンは眉を顰めた。
リュシアンはジャンに手紙を突き付ける。
「こ……れは、何故こんなことに?」
ジャンは顔を強張らせた。
リュシアンは頷く。
「ブランシェス男爵を利用してアンジェリーヌを抹殺するつもりだ。恐らく王妃としてのアンジェリーヌを邪魔に思うものか、神の血の持ち主の私を消すために紅の女神をまず排除しようと考えている者が仕組んだのだろう」
リュシアンの言葉を聞き終わらないうちにジャンは剣を掴んだ。愛する者を守るために。
「朝の祈りなんてやっている場合じゃない。すぐサーボワールへ行く!」
その時ジルダに呼ばれたイレールが姿を見せた。
「イレール、アンジェリーヌが誘き出された」
リュシアンは手紙の内容を手短にイレールに言った。イレールはアンジェリーヌの身が危険に晒されていると瞬時に察知した。
「私はジャンと共にアンジェリーヌを助けに行く。イレールは首謀者を捜し出せ。ただし大事にはするな、よいな!」
「陛下お待ち下さい。陛下自ら行かれるのは危険です。ここはジャン殿下と兵を出して……」
「私が行かなくてどうする! 彼女を王家の事情に振りまわした上に命の危険に晒せてしまったのは私のせいだ。私が彼女を守らなければならない。それに紅の女神を失うことはそなた達大臣にとっても望まざることではないか。もしかしたら神の血の力が必要になるかもしれない。私を止めるな、イレール!」
「しかし陛下の身に何かあれば……」
「私の代わりにはカミーユがいる。だが私にとっての紅の女神はアンジェリーヌただ一人。もう時間がない。行くぞ、ジャン!」
有無を言わせないリュシアンの言葉に、イレールはもはやリュシアンを止めることは自分には出来ないと観念した。
幼き頃より仕えてきたが、ここまで自分の意見を強引に押し通すことは、ジャンならともかく穏やかなリュシアンにはないことだった。それほどまでにリュシアンがアンジェリーヌを愛していることも、イレールは今更ながら分かった気がした。
イレールは宰相として国王であるリュシアンを止めるべきだと分かってはいた。だがリュシアンの内に秘めたアンジェリーヌへの深い愛と彼女に向けられた刃への怒りを前に、彼の行動を一人の人間として止めるべきではないと思った。
そんなイレールの肩に、リュシアンに続いて部屋を後にしようとしていたジャンがすれ違い様に手を置き囁くように言う。
「イレール安心しろ。いざとなったら俺が盾になってでも兄上とアンジェリーヌを守るから。……必ず」
そのまま急ぎ出て行ったジャンをイレールは意外な思いで振り返った。ジャンの言葉が今まで感じたことのないほど頼もしかったからだ。
アンジェリーヌへの愛に苦しみ、酒と女に逃げていた頃のジャンからは想像出来ないほどの力強さ。
イレールはこの状況下でジャンを信じ任せようと思う自分がいることを心のどこかで感じていた。