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(10)

「まさかこのような形で娘の肖像画を描くことになろうとは……」


 ロドリグが寂しげに呟いた。


 ここは宮殿の一室。王家が客人を招く部屋である。


 部屋には二人だけ。気を遣ったリュシアンが実の親子である二人に時間を与えてくれたのだった。


「いや、もう私の娘とは呼んでいけなかった。今お前は公爵家の娘、そして王妃となったのだから」


 父の言葉にアンジェリーヌは寂しそうに微笑んだ。


「私は今でもロドリグ・ラ・ブランシェスの娘よ。……心の中では永遠にあなたの娘です」


 ロドリグは娘の思いに心を打たれた。それを隠すように画材道具を片付けていく。


 やがて片付け終えたロドリグは立ち上がり、部屋から出ていこうと扉へ歩み始めた。アンジェリーヌも父を見送ろうと立ち上がった。


 するとロドリグが不意に振り向いた。言い残したことを思い出したかのように。


「……今、幸せか?」


 娘を気遣う父の優しい言葉だった。


 ロドリグは仕来りに縛られ慣れない上級貴族達と過ごす王家の生活に、娘が耐えているのではないかと案じていた。


 しかも夫となったのは最初聞かされていた第二王子のジャンではなく、王位を継いだリュシアンだったことも気に掛かっていた。何故相手が変わったのか、アンジェリーヌからは王家の機密事項だからと教えてもらえなかったが、娘の浮かない様子で心ならずも王妃となってしまったのだろうと察することは出来た。


「私……幸せよ。安心して」


 父の優しさに背くまいと、アンジェリーヌは微笑んで答えた。


「ならいいが……。もし耐えられなかったらお前の好きに生きていいのだぞ。家のことは心配しなくていい。娘が幸せでいてくれるのなら、親はそれでいいと思うものだ」


 ロドリグはそう言い残し帰って行った。


(お父様、ありがとう)


 父親の心にアンジェリーヌは感謝した。その言葉が嬉しかった。言葉だけで充分だった。


 アンジェリーヌは自分の選んだ道が引き返すことが出来ないものだと身に染みて分かっていた。


 アンジェリーヌは窓際に寄り、外の穏やかに晴れ渡る景色を見つめた。


 結婚の儀式から一か月半。


 アンジェリーヌはまだ乙女のままだった。


 初夜、アンジェリーヌの部屋にリュシアンはきちんとやって来た。だが周りの者の目を騙すだけのもの。打ち震えるアンジェリーヌに、リュシアンは触れることはなかった。


 それからも体裁を保つために時々アンジェリーヌの部屋に来るが、話をするだけでベッドを共にした事は一度もない。


 イレールから本当の妻になることを受け入れたと聞いている筈なのに、リュシアンは決してアンジェリーヌに触れようとしなかった。


 リュシアンは言う。


「私はまだ諦めていない。いつかきっとそなたをジャンの許に返してやる」と。


 リュシアンの胸の内を思うとアンジェリーヌは切なかった。


 愛する者のすぐ傍にいながら、自分の心を押し殺し、ただひたすらその者の幸福を願い続ける。


 アンジェリーヌはリュシアンの深い慈しみ溢れる愛を感じ、彼の想いに応えなければと思っていた。だがジャンとの別れの心の傷が癒えていない今はまだ、彼の想いに応えることが出来そうにはなかった。


 思い出されるモンシェルジュリーの森で過ごした愛に満ちた日々。そして別れの時のジャンの涙溢れる姿。


 締め付けられる思いがするのに、アンジェリーヌの心にはジャンへの想いが溢れんばかりである。


 もう二度と取り戻せない日々と分かっていながらも、アンジェリーヌはその思い出から抜け出せないでいたのだった。


 一方ジャンはといえば宮殿には必要最小限いるだけで、もっぱら離宮の一つに身を寄せていた。王家が揃ってする夕食にも顔を出すこともない。


 傷つけあい別れたアンジェリーヌと顔を合わせたくなかったのだ。兄の妻となった彼女とどう接したらいいのか分からない。たまに会うだけでも心の傷が疼く。


 アンジェリーヌと別れてから彼女と言葉を交わしたのは数えるほど。それも公式の場でばかりだ。体面上仕方なく会うこと以外、ジャンは意識的に宮殿から遠ざかっていた。


 毎夜アンジェリーヌのことが浮かぶ。今頃リュシアンと夜を共にしているのかもしれないと思うとジャンは苛立ち、嫉妬心を抑えられず、それから逃れたいばかりに酒に溺れ、時には娼館に出向くことすらあった。


 忘れたい。


 なのに頭から離れないアンジェリーヌの姿。


 苦しみもがくジャンは今宵も離宮で大量の酒を呷っていた。


「殿下、少しは控えて下さい」


 いつの間にか部屋に入ってきていたイレールが、グラスに注ごうとしていた酒の入ったボトルをジャンの手から取り上げた。


「イ……レール…か」


 ジャンは虚ろな瞳をイレールに向ける。


「俺に構うな。……放っておけ」


「そうは参りません。こんなことを続けていたら体を壊しますよ。陛下も殿下のことを気にしてこうして私を遣わしたのです。宮殿に戻って下さい」


(戻る……だと?)


 ジャンの心が激しく拒絶した。その反動で手にしていたグラスが握力で割れた。ジャンの手から見る見るうちに血が滴り落ちる。


「殿下、手当てを」


 イレールの差し伸べた手をジャンは逆の手で払い除ける。


「俺に構うな! ……見ろというのか? 兄上とアンジェリーヌの仲睦ましい姿を見てこれ以上俺に耐えろというのか!?」


 ジャンは椅子から立ち上がると前方の壁に割れたグラスを投げつけ、両の拳をテーブルに叩きつけた。


「くそっ! ……どんなに酒を飲んでも酔えない。女を抱いてもアンジェリーヌの泣き顔が浮かんで罪悪感しか残らない。この苦しみがお前に分かるか!?」


 吐き出されるジャンの苦しみに満ちた胸の内に、イレールはこう仕向けたのは自分なのだと胸に刻む。国のためとはいえ、二人の純粋な想いを引き裂いた。二人は想いが遂げられれば死ぬのも本望だったろうと。


 アンジェリーヌのことはリュシアンがその心の傷を癒してくれるだろう。ジャンを助けるのは自分の役目なのだとイレールは思った。


「殿下、一つ縁談話があります。相手はハンドラ王国の第一王女です」


 イレールの思いがけない話に、ジャンは訝しげに顔を上げた。


 ハンドラ王国には王子が一人もいない。だから第一王女の夫ともなればそれは後の国王を意味する。妻を迎えるのではない。この国を離れ相手の国で生涯を終えるということ。


「この国にいて辛い思いにじっと耐えるよりも、いっそのこと距離を置くのがいいのかもしれません。何も陛下の傍でしか王子としての役目を果たせないわけではありません。この縁談は二国間の絆を強固なものにするでしょう」


 イレールの言うことは最もだと思った。


 ずっと兄の片腕になりたいと思ってきた。それなのにこのままでは兄に対して憎しみすら抱くようになってしまう。そうなる前に離れるのも一つの方法だと思った。


 アンジェリーヌとの愛を失った今、誰と結婚しようと同じことだった。一人身で一生を終えても構わなかった。だが国の役に立つならばそれもいいだろうと、ジャンはふと思った。


「分かった。……その話進めろ」


 ジャンは投げやりにイレールに答えたのだった。


            *    *    *


 イレールは次の日、政務の間にやって来た。中にはリュシアンと事前に声を掛けたアンジェリーヌもいた。


「イレール、私達に話があるようだが何だ」


 リュシアンが書類を机に置き、イレールに目を向ける。アンジェリーヌは机の近くの壁際のソファーに腰を降ろしていた。


 イレールは歩み寄り机の前に立った。


「はい。ジャン殿下のことですが、ハンドラ王女との結婚を承諾しました」


(えっ…結……婚?)


 アンジェリーヌの胸が締め付けられたように痛んだ。


 ジャンが他の女性と結婚する。いつかはその話が出るだろうと覚悟はしていた。


 すでに他の人と結婚した身だというのに、アンジェリーヌの心は掻き乱された。


 ジャンの幸せを願う心に嘘はない。だがそれでも心は痛み続けるばかりだ。


「ジャンにあの縁談を話したのか? まだ話すなと言ったではないか」


 アンジェリーヌは反射的にリュシアンを見た。リュシアンが知っていたことに驚いたのだ。


 国王であるリュシアンが知らないはずがないのだ。


(私のために黙っていてくれたのだわ)


 いつかジャンの許へ返すと言ってくれたリュシアンが気遣い知らせなかったのだ。


「しかし陛下、ジャン殿下は王后陛下を失ったことで苦しみ続けています。距離を置くことが、その苦しみから解かれる方法だと思ったのです」


「私はまだジャンとアンジェリーヌのことを諦めたわけではない。この話は私の方から断りを入れておく。イレール、先走ったことはしないでくれ。それから今すぐここへジャンを呼んで来てくれ。よいな?」


「……はい、畏まりました」


 リュシアンに命令されたイレールはそれ以上何も言わず、言われた通りジャンを呼びに部屋を出て行った。


「アンジェリーヌ」


 いつの間にかリュシアンが目の前に立っていた。アンジェリーヌは動揺を隠しきれない瞳でリュシアンを見た。


「案ずるな。ジャンをどこにも行かせはしないから」


 リュシアンの温かい言葉が嬉しくもあり、また心苦しくもあった。


 リュシアンの自分の心を顧みることなく注いでくれる優しさが、アンジェリーヌの胸に染みる。


(陛下はすべてを犠牲にしても、私とジャンのために尽くそうとしている)


 そこまでさせようとしている。


 一国の王がそのようなことを犯せば、それは暴君と同じこと。


 アンジェリーヌはリュシアンの優しさが分かっているからこそ、彼にそんなことをさせたくはなかった。


「陛下、もう私達のことで無理はなさらないで下さい。私は覚悟を決めて嫁いできたのですから……」


「そなた達のためだけではない。私のためでもあるのだ。私は誰にも神の血の犠牲になって欲しくないと思っている。そのために出来る限りのことはやっておきたいのだ」


 リュシアンはアンジェリーヌに諭すように語りかけた。


 アンジェリーヌはリュシアンにそれ以上言葉を返すことはなかった。リュシアンがそう決意しているのであれば、何か言ったところでそれを止めることは無理だと思ったからだ。


 どれほどの時間が過ぎただろうか。


 イレールが伯爵と談話中のジャンを捕まえ連れて戻って来た。


 アンジェリーヌとジャンの視線が一瞬交わった。それだけでアンジェリーヌの心にはジャンへの愛しさが込み上げる。


 ジャンは心構えもなしにアンジェリーヌと会い、思わず顔を逸らしてしまった。何事もないフリをするように、ジャンはリュシアンの傍に歩み寄る。


「兄上、用件があるなら手短に言ってくれ」


 感情を押し殺したジャンの低い声に、部屋中に緊迫した雰囲気が流れた。


 早くアンジェリーヌのいるこの部屋から離れたい。


 ジャンの思いがアンジェリーヌの心の傷を抉る。彼の閉ざされた心が、自分が彼に与えた傷の大きさなのだとアンジェリーヌは思った。


 リュシアンはそんなジャンを叱咤するかのように見た。


「縁談は私が断っておく。今お前が結婚してしまえば、アンジェリーヌをお前の許へ返すことが不可能になるからな」


「不可能になる? ……アンジェリーヌはすでに兄上のもの。とっくに不可能ではないか!」


「言ったはずだ、彼女とは表向きの結婚だと。いつか必ず彼女とお前を結婚させると」


 ジャンは一瞬驚いた。アンジェリーヌがまだリュシアンに抱かれていないと知ったからだ。だがいくらリュシアン一人が頑張ったところで未来が変わるとは思えなかった。


「いつかだと? そんなのは夢幻だ。アンジェリーヌもそれが分かっているから俺を捨てて兄上と結婚したんだ。兄上ほどの人が国の実状を分からぬはずがないだろう!」


「それでも私は諦めない。アンジェリーヌに約束したのだ、必ずジャンの許に返すと」


「俺はもう今の状態に耐えられない。さっさと縁談を進めてくれ!」


 ジャンの吐き捨てた言葉で、リュシアンは彼の絶望感がどれほど深いものかようやく悟った。そしてアンジェリーヌの傷も同じくらい深いものだとも。


 自分のために他人が心の中で血を流し続けている。それを救う術が傷つけた自分にはないのかと、悔しさがリュシアンの胸に込み上げた。


「いっそのこと、私とお前入れ替わることが出来たなら……」


 見かけはほとんど同じ。ジャンの代わりに自分がハンドラ王国に行き、自分の代わりにジャンが王となりアンジェリーヌと結ばれることが出来たなら。


 無理なこととは知りながら、悔しさから言葉が口をついて零れた。


「何を馬鹿なこと言っているんだ兄上。いくら見かけが同じでも髪型も瞳の色も性格だって違う。第一俺には神の血がない。そんな俺が兄上の身代わりになれるはずがないだろう!」


 ジャンの驚き捲くし立てた言葉にリュシアンは唇を噛み締める。


 分かっている、出来る筈がないことだと。それでも言わずにはいられなかったのだ。


 誰よりも幸せになって欲しい二人が、自分のせいで引き離され苦しみ続けている。


「こんな神の血などなければ……」


 そうすれば誰の運命も狂わされることはなかった。ジャンもアンジェリーヌも母親もカミーユも―――。


(この印のせいで!)


 思い詰めたリュシアンは額飾りを外し捨てると、懐から護身用の短剣を抜いた。


 ジャンもイレールもアンジェリーヌも、リュシアンの行動に反応が一瞬遅れた。


「兄っ……」


 ジャンが手を伸ばしたが、僅かにタイミングが遅かった。


「陛下!」


 イレールが叫ぶ。


 アンジェリーヌは目を見張ってリュシアンを見つめた。


 リュシアンの額から鮮血が溢れ滴り落ち、彼の衣服を濡らし、床にもその雫は落ち続ける。


 リュシアンは自らの手でその額を切りつけたのだった。


 神の血を消し去ってしまいたかった。しかし額は切り裂けても、神の血は剣の刃が当ったにもかかわらず傷一つ付いていなかった。


 リュシアンはそれでも心が静まらず、もう一度短剣を振りかざす。


「兄上!」


 ジャンがリュシアンから短剣を力づくで取り上げた。


「陛下、傷の手当てを」


 イレールが応急処置をしようとするが、リュシアンはその手を払い額に手を当て俯いた。


「神の血など……こんな印などいらぬ。愛する弟を、愛する女性を苦しめるだけの印などいらぬ!!」


 リュシアンは抱えていた思いを吐き出すように叫んだ。


 普段物静かなリュシアンの激しい声に、ジャンもアンジェリーヌもはっとした。自分達だけが苦しいのではない。リュシアンもまた犠牲者の一人なのだと。


 ジャンは兄のアンジェリーヌに対する想いを初めて知った。自分と同様に彼女を愛しているのだと。妻のアンジェリーヌを抱くこともなく、ただひたすら愛する者たちの幸福を願い続けていたのだと。


 神の血の持ち主というだけで血筋に関係なく国王を継がされ、国のすべてをその身に背負い込み、さらには紅の女神というだけで結婚させられてしまった想いを寄せる女性の受けた心の傷さえもその身に背負い込み、たった一人で耐えてきたリュシアン。


 彼の抱え込んだ苦悩の大きさに、ジャンは初めて触れた気がした。


 そして自分の愚かさを悟った。リュシアンもアンジェリーヌも耐えている。それなのに自分だけ逃げ出そうとしていたのだと。


「兄上、結婚話は断ってくれ。……この先もずっと」


 ジャンは呟いた。


 ジャンは兄のリュシアンと共にこの国のためにこの身を捧げよう、王子としての役割を果たしていこうと決心した。


 そして一生結ばれることはなくとも、アンジェリーヌを心の妻として生涯愛し抜こうと心に誓いを立てたのだった。


 一方アンジェリーヌは己を責めずにはいられなかった。気高いリュシアンをこんな目に合わせてしまったのは、自分がジャンへの想いを断ち切れていなかったからだと。


 それなのにこうなった今でさえも、ジャンを愛している自分の愚かさを罪深く感じていたのだった。

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