(9)
アンジェリーヌはモンシェルジュリーの森の湖に来ていた。
辺りには誰もいない。湖へ流れる水の音と、時折風に揺れ木々がざわめく音以外は静けさを漂わせている。
リュシアンとの結婚を言い渡されてから調度丸一日が経過していた。
ずっと考えていた。何が皆にとって一番いい方法なのか。そして自分とジャンの将来のことを。
(本当は分かっている。もう出すべき答えが一つしかないことを。……でもジャンのことが忘れられない)
湖のほとりでアンジェリーヌは片手でその水に触れた。揺れる水面に映る自分の顔がジャンの辛い顔とだぶる。
ジャンはたとえ命を絶たれようとこの愛を貫くだろう。そしてその想いはアンジェリーヌも同じだった。
相手の想いに応えたい。それが死を分かち合うことになっても後悔はしない。
アンジェリーヌもまたそれほどまでにジャンを愛している。
ジャンと己の命だけで済むのなら、アンジェリーヌはジャンを選んでいた。
しかしそれだけで終わりはしない。家族の命さえも絶たれてしまうのだ。
アンジェリーヌには家族を見捨てることはどうしても出来なかった。
家族への愛情はもちろん、代々続いてきたブランシェス家の誇りを傷つけるような真似はしたくなかった。仮にも一度は後継者になった身。その責任の重さを肌で感じてしまったアンジェリーヌは、ブランシェス家を守らなければという使命感すら抱いていた。
そしてもう一つリュシアンの心を裏切れなかったからだ。
優しく励まし、ジャンとのことを心から応援してくれたリュシアン。その彼の秘めた心を知り、アンジェリーヌはその想いにどう報いるべきか迷った。
愛しているのはジャン、ただ一人。
リュシアンと結婚したとしても、きっとリュシアンは己の言った通り表向きだけの妻として自分と接するだろう。
愛する人と結婚してそんな風にしか接することの出来ないリュシアンの心を思うと、素直にジャンと想いを交わせるはずはないと思った。
もしジャンと交際を続けたら、イレールの言った通りこの兄弟の関係にいつかヒビが入ってしまうかもしれない。他の貴族を巻き込んだ派閥争いが起きてもおかしくはない。
仮にジャンと駆け落ちしたとしたら、リュシアンはどんな思いで命令を下さなければならないだろう。それはリュシアンにとってこれ以上にない深い傷と悲しみとなって彼の心を苛むに違いない。
残される者達の苦しみ。それを考えるとアンジェリーヌにはどうしてもジャンを選ぶことは出来なかった。
(ジャンはきっと私を憎むでしょうね。……それでいいの。憎んで憎んで……そのうち私への愛が消えてしまえばいい。そうすればきっと彼はいつか他の女性を愛するようになるわ)
ジャンが他の女性を愛する。そうなるのが望ましいのに、アンジェリーヌは思うだけで胸が潰れそうになる。
(……何もかも忘れ、ジャンへの想いだけを抱いてこの湖に身を沈めることが出来たなら、どんなに救われることか)
―――この体を捨て魂だけ解放することが出来たなら。
しかし出来るわけがなかった。
もし自殺などしたらジャンは間違いなく後を追うだろう。そうなればリュシアンはどれほど己を責め苦しむだろう。
自分を愛してくれた二人の男性にそんな辛い思いをさせたくはなかった。それに家族にも迷惑を掛けてしまう。
「……う、………う…ぅっ」
アンジェリーヌは両手で地面に生える草を地面ごと強く握り締めた。その瞳からは止めど無く涙が溢れ幾粒も零れ落ちた。
アンジェリーヌは悟る。自分には死を選ぶこともすでに許されなくなったのだと。
許された道はたったの一本。
「うっ……あ、……あ…ああ!」
アンジェリーヌは嗚咽を抑えるどころか声を挙げて泣かずにはいられなかった。胸に堪る苦しみを、声を出すことで無意識に和らげようとしていた。
しかし張り裂けんばかりの慟哭はいつまでもアンジェリーヌの胸を苛み続ける。
(もう……もう二度とここへは来ない。この場所はジャンとの思い出の場所、……愛を育んだ場所だもの。私にはもう来る資格はないのだから!)
そこかしこに残るジャンとの日々がアンジェリーヌの心に浮かぶ。
忘れなければいけない思い出。
忘れなければならないジャンとの愛。
熱く激しく愛されたアンジェリーヌの胸に強烈に残されたジャンとの日々は、そう容易く忘れられるはずもない。
それ故アンジェリーヌの悲しみは深かった。
(ジャン……ジャン…………ジャン!)
忘れられない愛しい人の名を、アンジェリーヌはただひたすら心の中で叫んでいた。
もう答えてくれないだろう彼の名を、それでも呼ばずにはいられなかった。
静かな森にアンジェリーヌの泣き声だけがいつまでも響いたのだった。
* * *
「宰相のイレール・ロ・ソシェル様にお取次ぎを……。アンジェリーヌ・ラ・ブランシェスが返事に来たとお伝え下さい」
宮殿に来たアンジェリーヌは入り口にいた執事の一人に声を掛けた。
アンジェリーヌは客室の一つに案内された。
執事がイレールを呼びにいっている間、アンジェリーヌは椅子に腰を降ろし静かに待っていた。
アンジェリーヌは瞳を閉じる。
(もう………戻れない)
モンシェルジュリーの森でそれこそ涙が尽きるほど泣いた。心が壊れると思った。壊れてしまえばいいとすら思った。
心を強く持ってここへやって来たはずなのに、今にも崩れそうになる自分の心を保つのがやっとだった。
アンジェリーヌは両手をギュッと握り締め自分を支えようとしていた。
そうしているうちに、イレールが客室に到着した。
部屋に入ってきたイレールに、アンジェリーヌは立ち上がり一礼する。
「……返事に来たそうだな」
イレールがアンジェリーヌの心を探るように見つめた。アンジェリーヌは震えそうになる喉を、深呼吸をして落ち着かせてから返事をする。
「はい。……シャルロ二世陛下との結婚、お引き受け致します。陛下の妻に……なります」
アンジェリーヌは奥歯を噛み締め俯き、懸命に心を保とうとしていた。
イレールがアンジェリーヌにそっと近づき、その肩に手を置いた。
「よく決心してくれた。そなたの思い、決して無駄にはしない。私も出来る限りの力で陛下のため、この国のために尽くす。もう二度とそなたのような思いを誰にもさせたりはしない。そんな世の中を皆で創っていこう」
いつもと変わらない冷静なイレールの声。だが彼がアンジェリーヌを少しでも励まそうと言った言葉であることが彼女には伝わっていた。
「はい。……よろしくお願い……します」
アンジェリーヌは涙が出そうになるのを堪えながら、イレールに深々と頭を下げた。
「今日はこれからどうする? 陛下にお目にかかり直接伝えるか? また改めて会った方がよいか? 言い辛いなら私から陛下と殿下に話をするが……」
リュシアンに直接返事をする。それよりも前にまず話さなければならない相手が誰なのか、アンジェリーヌには分かっていた。
「陛下へはイレール様の口から伝えて下さい。イレール様、……今からジャン殿下にお会いすること出来ますか?」
アンジェリーヌの言葉にイレールは躊躇する。
自分にさえ辛い思いに耐え言葉を口にした彼女が、最も辛い思いをして伝えねばならない相手に直接言う。彼女がその苦しみに耐えられるのであろうかと思った。まさかそのまま二人で逃亡したりするのではないかという疑念さえ浮かんだ。
アンジェリーヌはそんなイレールに訴えかける。
「私の口から言わなければジャン殿下は納得しません。他の方が伝えても、殿下とその方とに溝を作ってしまいます。ですからジャン殿下に会わせてください。二人だけで話をさせて下さい。これで最後にします。……最後にもう一度だけ会わせて下さい!」
懸命に訴えてくるアンジェリーヌにイレールは自ら抱いた疑念を打ち消す。
アンジェリーヌの誠実な思いがイレールの胸に響いた。
「………ついて来なさい」
イレールはアンジェリーヌをジャンの私室へ案内した。
部屋の中には誰もいない。ジャンは今公爵の屋敷に外出中とのこと。
「ここで待っていなさい。あと一時間もすれば殿下は帰ってくるだろう」
イレールはアンジェリーヌを一人残し、自分は勤めに戻ろうとする。
出ていく直前、イレールが扉を開ける手を止めアンジェリーヌを振り返った。
「アンジェリーヌ、最後の時間を大切に過ごすとよい。……今日これからのことは誰も知らぬことだ。……よいな?」
イレールは諭すように言った。
彼の意外な言葉にアンジェリーヌは目を見開く。言葉に隠された意味が分かったからだ。
イレールはこの最後の時に、たとえジャンとアンジェリーヌが逢瀬を交わそうと見て見ぬフリをすると告げたのだ。
イレールがそう言ったのはアンジェリーヌの思いに心を打たれたからだった。彼女の言葉に嘘偽りなどない。リュシアンとの結婚を決めた心を覆たりはしない。そのことでアンジェリーヌの払った代償の大きさがイレールにもよく分かっている。ならば彼女のために出来る限りのことをしてやりたいと思った。
イレールは驚き戸惑うアンジェリーヌを残し、今度こそ部屋から出て行った。
アンジェリーヌはイレールから思ってもみなかった言葉を受け迷い悩む。
―――ジャンと契りを交わす。
たった一度だけ許された愛する人との最初で最後の逢瀬。
(ジャンに愛されたい。この先何があっても耐えられる思い出が欲しい。でも……)
ジャンと契りを交わしたら自分の思いを抑え切れないと思った。周りのことが考えられなくなり、ジャンの胸に飛び込んでしまう気がした。
ジャンに自分の心を曝け出してしまう。
そうなればジャンは間違いなくすべてを捨ててここから連れ去ろうとするだろう。そうならないようアンジェリーヌは何と言ってジャンに伝えるべきか、どうしたらジャンが納得してくれるか考え込んだ。
だがどう伝えてもジャンを深く傷つけてしまうことには変わらない。
(どう言えばいいの……?)
アンジェリーヌはただじっと椅子に腰掛け俯き考え続けた。
どのくらい時間が過ぎていたのかアンジェリーヌには分からなかった。
物音一つしなかった部屋に、突然扉を開ける音が響き渡る。
アンジェリーヌはその音にハッと我に返り、反射的に椅子から立ち上がった。視線は扉に注がれ、その表情は話さなければならないことで凍りついていた。
扉が大きく開き、この部屋の主ジャンが姿を見せる。ジャンもまた誰もいないはずの部屋に思いがけない人の姿を見つけ、動きを止めた。
「アン……ジェリーヌ?」
驚いたジャンだったが、彼女が何故ここにいるのか悟り、扉を閉めると真っ直ぐ彼女の許へ歩み寄って来た。
「答えが出たんだな?」
アンジェリーヌはジャンの瞳から目を逸らし頷いた。
(ジャンの顔が見れない。……あの瞳を見て彼を拒絶することなんて出来ない)
アンジェリーヌは両手でドレスを握り締めた。
「俺と……来てくれるか?」
説得するようなジャンの声がアンジェリーヌの耳に届いた。
アンジェリーヌは頷きそうになるのを懸命に堪え、必死な思いで首を横に振る。
彼女の反応が信じられないジャンはもう一度確認する。
「一緒に来てくれるな?」
アンジェリーヌは泣きそうになるのを堪え、唇を噛み締めもう一度首を振った。
「何故だ!?」
熱く叫んだジャンはアンジェリーヌの両腕を掴んだ。体を強張らせるアンジェリーヌは、それでもジャンを見ることが出来ず俯き続けていた。
「何故俺についてこない! 俺より兄上を選ぶというのか!?」
アンジェリーヌはジャンの激しい口調に決意が揺らぎそうになる。揺らぐ前に告げなくては駄目だと感じたアンジェリーヌは喉の奥から絞るように声を出す。
「陛下と結婚……するわ」
「それがどういうことが分かっているのか!? 俺達は一生日陰で逢うことしか出来なくなるんだぞ。それでもいいのか!」
人の目から隠れるようにしてでもジャンと愛し合えることが許されるならそれだけでいいとさえ、今のアンジェリーヌは痛いほど思った。そんな形の愛でも、叶うことなどもう遠い夢のように感じた。
(ちゃんと言わなければ……)
「私達……終わりにしましょう」
「何……言っているんだ?」
ジャンにきちんと伝えようとアンジェリーヌは真っ直ぐジャンを見つめた。
「私達別れましょう」
ジャンの瞳が大きく見開かれる。
「私は正真正銘の陛下の妻になると決めたの。身も心も陛下に捧げるの。陰であなたと逢ったりもしない。だからあなたもこんな私は捨ててしまって!」
心を引き裂かれる思いで叫んだアンジェリーヌの瞳は涙で潤んでいた。
「嫌だ!!」
ジャンは掴んでいたアンジェリーヌの両腕を引き寄せ、強引に彼女の唇を奪った。
「んっ……」
アンジェリーヌはジャンから離れようとするが、ピクリとも体を動かすことが出来ない。
(ジャン止めて……。もう私のことは諦めて。お願い!)
息も出来ない口付けに、アンジェリーヌの心は徐々に追い詰められていく。
「お前だけは失いたくない!」
ジャンは力の限りアンジェリーヌを抱き締めた。想いの丈をぶつけられ、アンジェリーヌは涙が溢れた。
(ジャンを失いたくない。……まだこんなに愛しているのに!)
アンジェリーヌはジャンにしがみつきそうになる手をグッと握り締める。
「離して。あなたも本当は分かっているはずよ。私達が一緒にいることで皆を不幸にしてしまう。別れるのが一番いい方法なのよ」
「他の者なんかどうなってもいい。俺はお前だけいればいい!」
決して離すまいとするジャンにアンジェリーヌは痛感した。自分がジャンを駄目にしてしまうと。
(このままじゃ彼の気高さを滅茶苦茶にしてしまう!)
アンジェリーヌは自分の精一杯の力でジャンを引き離した。
「あなたはこの国の王子なのよ。陛下が信頼を寄せる大切な存在なのよ。国を背負って立つ立場なのを忘れないで!」
「だから俺はすべてを捨てると……」
「捨てられるの? この国が滅びてしまっても後悔しない!? 逃亡して捕まれば陛下が私達を罰するのよ。兄にそんな辛い思いさせたいの!? ……私には出来ない。家族の命を犠牲にすることも、陛下にそれこそ死ぬより辛い思いをさせることも、私には出来ない!!」
苦しみを吐き出すようにアンジェリーヌは叫んだ。
ジャンの心にはアンジェリーヌの放った言葉が突き刺さっていた。
産まれた時から一心同体に過ごしてきた日々が不意にジャンの胸に蘇る。喜びも悲しみも悔しさも、すべて分かち合って生きてきた双子の兄リュシアン。その兄に死よりも辛い苦しみを与えてしまう。
それでもなおジャンはアンジェリーヌへの想いを絶ち切ることが出来ない。
ジャンはアンジェリーヌを抱きかかえ、寝室に運びベッドに横たえた。
「ジャ……ン?」
アンジェリーヌはジャンの思い詰めた顔を見つめ呟いた。自分の身に何が起ころうとしているのか把握しきれていなかった。
ジャンの体が横たわるアンジェリーヌに折り重なってくる。その唇がアンジェリーヌの唇を覆い、首筋に降りて来た。
その瞬間、ようやくアンジェリーヌはジャンの行動の意図を知る。
「ジャン、止めて!」
アンジェリーヌは逃れようと叫んだ。今ジャンに抱かれたら決意がなし崩しに崩れてしまう。ジャンと離れられなくなってしまう。
「いやっ、……やめ……て!」
両手を抑えつけられてなおアンジェリーヌは懸命にもがくが、どうすることも出来ず、ただ涙が溢れるばかりだった。
「…………っ」
アンジェリーヌの頬に雫が落ちてきた。
それは自分のものでない涙。
アンジェリーヌはその持ち主の顔を悲痛な思いで見つめずにはいられなかった。
「どうすればお前を失わずに済む? ……どうすれば誰も苦しめずに済む?」
ジャンは静かに涙を零しながら言うと、アンジェリーヌから手を離し体を起こした。
声を押し殺し泣き続けるジャンに、起きあがったアンジェリーヌは思わず彼の頬に触れようと手を伸ばす。
「もう……行け」
突き放す一言にアンジェリーヌの手が止まる。
「行ってくれ!」
俯き目を覆ったジャンが叫んだ。もう決してアンジェリーヌが自分のものにならないと悟ったのだ。
「俺の前から消えてくれ!!」
ジャンの魂から放たれた叫びが鋭くアンジェリーヌを切り裂いた。別れを望んだはずなのに、その衝撃は計り知れないほど大きいものだった。
「ごめ……な…………さ」
言葉にならない言葉を残し、アンジェリーヌは寝室から飛び出し後ろ手でその扉を閉める。部屋中にその大きな音が響いた。
(傷つけた。……傷つけてしまった。誰より大切なあの人を!)
アンジェリーヌの瞳からは止めど無く涙が溢れていた。
その彼女の耳に微かに扉の中のジャンの声が届いた。……押し殺しきれないジャンの悲痛な泣き声が。
アンジェリーヌは思わず引き返しそうになる手を握り締めた。そしてジャンの私室から駆け出し扉を閉めるとそのまま扉に背中を預けた。
(もう戻れない。……本当に終わってしまった)
こんな風に傷つけたくはなかった。愛しているのに傷つけてしまった。
ジャンの涙がアンジェリーヌの胸に激しい痛みとなって刻まれていた。
(ジャン、ごめんなさい。……ごめんなさい!)
「……っ……っ」
アンジェリーヌの心にジャンとの思い出が次々と浮かんだ。やがてそれはジャンの涙に濡れた顔に変わった。
「ああぁっ……」
アンジェリーヌは両手で顔を覆うとその場に泣き崩れた。
(………ごめんなさい!)
ジャンに届かない声をいつまでも心の中で叫び続けた。
―――アンジェリーヌがリュシアンと結婚したのはその一か月半後のことだった。