勇者が消えた西の霧に、役立たずの私は足跡を残す
勇者が戻らないまま、一ヶ月が経った。
王国はその日、西の村を見捨てることに決めた。
「フィデル村への救援は、これをもって打ち切る」
宰相の言葉に、異を唱える者はいなかった。
会議室の壁には、神託の地図が掛けられている。王都から各地へ伸びる金色の道。その西端にある小さな村は、灰色に塗り潰されようとしていた。
「ですが、まだ村人が残っています」
末席に控えていた少女が声を上げた。
セリア・エルンスト。栄誉ある王立探索隊に所属する、若い道標師だった。
宰相が眉を寄せる。
「勇者レオンですら戻らなかった土地だ。これ以上、兵を失うわけにはいかん」
「……それなら、私が行きます」
しばらく沈黙があった。
やがて、近衛騎士団長が鼻で笑った。
「お前が? 攻撃魔法も治癒魔法も使えぬというのに」
「……はい」
「固有魔法は、たしか《足跡》だったな」
セリアは頷いた。
彼女が望んで歩いた場所には、銀色の足跡が残る。
雨にも雪にも消されず、七日間だけ光り続ける。ただ、それだけの魔法だった。
「歩いた場所が分かるだけでは、魔物の一匹も倒せまい」
「存じています」
「では、何ができる」
セリアは壁の地図を見た。
フィデル村の西にある灯台へ向かう道は、すでに消えている。
勇者が敗れた場所から先は、神の地図にさえ示されていなかった。
「道を探すことなら、できます」
「道?」
「間違えたら、引き返せます。別の道を探すこともできます」
宰相はしばらく少女を眺め、鼻で笑った。
「好きにするがいい。ただし、王国は一切の責任を負わん。探索隊の籍も返上してもらう」
「承知しました」
セリアは頭を下げた。
会議室を出るとき、背後から誰かが言った。
「神が示さぬ道など、歩いたところで何にもならん」
セリアは振り返らなかった。
何にもならないかどうかは、まだ分からない。
少なくとも、誰も歩いていないのだから。
◇
神託の地図とは、王国創設の頃より王家に伝わる、世界の道を示した地図である。
人間のために神が歩いた道を書き起こしたものとされ、そこにない道を進むことは、神の加護を離れることだと信じられていた。
宿へ戻ると、セリアは寝台の上に一本の剣を置いた。
刃は半ばから折れ、鍔にも亀裂が入っている。
勇者レオンの聖剣だった。
一ヶ月前、西の山脈で魔物の群れと遭遇したときのことを、セリアはまだ鮮明に覚えていた。
灰色の霧の中から、黒い獣が次々と現れた。
レオンは探索隊を逃がすため、最後まで戦っていた。
そして、魔物の一撃を受け止めたとき、聖剣が折れた。
『セリア、これを持っていけ』
押しつけられたのは、折れた剣だった。
『でも、あなたは』
『俺はもう少し、あいつらを引きつける』
『武器もないのに?』
レオンは困ったように笑った。
『何とかするさ』
いつも、そうだった。
セリアが何を尋ねても、彼は最後には笑うのだ。
『レオン、私も残ります』
『駄目だ』
彼は、セリアの足元へ視線を落とした。
地面には銀色の足跡が続いていた。
『お前はみんなと戻れ』
『……私など、戻っても何の役にも立ちません』
『そんなことはない』
レオンは、まっすぐ彼女を見た。
『お前が歩いてくれれば、あとから来る者は、少なくとも帰り道を見失わずに済む』
『それだけです』
『それを必要とする人間だっているだろう』
レオンは彼女の肩を押した。
『行け』
それが、最後に聞いた言葉だった。
彼は霧の奥へ走っていった。
セリアはほかの隊員に引きずられるようにして戻った。銀色の足跡を頼りに、霧の外へ抜けた。
けれど、レオンは帰ってこなかった。
彼女が残した足跡は、七日後に消えた。
そして王国は、勇者の死亡を発表した。
セリアは折れた剣を布で包んだ。
探索隊の地図係だった彼女は、古い灯台の記録を読んだことがあった。
西方を守る聖火は、《暁鋼》という特殊な金属を芯として灯される。火を起こしたのち、炉の魔法陣がその力を保ち続けるのだという。
勇者の剣も、同じ金属で鍛えられていた。
折れた聖剣が代わりになる保証はない。
それでも、セリアにはほかに持っていけるものはなかった。
セリアは剣を背負い、夜明け前の宿を出た。
◇
六日後、セリアはフィデル村へ辿り着いた。
王都から続く街道は、まだ霧に覆われていなかった。しかし、村の西側には灰色の壁が迫っていた。
村長によれば、霧は日に日に東へ広がっているという。
動ける村人の多くは、すでに避難していた。
残っているのは八十人余り。高齢者や病人、幼い子ども、それに彼らを置いていけない家族たちだった。
「馬車はほとんど残っておりません」
村長は疲れた顔で言った。
「この人数を全員運び出すには、王都からの救援が必要なのです」
「……そうですか」
「救援は、いつ来るのでしょう」
セリアは答えられなかった。
老人はしばらく彼女を見ていたが、やがて目を伏せた。
「来ないのですね」
セリアは頷いた。
窓の外では、灰色の砂が風に舞っている。
霧が村を飲み込むまで、どれほどの猶予があるのだろう。
「西の灯台へ行こうと思っています」
村長が顔を上げた。
「灯台へ?」
「古い本によれば、灯台に火を戻せば、霧を退けられるかもしれません」
「ですが、あの霧の中では……」
「私には、歩いた場所を残す魔法があります」
セリアは庭へ出て、銀色の足跡を残しながら数歩歩いた。
土の上に光が浮かぶ。
村長は息を呑んだ。
「これは……」
「道を教えてくれる魔法ではありません。でも、歩いてきた道なら分かります」
老人は、光る足跡を長く見つめていた。
「……なるほど」
そのとき、小さな声がした。
「ねえ、お姉ちゃん」
振り向くと、七歳くらいの男の子が立っていた。
腕には、古い木彫りの鳥を抱えている。
「勇者様は?」
セリアは息を止めた。
「勇者様?」
「うん。勇者様が来れば、みんな助かるって、お父さんが言ってた」
「……まだ、帰ってきていないの」
男の子の顔が曇った。
「じゃあ、助けてくれないの?」
セリアは膝をついた。
「分からないわ」
「お姉ちゃんは、勇者様じゃないの?」
「違うわ」
「じゃあ、何ができるの?」
セリアは少し考えた。
「……道を残せるの」
男の子は足元を見た。
銀色の光が、小さく瞬いている。
「きれい」
「そう?」
「うん」
男の子はしゃがみ込み、指を伸ばした。
光は触れても消えなかった。
「これがあれば、お姉ちゃんは帰ってこられる?」
「……そうね」
セリアは頷いた。
「帰る道だけは、分かると思う」
男の子は安心したように笑った。
「じゃあ、待ってる」
セリアは小さな手を握った。
「ええ、必ず帰ってくるわ」
◇
灯台へ向かう志願者は、十人集まった。
山に詳しい猟師、鍛冶屋、大工、それに村の若者たちだった。
ほかの者は村に残り、病人の世話と食料の確保を続ける。
出発の前夜、セリアは村で最も年老いた女性を訪ねた。
老婆は九十歳に近く、もう長い距離を歩くことはできなかった。
「灯台へ行くのかい」
「はい」
「石橋を渡るつもり?」
セリアは持参した古い測量図を見せた。
老婆はしばらく眺めてから、首を振った。
「昔はね、橋なんてなかったんだよ」
「え?」
「三本の杉が並んでいるところに、古い石段があってね。そこを登ると、川の浅いところへ出られたものさ」
「ありがとうございます」
「今も道が残っているかは知らないよ」
「それでも、助かります」
老婆は小さく笑った。
「私はもう、あそこへは行けないからね」
それから、セリアを見た。
「ちゃんと帰っておいで」
「はい」
庭へ出ると、昼間の男の子が待っていた。
「お姉ちゃん!」
手には、小さな木の枝が握られていた。
「これ、持っていって」
「木の枝?」
「うん。灯台って、大きな火をつけるんでしょう?」
「そうよ」
「じゃあ、薪がいるよね」
セリアは思わず笑った。
「聖なる火だから、普通の薪とは少し違うかもしれないわ」
「変なの。火なのに?」
男の子は首を傾げた。
セリアは、差し出された木の枝を受け取った。
「ありがとう」
◇
翌朝、十一人は霧の中へ入った。
霧は濃かった。
数歩先の木々さえ見えず、風の音も遠い。
何度か分かれ道に出た。
古い測量図を開き、地形を確かめる。間違えれば引き返し、別の道を試した。
そのたびに、銀色の足跡が役に立った。
自分たちがどこを歩いたのか、何度同じ場所へ戻ったのか。それだけは、はっきり分かった。
「便利なものだな」
後ろを歩く猟師が言った。
セリアは振り返った。
「……そうでしょうか」
「俺たちは何度もこの霧へ入ったが、戻ってこられるかどうかさえ分からなかった」
猟師は足元の光を見た。
「これなら、少なくとも迷ったまま死ぬことはなさそうだ」
セリアは何も言えなかった。
役に立つと言われたのは、久しぶりだった。
そのとき、霧の奥で低い唸り声がした。
黒い獣が現れた。
猟師が弓を構える。
「走れ!」
セリアは引き返した道を思い出した。
少し手前に、人一人が通れるほどの岩の隙間があった。
「こちらです!」
銀色の足跡をたどって走る。
仲間たちが続いた。
背後で獣が吠えた。
岩場へ辿り着くと、全員が身を滑り込ませた。
獣の爪が岩を削ったが、大きな身体は隙間を通れなかった。
やがて、唸り声が遠ざかっていく。
セリアは岩に背を預けた。
手が震えていた。
「……私は、戦うことができません」
鍛冶屋の女性が顔を上げた。
「だから何だい?」
「もし、あの魔物が入ってきたら……」
「あんた、全部一人でやるつもりだったのかい」
女性は呆れたように笑った。
「道を探すのはあんたの仕事でも、魔物を追い払うのも、荷物を運ぶのも、あんた一人の仕事じゃないよ」
セリアは黙っていた。
「私らにだって、できることはあるんだから」
女性は立ち上がり、肩の斧を持ち直した。
セリアも、ゆっくりと立ち上がった。
◇
二日目の昼過ぎ、一行は古い石橋へ辿り着いた。
橋は中央から崩れ落ちていた。
霧の底から、川の流れる音が聞こえる。
「……渡れないな」
猟師が呟いた。
セリアは測量図を広げた。
この橋を越えれば、灯台までは遠くない。
だが、ほかに道は描かれていなかった。
しばらくして、老婆の言葉を思い出した。
「……三本の杉」
セリアは顔を上げた。
「この近くに、三本の杉が並んでいませんか」
猟師が周囲を見回す。
やがて、霧の向こうを指さした。
「あれか?」
崖の端に、黒い木の影が並んでいた。
一本。
二本。
三本。
セリアは駆け寄った。
根元には、苔に覆われた石段があった。
何十年も使われていないのだろう。土に埋もれ、倒木に塞がれていた。
それでも、道は残っていた。
「ここを登りましょう」
一行は石段を進んだ。
倒木は鍛冶屋が斧で払った。
崩れた場所には大工が足場を作った。
猟師が獣の気配を確かめ、若者たちが荷物を運んだ。
セリアは先頭を歩き、銀色の足跡を残した。
何度も立ち止まり、何度も道を探し直した。
やがて、霧の中に細い山道が現れた。
その先には、川の浅瀬があった。
「……本当にあった」
誰かが呟いた。
セリアは振り返った。
仲間たちが彼女を見ていた。
誰も地図を見ていなかった。
ただ、足元に続く銀色の光を見ていた。
◇
灯台へ辿り着いたのは、出発から三日目の午後だった。
山の尾根に建つ石の塔は、灰色の霧に半ば沈んでいた。
かつて西方を守っていたという聖火は、消えたままだった。
扉を開くと、冷たい空気が流れ出てきた。
一行は螺旋階段を登った。
最上階の炉には、古い文字が刻まれている。
《暁の鉄を捧げよ》
セリアは背中の包みを降ろした。
折れた聖剣を取り出す。
鍛冶屋の女性が、刃の断面を確かめた。
「……たしかに暁鋼だね」
「使えるでしょうか」
「分からない。でも、試す価値はある」
セリアは剣を炉の中央へ置いた。
魔法陣に手を触れると、かすかな金色の光が走った。
折れた刃が震え、小さな火が生まれた。
「……ついた」
誰かが呟いた。
だが、火はそれ以上大きくならなかった。
炉の底で、弱々しく揺れている。
セリアは膝をついた。
ここまで来たのに。
託された勇者の剣まで使ったのに。
火は、今にも消えそうだった。
「……どうして」
そのとき、男の子の声が蘇った。
『変なの。火なのに?』
セリアは顔を上げた。
「……薪」
鍛冶屋の女性が振り向く。
「何だって?」
「薪です。火を大きくしなければ」
女性は炉の下を調べた。
煤に埋もれた小さな扉がある。
開くと、奥に古い灰が残っていた。
「……そういうことか」
女性は頷いた。
「暁鋼は火種なんだ。最初に炎を育てて、炉の魔法陣へ移さなければならない」
セリアは鞄を開いた。
村の男の子にもらった、小さな木の枝があった。
それをまず炉へ入れる。
仲間たちも、運んできた薪と油を取り出した。
火は少しずつ大きくなった。
乾いた木が音を立てて燃える。
金色の炎が炉の縁へ広がり、やがて刻まれた魔法陣が輝き始めた。
塔全体が、かすかに震えた。
薪が燃え尽きても、炎は消えなかった。
炉の魔法陣が、聖火を保ち始めたのだ。
次の瞬間、金色の光が天へ噴き上がった。
窓から身を乗り出したセリアは、息を呑んだ。
灰色の霧が、ゆっくりと後退している。
山の尾根から。
谷の奥へ。
村へ向かう街道から。
長く見えなかった景色が、少しずつ姿を現し始めた。
遠く、フィデル村の屋根が見えた。
「……戻った」
誰かが呟いた。
「灯台の火が戻ったぞ!」
歓声が上がった。
鍛冶屋の女性が泣き出し、猟師が大きく息を吐いた。
セリアは窓辺に立ち尽くしていた。
聖剣は炉の中へ沈み、もう取り出すことはできなかった。
レオンが残してくれた、最後のものだった。
それでも、不思議と後悔はなかった。
セリアは窓の外を見た。
西の山々には、まだ霧が残っている。
レオンが最後に向かったのは、その先だった。
「……どこにいるの」
小さく呼んだ。
答える者はいなかった。
◇
翌日、一行はフィデル村へ戻った。
行きには三日を要した道も、帰りは一日で抜けられた。道を探し直す必要がなくなり、霧も少しずつ薄くなっていたからだ。
セリアは帰り道にも、新しい銀色の足跡を残した。
夕方には、十一人全員が村へ帰り着いた。
村人たちが駆け寄ってきた。
泣きながら手を握る者。
何度も頭を下げる者。
ただ黙って、灯台の光を見つめる者。
男の子はセリアに飛びついた。
「お姉ちゃん!」
「ただいま」
「本当に帰ってきた!」
そう言って顔を隠して泣き始めた。
「約束したもの」
男の子は顔を離すと、目を赤くしたまま、嬉しそうに笑った。
村長がセリアの前へ進み出た。
「……ありがとうございます」
深々と頭を下げる。
セリアは慌てて首を振った。
「私一人では、何もできませんでした」
老婆が古い道を教えてくれたこと。
猟師が魔物の気配に気づいたこと。
鍛冶屋や大工が道を直してくれたこと。
男の子が薪を持たせてくれたこと。
そのどれが欠けても、灯台には辿り着けなかっただろう。
村長は、銀色の足跡を眺めた。
「それでも、最初に歩き始めたのは、あなたです」
セリアは何も言わなかった。
足元では、子どもたちが光る足跡を珍しそうに覗き込んでいた。
◇
その夜、村では久しぶりに明るい火が焚かれた。
霧が退いたからといって、何もかも元に戻るわけではない。
畑は荒れ、街道は傷み、病人もいる。
王都からの救援が再開されるかどうかも、まだ分からなかった。
それでも、村には時間が戻ってきた。
明日のことを考えられるだけの、時間が。
セリアは広場の端に座っていた。
西の灯台が、遠くで光っている。
その向こうには、まだ霧が残っていた。
レオンは帰ってこない。
勇者の剣も、もうない。
彼が生きているかどうかさえ、分からなかった。
それでも、あの霧の中へ行ってみようと思った。
道を探すことならできる。
間違えたら戻ればいい。
戻れる場所さえあれば、何度でも探し直せる。
セリアは膝を抱え、遠くの光を見つめた。
◇
同じ頃、王宮の宰相執務室に、一人の神官が駆け込んできた。
「宰相閣下!」
「何だ、騒々しい」
「神託の地図が……!」
宰相が顔を上げる。
「地図がどうした」
「道が現れました!」
宰相は急いで会議室へ向かった。
壁に掛けられた神託の地図。
その西の端に、細い銀色の線が浮かんでいた。
黒い山脈を越え、古い灯台へ続く道。
昨日まで、そこには何もなかった。
「……あり得ん」
宰相が呟いた。
「神が示していない道だぞ」
神官たちは顔を見合わせた。
誰も説明できなかった。
ただ一人、年老いた宮廷史官だけが、古い書物を開いていた。
「……そういうことでしたか」
「何がだ」
史官は顔を上げた。
「閣下。神託の地図について、私どもは一つ、思い違いをしていたのかもしれません」
「思い違い?」
「この地図は、神がこれから人の歩く道を定めたものだと、教えられてきました」
「当然だ」
「ですが、最古の記録には、こうあります」
史官は、黄ばんだ書物の一節を指さした。
「《人の歩みを、天に記す》」
宰相は眉を寄せた。
「……それがどうした」
「つまり、この地図は」
史官は、銀色の線を見た。
「人がこれから歩くべき道を示していたのではなく、人がすでに歩いた道を、天が記していただけなのかもしれません」
宰相は何も言わなかった。
「かつて使われていた道も、誰も歩かなくなれば、やがて地図から消える。そして、再び人が歩けば、新たな道として記される……」
史官は古い書物を閉じた。
神の地図に、道がなかった。
だから誰も歩かなかった。
誰も歩かなかったから、道が生まれなかった。
ただ、それだけのことだったのか。
地図の西端で、新しい銀色の線が静かに輝いていた。
◇
灯台の火が戻ってから、六日が経った。
フィデル村には、避難していた人々が少しずつ帰り始めていた。
灰色の霧は、完全に消えたわけではない。
けれど、灯台の光が届く場所には、もう魔物が近づけなくなっていた。
畑には、まだ灰が積もっている。
水車も壊れたまま。
失われた家もあった。
これから直さなければならないものは、山ほどある。
それでも、人々は帰ることを選んだ。
「お姉ちゃん!」
あの男の子が、セリアのもとへ走ってきた。
腕には、いつもの木彫りの鳥を抱えている。
「もう行っちゃうの?」
「ええ」
「ここに住まないの?」
「まだ、行きたいところがあるの」
男の子は首を傾げた。
「どこ?」
セリアは西を見た。
灯台の向こう。
さらに遠く。
地図の端に、何も描かれていない土地がある。
レオンが最後に向かった方向だった。
「……人を探しに行くの」
「勇者様?」
「ええ」
「生きてるの?」
セリアは少し黙った。
「分からないわ」
男の子は、悲しそうな顔をした。
「じゃあ、いなかったら?」
セリアは答えを探した。
今までなら、きっと怖くて口にできなかった。
レオンが死んでいるかもしれない。
探しても見つからないかもしれない。
何年歩いても、何も得られないかもしれない。
そんな未来を考えるだけで、足がすくんだ。
けれど。
「……それでも、行ってみたいの」
セリアは言った。
「私が歩いていけば、そこに道が残るでしょう?」
男の子が足元を見た。
銀色の足跡。
数日前、灯台から帰ってきたときに残した光が、まだ続いていた。
「うん!」
「その道を、いつか誰かが使うかもしれない」
「そっか」
「だから、無駄にはならないと思うの」
男の子は少し考えた。
それから、木彫りの鳥を差し出した。
「じゃあ、これあげる」
「え?」
「お守り。お父さんが作ってくれたんだ」
「そんな大切なもの、いただけないわ」
「いいの!」
男の子は胸を張った。
「お姉ちゃんが迷子になったら、鳥さんが道を教えてくれるよ」
セリアは、小さな鳥を受け取った。
不格好な羽。
少し曲がった嘴。
何度も握られ、角が丸くなっている。
「……ありがとう」
男の子は笑った。
「勇者様が見つかったら、また来てね!」
セリアは頷いた。
「ええ。約束するわ」
◇
村を出て、しばらく歩いたころだった。
セリアは、ふと足を止めた。
山道の端に、小さな花が咲いていた。
灰をかぶった土の隙間から、細い茎を伸ばしている。
淡い黄色の花だった。
セリアはしゃがみ込み、そっと指を伸ばした。
花は弱々しく揺れている。
けれど、確かに咲いていた。
「……強いのね」
セリアは微笑んだ。
そして、立ち上がった。
背中には、もう聖剣はない。
勇者の加護もない。
王国からの支援もない。
あるのは、すり減った靴と、古い測量図。
それから、役立たずと呼ばれた魔法だけ。
怖かった。
霧の向こうに何があるのか、分からない。
レオンが生きているのかも分からない。
自分が無事に帰れるかどうかも分からない。
それでも、セリアは一歩を踏み出した。
足元に、銀色の光が浮かんだ。
もう一歩。
また一歩。
やがて、細い光の道が山の向こうへ伸びていく。
そのときだった。
「……あれ?」
セリアは立ち止まった。
前方の地面に、何かが見えた。
靴跡だった。
銀色ではない。
魔法によるものでもない。
柔らかい泥に刻まれた、誰かの足跡。
大きな男物の靴。
右足の踵だけ、少し欠けたような形をしていた。
セリアは息を呑んだ。
覚えている。
何度も見た。
王都の訓練場で。
森の中で。
雪の降る山道で。
人の足跡を見るのは、昔からのセリアの癖だった。
レオンの右靴の踵には、古い傷があった。
魔物に襲われたときに靴底が裂け、そのまま修理を後回しにしていたのだ。
『どうせ、またすぐ傷むからな』
そう言って笑っていた。
セリアは膝をついた。
指先で、足跡の縁へ触れる。
土は、まだ少し湿っていた。
いつ付いたものなのかは分からない。
本当に彼のものなのかも分からない。
セリアは顔を上げた。
足跡を逆にたどれば、山の向こうへ続いている。
一つ。また一つ。
遠く、霧の中へ。
彼女は立ち上がった。
「……レオン」
名前を呼ぶ。
返事はなかった。
けれど、セリアは笑った。
もう、地図を開かなかった。
自分の足で確かめればいい。
この先に何があるのか。
どこまで歩けるのか。
決めるのは、王様でも、神様でもない。
セリアは歩き始めた。
前には、誰かの足跡。
後ろには、自分の足跡。
二つの道が、やがて一つになるかどうかは、まだ分からない。
それでも彼女は、もう立ち止まらなかった。
◇
その後、西方辺境には、新しい道が一本できた。
王都の役人たちは、それを《銀の巡礼路》と名づけた。
けれど、フィデル村の人々は、その名前を使わなかった。
彼らは、もっと簡単な名前で呼んだ。
《セリアの道》。
かつて、神様の地図にも載っていなかった道。
一本の剣では救えなかった人々が、誰かの小さな足跡を信じて歩いた道。
後に、その道を通って多くの旅人が西へ向かった。
商人。冒険者。故郷へ帰る人。
新しい土地を探す人。
道の途中には宿屋ができ、橋が架かり、小さな村も生まれた。
そして、二十年が過ぎたある日。
一人の子どもが、旅の途中で父親に尋ねた。
「ねえ、お父さん。この道って、誰が作ったの?」
父親は少し考えた。
「昔、銀色の足跡を残すお姉さんがいたんだ」
「銀色の足跡?」
「ああ。父さんが、お前くらいのころのことだよ」
父親は、遠くに見える灯台を指さした。
「あの灯台に火を戻して、村のみんなを助けてくれたんだ」
「その人が、この道を作ったの?」
「そうだな。でも、その人一人で作ったわけじゃないんだよ」
「どうして?」
父親は足元を見た。
幾千もの靴が踏み固めた、広い道。
「一緒に歩いた人たちがいたんだ。それからも、たくさんの人がこの道を通った」
「ふうん」
子どもは、しばらく道を見つめていた。
「じゃあ、僕も作ってるんだ!」
「そうだよ」
父親は頷いた。
「お前も、この道を作っているんだ」
子どもは嬉しそうに笑った。
それから、父親の手元に目を留めた。
「ねえ、それ、なあに?」
父親の手には、小さな木彫りの鳥があった。
不格好な羽。
少し曲がった嘴。
長い年月のうちに、木肌はすっかり滑らかになっていた。
「父さんの、大切なお守りだよ」
「見せて!」
父親は子どもに鳥を渡した。
子どもは両手で包み込み、しばらく眺めていた。
「お父さんが作ったの?」
「いや。父さんのお父さんが作ってくれたんだ」
「じゃあ、ずっと持ってたの?」
父親は少し笑った。
「一度だけ、人に渡したことがある」
「誰に?」
「さっき話した、お姉さんに」
「どうして?」
「遠くへ旅に出るっていうから、迷子にならないようにって」
子どもは鳥を見つめた。
「その人、帰ってきたの?」
父親は頷いた。
「ああ。しばらくして、ちゃんと帰ってきたよ」
「それで?」
「お守りを返してくれたんだ。ありがとうって」
父親は、子どもから鳥を受け取った。
あの日、少女が帰ってきて、この鳥を手渡してくれたときのことを覚えている。
ずいぶん長い旅だったはずなのに、彼女は笑っていた。
父親は鳥を上着の内側へしまった。
「さあ、行こうか」
「うん!」
子どもは父親の手を離し、一歩先へ駆け出した。
その小さな靴が、土に新しい足跡を残す。
そして、もう一歩。
また一歩。
道は、まだ続いていた。




