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勇者が消えた西の霧に、役立たずの私は足跡を残す

作者: くるみ
掲載日:2026/10/27

勇者が戻らないまま、一ヶ月が経った。

王国はその日、西の村を見捨てることに決めた。


「フィデル村への救援は、これをもって打ち切る」


宰相の言葉に、異を唱える者はいなかった。

会議室の壁には、神託の地図が掛けられている。王都から各地へ伸びる金色の道。その西端にある小さな村は、灰色に塗り潰されようとしていた。


「ですが、まだ村人が残っています」


末席に控えていた少女が声を上げた。

セリア・エルンスト。栄誉ある王立探索隊に所属する、若い道標師だった。


宰相が眉を寄せる。


「勇者レオンですら戻らなかった土地だ。これ以上、兵を失うわけにはいかん」


「……それなら、私が行きます」


しばらく沈黙があった。

やがて、近衛騎士団長が鼻で笑った。


「お前が? 攻撃魔法も治癒魔法も使えぬというのに」


「……はい」


「固有魔法は、たしか《足跡》だったな」


セリアは頷いた。


彼女が望んで歩いた場所には、銀色の足跡が残る。

雨にも雪にも消されず、七日間だけ光り続ける。ただ、それだけの魔法だった。


「歩いた場所が分かるだけでは、魔物の一匹も倒せまい」


「存じています」


「では、何ができる」


セリアは壁の地図を見た。

フィデル村の西にある灯台へ向かう道は、すでに消えている。

勇者が敗れた場所から先は、神の地図にさえ示されていなかった。


「道を探すことなら、できます」


「道?」


「間違えたら、引き返せます。別の道を探すこともできます」


宰相はしばらく少女を眺め、鼻で笑った。


「好きにするがいい。ただし、王国は一切の責任を負わん。探索隊の籍も返上してもらう」


「承知しました」


セリアは頭を下げた。

会議室を出るとき、背後から誰かが言った。


「神が示さぬ道など、歩いたところで何にもならん」


セリアは振り返らなかった。


何にもならないかどうかは、まだ分からない。

少なくとも、誰も歩いていないのだから。


     ◇


神託の地図とは、王国創設の頃より王家に伝わる、世界の道を示した地図である。

人間のために神が歩いた道を書き起こしたものとされ、そこにない道を進むことは、神の加護を離れることだと信じられていた。


宿へ戻ると、セリアは寝台の上に一本の剣を置いた。


刃は半ばから折れ、鍔にも亀裂が入っている。

勇者レオンの聖剣だった。


一ヶ月前、西の山脈で魔物の群れと遭遇したときのことを、セリアはまだ鮮明に覚えていた。


灰色の霧の中から、黒い獣が次々と現れた。

レオンは探索隊を逃がすため、最後まで戦っていた。

そして、魔物の一撃を受け止めたとき、聖剣が折れた。


『セリア、これを持っていけ』


押しつけられたのは、折れた剣だった。


『でも、あなたは』


『俺はもう少し、あいつらを引きつける』


『武器もないのに?』


レオンは困ったように笑った。


『何とかするさ』


いつも、そうだった。

セリアが何を尋ねても、彼は最後には笑うのだ。


『レオン、私も残ります』


『駄目だ』


彼は、セリアの足元へ視線を落とした。

地面には銀色の足跡が続いていた。


『お前はみんなと戻れ』


『……私など、戻っても何の役にも立ちません』


『そんなことはない』


レオンは、まっすぐ彼女を見た。


『お前が歩いてくれれば、あとから来る者は、少なくとも帰り道を見失わずに済む』


『それだけです』


『それを必要とする人間だっているだろう』


レオンは彼女の肩を押した。


『行け』


それが、最後に聞いた言葉だった。


彼は霧の奥へ走っていった。

セリアはほかの隊員に引きずられるようにして戻った。銀色の足跡を頼りに、霧の外へ抜けた。


けれど、レオンは帰ってこなかった。

彼女が残した足跡は、七日後に消えた。

そして王国は、勇者の死亡を発表した。


セリアは折れた剣を布で包んだ。

探索隊の地図係だった彼女は、古い灯台の記録を読んだことがあった。


西方を守る聖火は、《暁鋼》という特殊な金属を芯として灯される。火を起こしたのち、炉の魔法陣がその力を保ち続けるのだという。


勇者の剣も、同じ金属で鍛えられていた。

折れた聖剣が代わりになる保証はない。

それでも、セリアにはほかに持っていけるものはなかった。


セリアは剣を背負い、夜明け前の宿を出た。


     ◇


六日後、セリアはフィデル村へ辿り着いた。


王都から続く街道は、まだ霧に覆われていなかった。しかし、村の西側には灰色の壁が迫っていた。

村長によれば、霧は日に日に東へ広がっているという。


動ける村人の多くは、すでに避難していた。

残っているのは八十人余り。高齢者や病人、幼い子ども、それに彼らを置いていけない家族たちだった。


「馬車はほとんど残っておりません」


村長は疲れた顔で言った。


「この人数を全員運び出すには、王都からの救援が必要なのです」


「……そうですか」


「救援は、いつ来るのでしょう」


セリアは答えられなかった。

老人はしばらく彼女を見ていたが、やがて目を伏せた。


「来ないのですね」


セリアは頷いた。


窓の外では、灰色の砂が風に舞っている。

霧が村を飲み込むまで、どれほどの猶予があるのだろう。


「西の灯台へ行こうと思っています」


村長が顔を上げた。


「灯台へ?」


「古い本によれば、灯台に火を戻せば、霧を退けられるかもしれません」


「ですが、あの霧の中では……」


「私には、歩いた場所を残す魔法があります」


セリアは庭へ出て、銀色の足跡を残しながら数歩歩いた。

土の上に光が浮かぶ。


村長は息を呑んだ。


「これは……」


「道を教えてくれる魔法ではありません。でも、歩いてきた道なら分かります」


老人は、光る足跡を長く見つめていた。


「……なるほど」


そのとき、小さな声がした。


「ねえ、お姉ちゃん」


振り向くと、七歳くらいの男の子が立っていた。

腕には、古い木彫りの鳥を抱えている。


「勇者様は?」


セリアは息を止めた。


「勇者様?」


「うん。勇者様が来れば、みんな助かるって、お父さんが言ってた」


「……まだ、帰ってきていないの」


男の子の顔が曇った。


「じゃあ、助けてくれないの?」


セリアは膝をついた。


「分からないわ」


「お姉ちゃんは、勇者様じゃないの?」


「違うわ」


「じゃあ、何ができるの?」


セリアは少し考えた。


「……道を残せるの」


男の子は足元を見た。

銀色の光が、小さく瞬いている。


「きれい」


「そう?」


「うん」


男の子はしゃがみ込み、指を伸ばした。

光は触れても消えなかった。


「これがあれば、お姉ちゃんは帰ってこられる?」


「……そうね」


セリアは頷いた。


「帰る道だけは、分かると思う」


男の子は安心したように笑った。


「じゃあ、待ってる」


セリアは小さな手を握った。


「ええ、必ず帰ってくるわ」


     ◇


灯台へ向かう志願者は、十人集まった。

山に詳しい猟師、鍛冶屋、大工、それに村の若者たちだった。

ほかの者は村に残り、病人の世話と食料の確保を続ける。


出発の前夜、セリアは村で最も年老いた女性を訪ねた。

老婆は九十歳に近く、もう長い距離を歩くことはできなかった。


「灯台へ行くのかい」


「はい」


「石橋を渡るつもり?」


セリアは持参した古い測量図を見せた。

老婆はしばらく眺めてから、首を振った。


「昔はね、橋なんてなかったんだよ」


「え?」


「三本の杉が並んでいるところに、古い石段があってね。そこを登ると、川の浅いところへ出られたものさ」


「ありがとうございます」


「今も道が残っているかは知らないよ」


「それでも、助かります」


老婆は小さく笑った。


「私はもう、あそこへは行けないからね」


それから、セリアを見た。


「ちゃんと帰っておいで」


「はい」


庭へ出ると、昼間の男の子が待っていた。


「お姉ちゃん!」


手には、小さな木の枝が握られていた。


「これ、持っていって」


「木の枝?」


「うん。灯台って、大きな火をつけるんでしょう?」


「そうよ」


「じゃあ、薪がいるよね」


セリアは思わず笑った。


「聖なる火だから、普通の薪とは少し違うかもしれないわ」


「変なの。火なのに?」


男の子は首を傾げた。

セリアは、差し出された木の枝を受け取った。


「ありがとう」


     ◇


翌朝、十一人は霧の中へ入った。


霧は濃かった。

数歩先の木々さえ見えず、風の音も遠い。

何度か分かれ道に出た。

古い測量図を開き、地形を確かめる。間違えれば引き返し、別の道を試した。


そのたびに、銀色の足跡が役に立った。

自分たちがどこを歩いたのか、何度同じ場所へ戻ったのか。それだけは、はっきり分かった。


「便利なものだな」


後ろを歩く猟師が言った。

セリアは振り返った。


「……そうでしょうか」


「俺たちは何度もこの霧へ入ったが、戻ってこられるかどうかさえ分からなかった」


猟師は足元の光を見た。


「これなら、少なくとも迷ったまま死ぬことはなさそうだ」


セリアは何も言えなかった。

役に立つと言われたのは、久しぶりだった。


そのとき、霧の奥で低い唸り声がした。


黒い獣が現れた。

猟師が弓を構える。


「走れ!」


セリアは引き返した道を思い出した。

少し手前に、人一人が通れるほどの岩の隙間があった。


「こちらです!」


銀色の足跡をたどって走る。


仲間たちが続いた。

背後で獣が吠えた。

岩場へ辿り着くと、全員が身を滑り込ませた。

獣の爪が岩を削ったが、大きな身体は隙間を通れなかった。

やがて、唸り声が遠ざかっていく。


セリアは岩に背を預けた。

手が震えていた。


「……私は、戦うことができません」


鍛冶屋の女性が顔を上げた。


「だから何だい?」


「もし、あの魔物が入ってきたら……」


「あんた、全部一人でやるつもりだったのかい」


女性は呆れたように笑った。


「道を探すのはあんたの仕事でも、魔物を追い払うのも、荷物を運ぶのも、あんた一人の仕事じゃないよ」


セリアは黙っていた。


「私らにだって、できることはあるんだから」


女性は立ち上がり、肩の斧を持ち直した。

セリアも、ゆっくりと立ち上がった。


     ◇


二日目の昼過ぎ、一行は古い石橋へ辿り着いた。


橋は中央から崩れ落ちていた。

霧の底から、川の流れる音が聞こえる。


「……渡れないな」


猟師が呟いた。


セリアは測量図を広げた。

この橋を越えれば、灯台までは遠くない。

だが、ほかに道は描かれていなかった。


しばらくして、老婆の言葉を思い出した。


「……三本の杉」


セリアは顔を上げた。


「この近くに、三本の杉が並んでいませんか」


猟師が周囲を見回す。

やがて、霧の向こうを指さした。


「あれか?」


崖の端に、黒い木の影が並んでいた。


一本。

二本。

三本。


セリアは駆け寄った。

根元には、苔に覆われた石段があった。

何十年も使われていないのだろう。土に埋もれ、倒木に塞がれていた。

それでも、道は残っていた。


「ここを登りましょう」


一行は石段を進んだ。


倒木は鍛冶屋が斧で払った。

崩れた場所には大工が足場を作った。

猟師が獣の気配を確かめ、若者たちが荷物を運んだ。

セリアは先頭を歩き、銀色の足跡を残した。

何度も立ち止まり、何度も道を探し直した。


やがて、霧の中に細い山道が現れた。

その先には、川の浅瀬があった。


「……本当にあった」


誰かが呟いた。

セリアは振り返った。


仲間たちが彼女を見ていた。

誰も地図を見ていなかった。

ただ、足元に続く銀色の光を見ていた。


     ◇


灯台へ辿り着いたのは、出発から三日目の午後だった。


山の尾根に建つ石の塔は、灰色の霧に半ば沈んでいた。

かつて西方を守っていたという聖火は、消えたままだった。


扉を開くと、冷たい空気が流れ出てきた。

一行は螺旋階段を登った。


最上階の炉には、古い文字が刻まれている。


《暁の鉄を捧げよ》


セリアは背中の包みを降ろした。


折れた聖剣を取り出す。

鍛冶屋の女性が、刃の断面を確かめた。


「……たしかに暁鋼だね」


「使えるでしょうか」


「分からない。でも、試す価値はある」


セリアは剣を炉の中央へ置いた。

魔法陣に手を触れると、かすかな金色の光が走った。

折れた刃が震え、小さな火が生まれた。


「……ついた」


誰かが呟いた。

だが、火はそれ以上大きくならなかった。

炉の底で、弱々しく揺れている。


セリアは膝をついた。

ここまで来たのに。

託された勇者の剣まで使ったのに。


火は、今にも消えそうだった。


「……どうして」


そのとき、男の子の声が蘇った。


『変なの。火なのに?』


セリアは顔を上げた。


「……薪」


鍛冶屋の女性が振り向く。


「何だって?」


「薪です。火を大きくしなければ」


女性は炉の下を調べた。


煤に埋もれた小さな扉がある。

開くと、奥に古い灰が残っていた。


「……そういうことか」


女性は頷いた。


「暁鋼は火種なんだ。最初に炎を育てて、炉の魔法陣へ移さなければならない」


セリアは鞄を開いた。

村の男の子にもらった、小さな木の枝があった。

それをまず炉へ入れる。


仲間たちも、運んできた薪と油を取り出した。

火は少しずつ大きくなった。


乾いた木が音を立てて燃える。

金色の炎が炉の縁へ広がり、やがて刻まれた魔法陣が輝き始めた。


塔全体が、かすかに震えた。

薪が燃え尽きても、炎は消えなかった。

炉の魔法陣が、聖火を保ち始めたのだ。


次の瞬間、金色の光が天へ噴き上がった。

窓から身を乗り出したセリアは、息を呑んだ。

灰色の霧が、ゆっくりと後退している。


山の尾根から。

谷の奥へ。

村へ向かう街道から。

長く見えなかった景色が、少しずつ姿を現し始めた。


遠く、フィデル村の屋根が見えた。


「……戻った」


誰かが呟いた。


「灯台の火が戻ったぞ!」


歓声が上がった。


鍛冶屋の女性が泣き出し、猟師が大きく息を吐いた。

セリアは窓辺に立ち尽くしていた。

聖剣は炉の中へ沈み、もう取り出すことはできなかった。


レオンが残してくれた、最後のものだった。

それでも、不思議と後悔はなかった。


セリアは窓の外を見た。

西の山々には、まだ霧が残っている。

レオンが最後に向かったのは、その先だった。


「……どこにいるの」


小さく呼んだ。


答える者はいなかった。


     ◇


翌日、一行はフィデル村へ戻った。


行きには三日を要した道も、帰りは一日で抜けられた。道を探し直す必要がなくなり、霧も少しずつ薄くなっていたからだ。

セリアは帰り道にも、新しい銀色の足跡を残した。

夕方には、十一人全員が村へ帰り着いた。


村人たちが駆け寄ってきた。


泣きながら手を握る者。

何度も頭を下げる者。

ただ黙って、灯台の光を見つめる者。

男の子はセリアに飛びついた。


「お姉ちゃん!」


「ただいま」


「本当に帰ってきた!」


そう言って顔を隠して泣き始めた。


「約束したもの」


男の子は顔を離すと、目を赤くしたまま、嬉しそうに笑った。

村長がセリアの前へ進み出た。


「……ありがとうございます」


深々と頭を下げる。

セリアは慌てて首を振った。


「私一人では、何もできませんでした」


老婆が古い道を教えてくれたこと。

猟師が魔物の気配に気づいたこと。

鍛冶屋や大工が道を直してくれたこと。

男の子が薪を持たせてくれたこと。

そのどれが欠けても、灯台には辿り着けなかっただろう。


村長は、銀色の足跡を眺めた。


「それでも、最初に歩き始めたのは、あなたです」


セリアは何も言わなかった。

足元では、子どもたちが光る足跡を珍しそうに覗き込んでいた。


     ◇


その夜、村では久しぶりに明るい火が焚かれた。


霧が退いたからといって、何もかも元に戻るわけではない。

畑は荒れ、街道は傷み、病人もいる。

王都からの救援が再開されるかどうかも、まだ分からなかった。

それでも、村には時間が戻ってきた。

明日のことを考えられるだけの、時間が。


セリアは広場の端に座っていた。


西の灯台が、遠くで光っている。

その向こうには、まだ霧が残っていた。


レオンは帰ってこない。

勇者の剣も、もうない。

彼が生きているかどうかさえ、分からなかった。

それでも、あの霧の中へ行ってみようと思った。


道を探すことならできる。

間違えたら戻ればいい。

戻れる場所さえあれば、何度でも探し直せる。

セリアは膝を抱え、遠くの光を見つめた。


     ◇


同じ頃、王宮の宰相執務室に、一人の神官が駆け込んできた。


「宰相閣下!」


「何だ、騒々しい」


「神託の地図が……!」


宰相が顔を上げる。


「地図がどうした」


「道が現れました!」


宰相は急いで会議室へ向かった。


壁に掛けられた神託の地図。

その西の端に、細い銀色の線が浮かんでいた。

黒い山脈を越え、古い灯台へ続く道。

昨日まで、そこには何もなかった。


「……あり得ん」


宰相が呟いた。


「神が示していない道だぞ」


神官たちは顔を見合わせた。

誰も説明できなかった。


ただ一人、年老いた宮廷史官だけが、古い書物を開いていた。


「……そういうことでしたか」


「何がだ」


史官は顔を上げた。


「閣下。神託の地図について、私どもは一つ、思い違いをしていたのかもしれません」


「思い違い?」


「この地図は、神がこれから人の歩く道を定めたものだと、教えられてきました」


「当然だ」


「ですが、最古の記録には、こうあります」


史官は、黄ばんだ書物の一節を指さした。


「《人の歩みを、天に記す》」


宰相は眉を寄せた。


「……それがどうした」


「つまり、この地図は」


史官は、銀色の線を見た。


「人がこれから歩くべき道を示していたのではなく、人がすでに歩いた道を、天が記していただけなのかもしれません」


宰相は何も言わなかった。


「かつて使われていた道も、誰も歩かなくなれば、やがて地図から消える。そして、再び人が歩けば、新たな道として記される……」


史官は古い書物を閉じた。


神の地図に、道がなかった。

だから誰も歩かなかった。

誰も歩かなかったから、道が生まれなかった。

ただ、それだけのことだったのか。


地図の西端で、新しい銀色の線が静かに輝いていた。


     ◇


灯台の火が戻ってから、六日が経った。

フィデル村には、避難していた人々が少しずつ帰り始めていた。


灰色の霧は、完全に消えたわけではない。

けれど、灯台の光が届く場所には、もう魔物が近づけなくなっていた。


畑には、まだ灰が積もっている。

水車も壊れたまま。

失われた家もあった。

これから直さなければならないものは、山ほどある。

それでも、人々は帰ることを選んだ。


「お姉ちゃん!」


あの男の子が、セリアのもとへ走ってきた。

腕には、いつもの木彫りの鳥を抱えている。


「もう行っちゃうの?」


「ええ」


「ここに住まないの?」


「まだ、行きたいところがあるの」


男の子は首を傾げた。


「どこ?」


セリアは西を見た。


灯台の向こう。

さらに遠く。

地図の端に、何も描かれていない土地がある。


レオンが最後に向かった方向だった。


「……人を探しに行くの」


「勇者様?」


「ええ」


「生きてるの?」


セリアは少し黙った。


「分からないわ」


男の子は、悲しそうな顔をした。


「じゃあ、いなかったら?」


セリアは答えを探した。

今までなら、きっと怖くて口にできなかった。


レオンが死んでいるかもしれない。

探しても見つからないかもしれない。

何年歩いても、何も得られないかもしれない。

そんな未来を考えるだけで、足がすくんだ。


けれど。


「……それでも、行ってみたいの」


セリアは言った。


「私が歩いていけば、そこに道が残るでしょう?」


男の子が足元を見た。


銀色の足跡。

数日前、灯台から帰ってきたときに残した光が、まだ続いていた。


「うん!」


「その道を、いつか誰かが使うかもしれない」


「そっか」


「だから、無駄にはならないと思うの」


男の子は少し考えた。

それから、木彫りの鳥を差し出した。


「じゃあ、これあげる」


「え?」


「お守り。お父さんが作ってくれたんだ」


「そんな大切なもの、いただけないわ」


「いいの!」


男の子は胸を張った。


「お姉ちゃんが迷子になったら、鳥さんが道を教えてくれるよ」


セリアは、小さな鳥を受け取った。


不格好な羽。

少し曲がった嘴。

何度も握られ、角が丸くなっている。


「……ありがとう」


男の子は笑った。


「勇者様が見つかったら、また来てね!」


セリアは頷いた。


「ええ。約束するわ」


     ◇


村を出て、しばらく歩いたころだった。


セリアは、ふと足を止めた。

山道の端に、小さな花が咲いていた。

灰をかぶった土の隙間から、細い茎を伸ばしている。

淡い黄色の花だった。


セリアはしゃがみ込み、そっと指を伸ばした。


花は弱々しく揺れている。

けれど、確かに咲いていた。


「……強いのね」


セリアは微笑んだ。

そして、立ち上がった。


背中には、もう聖剣はない。


勇者の加護もない。

王国からの支援もない。

あるのは、すり減った靴と、古い測量図。

それから、役立たずと呼ばれた魔法だけ。


怖かった。

霧の向こうに何があるのか、分からない。

レオンが生きているのかも分からない。

自分が無事に帰れるかどうかも分からない。

それでも、セリアは一歩を踏み出した。


足元に、銀色の光が浮かんだ。


もう一歩。

また一歩。

やがて、細い光の道が山の向こうへ伸びていく。


そのときだった。


「……あれ?」


セリアは立ち止まった。


前方の地面に、何かが見えた。

靴跡だった。


銀色ではない。

魔法によるものでもない。

柔らかい泥に刻まれた、誰かの足跡。


大きな男物の靴。

右足の踵だけ、少し欠けたような形をしていた。


セリアは息を呑んだ。


覚えている。

何度も見た。

王都の訓練場で。

森の中で。

雪の降る山道で。


人の足跡を見るのは、昔からのセリアの癖だった。


レオンの右靴の踵には、古い傷があった。

魔物に襲われたときに靴底が裂け、そのまま修理を後回しにしていたのだ。


『どうせ、またすぐ傷むからな』


そう言って笑っていた。


セリアは膝をついた。

指先で、足跡の縁へ触れる。

土は、まだ少し湿っていた。


いつ付いたものなのかは分からない。

本当に彼のものなのかも分からない。


セリアは顔を上げた。

足跡を逆にたどれば、山の向こうへ続いている。


一つ。また一つ。

遠く、霧の中へ。


彼女は立ち上がった。


「……レオン」


名前を呼ぶ。

返事はなかった。


けれど、セリアは笑った。

もう、地図を開かなかった。


自分の足で確かめればいい。


この先に何があるのか。

どこまで歩けるのか。

決めるのは、王様でも、神様でもない。


セリアは歩き始めた。


前には、誰かの足跡。

後ろには、自分の足跡。

二つの道が、やがて一つになるかどうかは、まだ分からない。


それでも彼女は、もう立ち止まらなかった。


     ◇


その後、西方辺境には、新しい道が一本できた。


王都の役人たちは、それを《銀の巡礼路》と名づけた。

けれど、フィデル村の人々は、その名前を使わなかった。

彼らは、もっと簡単な名前で呼んだ。


《セリアの道》。


かつて、神様の地図にも載っていなかった道。

一本の剣では救えなかった人々が、誰かの小さな足跡を信じて歩いた道。

後に、その道を通って多くの旅人が西へ向かった。


商人。冒険者。故郷へ帰る人。

新しい土地を探す人。

道の途中には宿屋ができ、橋が架かり、小さな村も生まれた。


そして、二十年が過ぎたある日。

一人の子どもが、旅の途中で父親に尋ねた。


「ねえ、お父さん。この道って、誰が作ったの?」


父親は少し考えた。


「昔、銀色の足跡を残すお姉さんがいたんだ」


「銀色の足跡?」


「ああ。父さんが、お前くらいのころのことだよ」


父親は、遠くに見える灯台を指さした。


「あの灯台に火を戻して、村のみんなを助けてくれたんだ」


「その人が、この道を作ったの?」


「そうだな。でも、その人一人で作ったわけじゃないんだよ」


「どうして?」


父親は足元を見た。

幾千もの靴が踏み固めた、広い道。


「一緒に歩いた人たちがいたんだ。それからも、たくさんの人がこの道を通った」


「ふうん」


子どもは、しばらく道を見つめていた。


「じゃあ、僕も作ってるんだ!」


「そうだよ」


父親は頷いた。


「お前も、この道を作っているんだ」


子どもは嬉しそうに笑った。

それから、父親の手元に目を留めた。


「ねえ、それ、なあに?」


父親の手には、小さな木彫りの鳥があった。


不格好な羽。

少し曲がった嘴。

長い年月のうちに、木肌はすっかり滑らかになっていた。


「父さんの、大切なお守りだよ」


「見せて!」


父親は子どもに鳥を渡した。

子どもは両手で包み込み、しばらく眺めていた。


「お父さんが作ったの?」


「いや。父さんのお父さんが作ってくれたんだ」


「じゃあ、ずっと持ってたの?」


父親は少し笑った。


「一度だけ、人に渡したことがある」


「誰に?」


「さっき話した、お姉さんに」


「どうして?」


「遠くへ旅に出るっていうから、迷子にならないようにって」


子どもは鳥を見つめた。


「その人、帰ってきたの?」


父親は頷いた。


「ああ。しばらくして、ちゃんと帰ってきたよ」


「それで?」


「お守りを返してくれたんだ。ありがとうって」


父親は、子どもから鳥を受け取った。


あの日、少女が帰ってきて、この鳥を手渡してくれたときのことを覚えている。

ずいぶん長い旅だったはずなのに、彼女は笑っていた。


父親は鳥を上着の内側へしまった。


「さあ、行こうか」


「うん!」


子どもは父親の手を離し、一歩先へ駆け出した。

その小さな靴が、土に新しい足跡を残す。


そして、もう一歩。

また一歩。


道は、まだ続いていた。

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