9.帰りたいんだ
無貌が溶けていく。
クスノキ様は、体中傷だらけで、左の手足は明らかにおかしな形をしている。
それでも、生きている。
急いで傍に駆け寄る。
何も出来なかったから、せめて言葉だけでも精一杯送ろう。勝利を讃えて、守り抜いてくれたことに感謝して、無茶な戦い方を叱責して──
近くで、風を切る音がした気がした。
次の瞬間、クスノキ様に突き飛ばされる。
起き上がると、眼前には血の海が広がっていて、その中心にはクスノキ様が倒れていた。
私は、傍でただ泣くことしか出来なかった。
◇◇◇◇◇
背中が酷く痛む。左足が酷く痛む。左手が、酷く痛む。体中が、酷く痛む。
しかし、それより、そんなことより──傍でフィが泣いている。
反射で、体を起こす。
遅れて、意識がはっきりとしてくる。
フィが、僕の左手を優しく握りながら泣いていた。泣き止んで欲しくて、そっと右手で頭を撫でる。
「ッ! クスノキ様ぁ!! 生きてた!! 生きてたぁああああ!!! もうっ……もう駄目かと……」
どうも逆効果だったようで、さらに泣かれてしまう。安心させようと、僕は「大丈夫だ」と言おうとしたが、口からは声ではなく血が溢れ出る。
「っあ! だっ駄目です!! クスノキ様!! 安静に!!! 安静になさってください!!!」
フィは泣きじゃくりながら僕の体を横にし、膝枕をしてくる。
口から、ゆっくりと血が垂れて来るのがわかる。背中はやけにひんやりとしている。
確か、フィを庇って切られたんだっけ。
きっとかなり深く切られたのだろう。
生きているのが不思議なほどに。
もしかしたら、何かとても重要な、生きている理由、死んでいない理由があるのかもしれない──が、そんなものは正直、どうでもよかった。
生きているなら、帰れる。
「ごほっ、うぇ……ああ、帰りたい、なぁ」
口の中の血と一緒に、内心を零した。その呟きを、フィが拾う。
「帰りたいと言うのは……故郷、元の世界にですか?」
とても、とても優しいその声を前に、僕はつい弱音を吐いてしまう。
「ああ、そうだよ。元の世界に、家に帰りたい……痛いのも苦しいのも怖いのも全部、嫌だ」
今、フィはどんな表情をしているだろうか。確かめる勇気は僕にはなかった。
「けど、痛いのよりも、苦しいのよりも、怖いのよりも、こんな、友人も家族も誰もいない世界で、一人で死ぬのだけは、もっと嫌だ…………」
フィは、何も言わなかった。ただ、僕の頭をゆっくりと、その小さくて暖かな手で撫でていた。
この世界に来てから一番、穏やかな時間だった。
◆◆◆◆◆
ゆっくりと体を起こす。全身は悲鳴をあげているが、何とか動けるくらいには回復していた。
「本当にもう大丈夫なのですか?」
「ああ、大丈夫。それにいつまでもここにいる訳にもいかないだろう?」
二人で戦利品を回収する。
「この特殊個体であろう無貌ってどこに持ち帰ればいいんだろうな……」
「無難に芋虫の頭の部分とかじゃないですかね」
「そうかぁ。意外とこの、肉? の部分だったりしないかなーとか思うんだけど」
そんな、他愛もない話をする。
無貌の衆は、フィが頭を、僕が肉を持って帰ることになり、ついでにどちらの方が金額がつくか勝負することになった。
ゆっくりと、帰り道を進む。
左足が使い物にならなくなっていたが、フィが上手いこと支えてくれているため難なく進むことができていた。
「……クスノキ様は、元の世界に帰ったら何を最初にしたいですか?」
フィが、真剣な顔で突然聞いてくる。
「……そうだなぁ。何よりまず──食事、かな」
「食事……ですか?」
「そう。はっきり言おう! この世界のご飯は不味い!!」
大声を上げ、右手を掲げる。
そんな僕を、フィは驚いたような、若干変なものを見るような目で見ている気がするが、気にしないでおこう。
「ちゃんとした所で高い金を払えば、悪くないの出てくるのかもしれない……が、それでも元いた世界の食事に匹敵するものが出てくるとは考えられない。スーパーで売ってる百円以下のカップ麺でも、この世界の食事と比べたら何にも替え難い最高の食事だ!!」
熱弁する。
多少誇張してはいるが、概ね本心である。食事の質というのはとても大事なものだということを、僕はこの世界に来てから痛感している。食事という生存に必須の行為が苦痛に繋がるのは精神的にかなりくるのだ。
突如として熱弁しだしたと思えば、苦い顔をしだした僕を見てフィは大きく笑い出す。
「あはっ、あははっ、あっはははははは!! 食事ですか!! もっとこう、好きな人に会いたいとか、家族に会いたいとか仰るかと思いましたのに!! 食事ですか……!! あはっあはははははは!!」
「そ、そこまで笑うことかい?」
「ふふっふふふ……はい、ごめんなさい。少し笑い過ぎました」
フィは目尻を拭いながら謝る。無論僕も怒っているつもりはない。
まさかここまで大笑いされるとは思っていなかったが。
「さっきも聞いたが、そんなにおかしいかい? 食欲ってのは人間の三大欲求に数えられる偉大なものだと思うんだけれど」
「おかしいですよ! これだけ必死に帰ろうと努力なさってるのですから……てっきり愛する人でも元の世界に置いてきたのかと思ってたのに……食事って」
そう言ってフィはまた笑い出す。
「へーへー。どうせ僕は食い意地のはった独り身ですよーだ」
「もー拗ねないでください。笑い過ぎたのは謝りますからー」
「いいや! 許さないね!! 決めたぞ、フィにも絶対僕の世界のものを食べさせてやる。そして今僕のことを馬鹿にしたことを後悔させてやる!!」
「それは……ちょっと、いえ、かなり楽しみにしてますね」
「一度食べたらある意味後悔するかもしれないから覚悟しとくといい!」
ふと、思う。僕はもう一人きりではないのだと。それだけで、明日も、明後日も、やがては帰るその日まで、全部何とかなるような気がした。
「そういえば、クスノキ様は何故そんなにも帰りたいのですか?」
「フィの前でこんなことは言いたくないんだけどさ、僕はこの世界、あまり好きじゃないんだ」
「ご飯が不味いからですか?」
「無論、それもある。後は命がけの迷宮探索も、一歩間違えれば奴隷落ちもありうるような世界なのも嫌なところだね。ただ、それ以上に、僕は美味しい食事に暖かい寝床があり、家族や友人の皆がいた元の世界の日常がただ恋しいだけなんだ」
その言葉に、フィは少し悲しそうな顔をする。心が痛む。僕がこの世界を拒絶するのは、少なからずフィも拒絶しているのだ。
先程とはうってかわり、空気は暗く重い。しかし、こんな空気だからこそ僕は、フィに大切な、とても大切なことを尋ねる。
「なぁ、フィ」
「なんでしょう、クスノキ様」
「……僕が帰る時、君も、来ないか」
「──っ! クスノキ様が許してくださるのでしたら……喜んで」
「そうか……嬉しいよ。本当に」
「こちらこそ、嬉しいです。私は、私は、これからもずっと、クスノキ様の傍にいていいのですね」
「ああ、勿論。むしろこちらから頼むよ、フィ」
異世界に来たことは何よりの不幸だが、だからと言って良いことが全くなかったわけではないと、今この瞬間からは思えるようになった。




