第1話:『九・八一の偽装(フェイク)』
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世界を規定する絶対的な定数、重力加速度。 この地上に生きるすべての存在に平等に降り注ぐ「9.81m/s2」という数値を一ミリでも動かすことは、神の秩序への反逆を意味する。
「神代晴人。判定――『身体強化(擬似)』。評価、最低のFランク。……次」
教官の無機質な声が、冷え切った演習場に響いた。 俺は周囲から漏れる嘲笑を無視し、黙って列に戻る。
「またあいつかよ。属性魔法の一つも使えないのに、よくこの学園に残れるよな」 「親がスクーラーの殉職者だからって、情けで入学させてもらっただけだろ? 見ろよ、あの式神。ただの黒い毛玉じゃねえか」
俺の足元で、実体すらおぼつかない影の塊『ハク』が、申し訳なさそうに震えている。 周囲の連中には、俺が「魔力を身体能力に変換することすらままならない劣等生」に見えているはずだ。
だが、俺の意識の奥底では、全く別の計算式が走っている。
(……外部のマナ消費、ゼロ。脳内演算領域、第4層まで展開。重力加速度を9.81から10.2へ微調整。適用範囲、自身の右足のみ)
一歩踏み出すたび、足の裏から伝わる地面の感触が変わる。 俺が使っているのは、世界が認める『魔法』ではない。 世界のOS(基本原理)そのものを書き換える禁忌の力――**『法則改変』**だ。
もし、この力を使っているとバレれば、俺は明日には処刑されるか、一生出られない地下施設に幽閉されるだろう。 この力は、世界を統治する八人の貴族『エンペラー』と、選ばれた『ランカー』のみに許された神聖不可侵の特権なのだから。
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「ハルト! 判定、またダメだったの?」
校舎への帰り道、幼馴染の**白石結衣**が駆け寄ってきた。 ポニーテールを揺らし、心配そうに俺の顔を覗き込む。彼女はこの学園でも期待されている『氷結魔法』の使い手だ。
「……ああ。いつものことだろ。俺には才能がないんだ」
「そんなことないよ! ハルトは誰よりも練習してるし……それに、私の氷を避ける時、たまにすごく不思議な動きをするじゃない。きっと、いつか覚醒するよ!」
結衣は屈託のない笑顔で俺を励ます。 彼女の優しさが、嘘をつき続けている俺の胸に鋭く刺さった。
その時だった。 校門の前に停まった、防弾仕様の黒塗りリムジンから一人の少年が降りてきた。 銀糸のような髪、夜の月を宿したような碧眼。 彼が歩くだけで、周囲の空間が物理的に「重く」歪むのを俺は肌で感じた。
「――あっ、あの方は……!」
結衣が息を呑む。 ルカ・エヴァンズ。 イギリスの名門出身。八人の帝の一角、『月帝』の座を継ぐことを約束された、現エンペラー候補筆頭だ。
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ルカは取り巻きを連れることもなく、真っ直ぐに俺たちの横を通り過ぎようとした。 だが。
「…………?」
俺の横を通り過ぎる瞬間、ルカの足が止まった。 彼はゆっくりと首を巡らせ、俺を――正確には、俺の足元で震えるハクを凝視した。
「君。……名前は?」
鈴の音のように澄んでいるが、逆らうことを許さない絶対的な声。
「……神代、晴人です」
「ハルト。……君の式神、面白いね。重力に押し潰されながらも、必死に『特異点』を維持しようとしている。それはまるで、主人の内側に隠された――大きな歪みの鏡だ」
心臓がドクリと跳ねた。 ルカは俺の瞳を、魂の奥まで覗き込むように見つめる。
「君、何かを『隠して』いないかい? その不安定な波動、僕の空間干渉とよく似ている」
「……何のことか、分かりません」
俺は拳を強く握りしめた。 バレたのか? この天才に。 ルカは数秒の間を置いて、ふっと妖艶な笑みを浮かべた。
「いいよ、今は。……でも、覚えておいて。僕は『月』の使い手だ。引力を支配する僕の前で、重力の嘘は通じない」
ルカはそれだけ言うと、颯爽と校舎へ消えていった。 残されたのは、凍りついたような静寂と、俺の背中を伝う冷たい汗だけだった。
「ハルト、今のって……」
「……さあな。雲の上の人の考えることは分からんよ」
俺はハクを抱き上げた。 隠し通さなきゃならない。 この底辺から、いつか世界を逆転させるその日まで。 俺の成り上がりは、この絶望的な『偽装』から始まるんだ。
ルカに目をつけられた晴人は、放課後の演習場で彼から衝撃的な提案を受ける。一方、結衣との日常にも、学園の残酷な格差が影を落とし始め……。




