第9話 成り上がる道
分からない事は素直に聞きなさいと昔誰かに教わった気がしたので、僕はその教えの通りに手を挙げた。
「はい、アストリッド様! 骸士って何ですか?」
「……貴方、もう逆に何なら知ってるのっていう感じね」
呆れられた。
「勉強なら隣の教会で受けさせてもらったよ?」
「そうじゃないのよ。ごめんなさい」
一瞬だけ悲しそうにアストリッドが微笑む。けれどすぐに元の力強い表情を浮かべた。
「仕方ないわ。素直に聞けるアサヒ君には特別に教えてあげましょう」
教えてくれるらしい。やはり昔の人は偉大だ。
アストリッドは少しだけ慈愛をのぞかせた顔で静かに言う。
「骸士というのは何度骸になろうと戦い続ける奴隷の戦士の意よ。ようはダンジョンに潜りダンジョンでのみ都市に貢献する奴隷ね」
「はい、アストリッド先生!」
「誰が先生? ちょっと気分がいいわ、続けなさい」
「僕はもうダンジョン奴隷として働いてるよ。これって骸士じゃないの?」
「全然違うわ」
全然違うらしい。訳が分からないよ。
アストリッドは掛けていない眼鏡をくいっと上げる仕草をし、
「やってることは確かに同じよ。そしてどっちも奴隷であることには変わりないけれど、社会的な地位が全然違うわ。ダンジョン奴隷は奴隷の中でも最底辺。だけどダンジョン奴隷から下級骸士に上がるだけでその待遇は跳ね上がる」
具体的に、とアストリッドは指を三つ立てた。
「一つ。ダンジョンから持ち帰った品が適正価格の五分の一で買い取られるわ。ダンジョン奴隷は十分の一よね」
「おお!」
「二つ。螺旋階層の施設利用料がダンジョン奴隷の半額よ」
「おお! 浴場行きたい! お湯!」
「綺麗好きなのはいいことね。そして三つ」
アストリッドはたっぷりと間を取り——言った。
「螺旋階層の地下31階から40階までの通行が許可されるわ」
「おお……おお?」
……だから?
「よく分からないって顔ね。最底辺の奴隷は最下層と遊興階層の一部しか移動が許されていないのだもの。ピンと来なくてもおかしくないわね」
「何があるの?」
「詳しく教えてあげるわ」
そう言ってアストリッドは養護室に備え付けられていた大きな白い板を持ってくると、黒い文字でさらさらと流れるように何かを書き出した。なんか丸っこくてかわいい文字。
「見なさい。これが螺旋階層の全貌よ」
地下41階〜50階:『最下層』
新人や成果を出せない全ての奴隷が住む場所。粗末な食事と雑魚寝。衛生環境は劣悪。←貴方が今いる場所
地下31階〜40階:『鉄の骸士区画』(下級)
最下層を抜け出した者の証。雑魚寝ではなく数人での「相部屋」が与えられる。食事の質もほんの少しだけマシになる。アサヒがまず目指すべき場所。
地下21階〜30階:『銅の骸士区画』(中級)
多くの奴隷たちの最初の大きな目標となる場所。有料ではあるが鍵のかかる「個室」が初めて手に入る。
地下20階:『遊興・商業区画』
お湯の出る大浴場、賭場、武具屋、情報屋、酒場、教会などが集まる娯楽エリア。骸士は自由に出入りできるが、一般奴隷が利用するには高額な料金か許可が必要。
地下11階〜19階:『銀の骸士区画』(上級)
市民権獲得まであと一歩のエリート中のエリートだけが住める場所。個室はもちろん食事の質も衛兵と変わらない。一種の特権階級。
・地下1階〜10階:『官吏・衛兵区画』
奴隷やダンジョンを管理する役人、都市の衛兵たちの詰め所や居住区。奴隷は特別な許可がなければ決して立ち入れない。
「どう? 分かったかしら」
……なんかいっぱいあるなぁ。
「はい、アストリッド先生!」
「どうぞアサヒ君」
「色々書いてるけど僕は鉄の骸士を目指せばいいの?」
「はいその通り。偉いわ、よくできました」
少し投げやりに僕の頭を撫でるアストリッド。褒められて嬉しい。
アストリッドは嘆息すると、「骸士のなり方を説明するわ」と白い板に文字を書き加えた。
条件1:10万Gの献金
「無理!」
「判断が早いわ」
そう言ってアストリッドは苦笑する。無理なものは無理だ。
だって10万て……固いパン何個分? あれ1個追加注文すると10Gも取られるんだよ? その1万倍? 許して。
「まぁ実際ダンジョン奴隷にこれは無茶よね。だって彼らは適正価格の十分の一で戦利品を買い叩かれるのだもの。実質100万G納めるのと変わらないわ。これが骸士に上がれず、ただの奴隷として燻っている人が多い一番の理由ね」
そう言ってアストリッドはうなずき、「でも貴方は違う」と断言した。
「貴方には私がいる。安心なさい。奴隷への支援として課税されるから多額になるけれど、今回は特別に私が払ってあげる。どう? 嬉しい?」
「ありがとうございます! アストリッド様!」
「期待してた反応と違うわ。やり直し」
……僕にどうしろと?
アストリッドは呆れを含ませて嘆息する。
「貴方ね、私が自費で大金を払うのだからもうちょっと可愛い反応しなさいよ。骸士でもない奴隷に掛けられる支援課税が何倍か知ってる? しかもこれは物資じゃなくて金銭の授与にあたるから下手したら何十倍よ? 何その普通の笑顔。泣いて喜ぶか遠慮がちに一度は辞退しなさいよ、僕自分で頑張りますって」
「でもアストリッド様は自分からチャンスは棒に振るなって言ったよ? だから貰えるものは貰うことにしたんだ」
「覚えていてくれて嬉しいけれど小賢しいわ」
アストリッドは「はぁ」と大きくため息を吐く。
「まぁ、冗談よ。この10万Gの献金は奴隷としての勤続年数に応じて割引されるから、8年もダンジョンに潜り続けた貴方は半額程度になってるはずよ。必ず蘇ると言っても死の恐怖や痛みはあるし、こんなに長い期間「正気」の奴隷はあまりいないから、あり得ない値引き率ではあるけれど」
「精神的にタフな子」と、どこか憐れみの視線を向けられる。僕にとっては当たり前だからよく分からない。
「とにかく、貴方は条件1を心配する必要はないわ。大事なのは条件2の方ね」
「ならなんで条件1言ったの?」
「これ以上追及するならお仕置きよ」
少し恥ずかしそうにコホンと咳払いをするアストリッド。
彼女はまた丸っこい文字で白い板に書き足した。
条件2:『ゴブリン迷宮』のトロールを討伐すること。
……そんなモンスターいた?
「僕知らないって顔ね、無理も無いわ。貴方は低階層……潜っても2層が限界だもの。トロールは5層へと繋がる階段前の番人よ」
「つまり僕は一月で5層まで攻略すればいいの?」
「あら意外、今度は本当に驚いたわ。これまで低階層しか潜らなかった貴方に一月で倍以上の成果を出せと私は言ったのよ? もっと慌てるなり怖気付くなりしたらどうかしら」
「なんで?」
それこそ僕には意味が分からなかった。
確かに昨日までの僕なら絶対無理だと言ったかもしれない。でも今日からの僕はそうは思えなかった。
それはスキルを覚えたとか強くなったとかそういう表面的な話じゃない。たったそれだけで自惚れることができるほど、僕はダンジョン経験が浅くないから。
僕が普通でいられる理由は一つだけ。
それが——僕に未来をくれた人の言葉だから。
アストリッドが「一月で骸士になれ」と言うのなら。
戦う力をくれた恩人が、そう告げるのなら。
それはきっと、できるということなのだろう。
ただ、そう思っただけなんだ。
「……ふふ、いい子よ」
アストリッドはまた僕の頭を撫でる。今度は少し愛でるようだった。
「さて、以上が当面の方針よ。貴方は一月でトロールを倒す。いいわね?」
「うん、分かった」
「とりあえずご飯にでも行きましょう。地下階層の食事は私に合わないから要らないけれど、貴方にはお腹いっぱい食べさせてあげる。それがパトロンになる時の約束だものね」
「——ありがとうございます! アストリッド様っ!」
「今日一番の笑顔ね。なんかムカつくわ」
アストリッドが片付けようとした白い板を僕はもう一度見る。
螺旋階層の全貌。僕が知らない世界の話。
時折見かける顔ぶれの違う奴隷——その理由を、僕はようやく理解した。
「アストリッド様。僕って、本当に最底辺で生きてたんだね」
「そうね。でも貴方には悪いけれど、私は嬉しいわ」
そう言って、アストリッドは笑みを深めた。
「貴方が最底辺から成り上がる所を、特等席で見れるのだから」




