ティータイム
ニルギニのティーバッグが入ったティーカップにお湯を注ぐ、少しずつ揺らすと、無色から鮮やかなオレンジ色に染まっていき、爽やかな香りが漂う彼女はそれを二つ分作り、リビングへ移動した。テーブルに並べられた二つのティーカップを暫く見つめた後に、「淹れたからね」と一言。
彼女は自分以外誰も居ない部屋で、誰かに話しかけるように言った後にイスに座わった。ソーサーからティーカップを右手で持ち上げ、一口飲む──すっきりとした味わいが口の中に広がり癒されるこの頃。仕事の無い休日はいつも、こうして一人ティータイムを楽しんでいる。そして彼女は毎度、同じ事を言う。
「まだ飲んでないの? 冷めちゃうよ」
無論返事はない。彼女は微笑み、自分の分の紅茶を飲み干した。……一時間程して、彼女は立ち上がり、向かい側の誰も座っていない席へ移動、手の付けられていないティーカップに触れる。
「ほら、冷たくなっちゃった」
すっかり冷めきってしまった紅茶の入ったティーカップと、自分の飲み追えたティーカップを持ち、キッチンへ運び片づけた。
──数年前、彼女は恋人と同棲生活をおくっていた。互いが互いを尊重し合い、譲り合い、真面目な時はきちんと話し合ったりと、誰が見ても安定した仲の良いカップルで、問題が解決すれば必ず二人で大好きな紅茶を淹れて、ティータイムを楽しんだ。……けれど、その日は珍しくお互いに譲れない想いが発生し、大喧嘩をしてしまった。
今思えば些細な喧嘩だった気がするが、つい熱が入ってしまったのだと思う。一度喧嘩が始まれば、段々それはエスカレートしていき、ついには恋人の男は家を出て行ってしまった。元々些細な事、数時間後には彼女の怒りはスッカリおさまり、深い後悔に苛まれていた。段々不安に駆られていった彼女は、恋人に電話をかけた。
……しかし、彼は電話には出なかった。それから数時間経っても恋人は帰って来ず、彼女は焦りと不安が募っていき、心細さを覚えた。時間が経つ度につれ、その感情は大きくなりスマートフォンを取り出したタイミングで、自宅に電話がかかってきた。
……電話を出ると病院からだった。信号無視をした車と恋人の車が衝突し、事故が発生したらしく恋人は病院へ運ばれたが、……先程死亡が確認されたのだという。
彼女は泣き崩れた。あんな些細な口喧嘩のせいで、自分の恋人が死んでしまったのだ……。恋人を失った原因は相手の車だったとしても、彼が家を出て行ったきっかけは明らかに自分だと考えたらやるせない。
彼女は暫く生きた人形になった。中身が空っぽになった感覚、食事もろくに食べていなくて、体は日に日にやせ細っていく。食べたくなくても何かを摂らなければ死ぬ、キッチンへ行き適当に何を食べるかぼんやり考えていると、ふと……食器棚に入ってあるティーパックが入った缶が目に入った見た。
恋人が生前、休日はいつも二人でリビングでティータイムを楽しんでいた。二人きりの時間、紅茶の香りが漂うまったりとした空間。……とても幸せだった。
「貴方は生きているよ……だから、待ってる……いつまでも。」
そうして彼女はまた次の休日も、一人きりでティータイムを過ごす。
***
──あれから数十年、彼女の体はもうボロボロだった。まともな栄養も取らず、頻繁に倒れて入院を繰り返していたからか、見た目の老いも早かった。髪は色を失い、健康的だった肉付きの良い身体も今では枯れていた。容姿は大分変わりはしたが、中身だけはあの頃から変わらなかった。あの日から、彼女の中の時間は止まったままだ。
そして変わらず、彼女は今日の休日も一人きりでティータイムを楽しみ、同じ言葉を投げかける。
「まだ飲んでないの? 冷めちゃうよ」
彼女は待っていた。……内心はわかっている。返事なんて返ってきやしない事に、きっと今日も、……しかし、今回は違った。「ぇ……?」彼女はつい目を丸くさせて声を漏らす。……老いて萎れていたはずの腕が、妙に肉付きが良くなっている。なんと自分は、……恋人の死亡を知らされたあの日の体に戻っていたのだ。
「いったい……何が」
困惑している彼女の頭上から声が降ってくる。「遅くなったな」──彼女は聞き覚えのある声に咄嗟に顔を上げた。人は誰かを忘れる時、初めに"声"から記憶が消えると聞く……それが怖くて、彼女は今日までずっと、生前撮った動画を毎日繰り返し聞いていたから一時も忘れる事はなかった。
……目の前には、恋人がいた。あの日の姿のまま……恋人は目の前のティーカップに目線を向けると、何十年かぶりに手に取り、自分の分の紅茶に口を付けた。
「少し温くなっちまったな……ごめん」
彼女の目から涙が一筋伝い……その滴は紅茶の中にポツンと一滴入った。
──彼女は一人リビングで、暖かい紅茶の香りに包まれながら息を引き取った。しかしその表情は……一筋の涙を流しつつ、幸せそうに微笑んでいた。
だいぶ前に書いた短編の一つです。




