パンはどこへ?1
第1話 パンがない朝(ほのぼの×ユーモア)
朝の空気は、いつもなら小麦の甘い匂いで満ちている――はずだった。
カウンターの上に置いた砂時計が、さらさらと静かに落ちていく。パン屋の店先は、まだ街路灯の灯りがうっすら残る時間で、窓の外を行くのは新聞配達の自転車くらい。店内は、木の棚、真鍮の取っ手、磨いたばかりのガラスケース。準備万端。なのに。
「おかしいな……オレ、夜明け前に仕上げて、ここに並べたはずなんだが」
ジーノが腕を組んで、空っぽの棚を見つめている。焼き色の具合までこだわる職人の目が、今は迷子だ。石窯は赤外の余熱をゆっくり吐き出し、香りだけが“あったはず”を証言している。
ソファに腰かけて本を読んでいたリュシーが、ぱたん、と静かに本を閉じた。
「並べたのは何分前?」
「四十分。――いや、三十九分か。砂時計が一回分。いや待て、オレ、砂時計を二回ひっくり返したか……?」
「記憶のオーブン温度は低めね」
リュシーがわずかに目を細めたとき、奥の扉からリゼットが飛び出してくる。栗色の髪がふわっと跳ね、赤いリボンも元気に揺れた。
「おはよう!――え、棚まっしろ!? 新作パン消失事件!?」
「事件認定が早い」リュシーのツッコミは相変わらず鋭い。
そのとき、窓辺で長く伸びをしていたルーズが、まるで雲からこぼれたあくびみたいな声で言った。
「……パン、なくても、朝は来るよ……」
「来るけど! 食べたいの!」リュシーの返しが光速。
ルーズはふわりと尻尾を揺らし、「論破された」と言わんばかりに丸くなる。
ジーノは額に手を当て、深く息を吸った。
「冷静になれ、オレ。手順を思い出せ。こねる、一次発酵、成形、二次発酵、焼成、粗熱……」
指折り確認する姿はいつもの職人だ。ところが、次の瞬間――
彼は急に胸に手を当て、店の中央でくるりと一回転した。
「――わたくしのパンが! 跡形もなく、蒸発したのであります!」
「切り替え早っ」リュシーが眉をひと跳ねさせる。
「すごい! ねえねえ、魔法? 透明になる魔法? それともパンが自立して散歩に?」
「パンは散歩しない、リゼット」
「ルーズは散歩するけど?」
「オレは散歩に連れていかれる側だよ……」と、ルーズが小声で抗議した。
そのやりとりの背後で、コツ、コツ、と靴音。
不識が現れた。深い青のローブの肩に、朝の光が薄く流れる。白い仮面の中央には、青い一本の線と金の縦線。目の穴はないのに、視線だけは不思議と感じる。
不識は何も言わず、空の棚を、ジーノを、そして砂時計を順に見た。
「……なにか言ってくれてもいいのよ?」リュシーが促す。
不識は首をほんのわずかに傾げ、指で空をなぞる。横一線、縦一線――仮面と同じ印。意味は不明。でもなぜか、みんなは「うん、なるほどね」と頷きそうになる。危ない。
ジーノは気を取り直し、カウンターの引き出しを開け始めた。
「まずは店内の確認だ。オレの段取りでいく。リゼットは裏の冷蔵庫。不識は――えっと、不識は……視線だけで何か見つけてくれ」
不識は無言で親指を立て、すっと影に溶けた。心強いのか謎が深まったのか、判断がつかない。
リュシーは帳簿を捲り、仕込み量の数字に目を走らせる。
「記録上は、プレーン二十四、黒麦十六、くるみ十二。合計五十二。――陳列予定は?」
「棚一段目にプレーン、二段目に黒麦、三段目にくるみ。オレのルーティンだ」
「じゃあ、棚の粉の跡は?」
リュシーの指摘に、ジーノは身を乗り出す。棚板に残る薄い粉の筋――そこには、たしかに“置いた跡”が並んでいた。
「置かれてた……のに、ない」
「つまり、置いた後に動いたってことね」
リゼットが冷蔵庫から顔だけ出した。
「ねえ、冷蔵庫、冷たい!」
「それは正しい」
「あと、プリンがある!」
「それは関係ない」
店の外からは、遠く鐘の音が一度だけ鳴った。開店まで、あと少し。
ジーノは真剣な目で店内を見渡す。
「オレ、鍵は閉めてた。合い鍵は……オレとリュシー。あと不識が“なんとなく”開けられる」
仮面がす、とわずかに横を向く。なぜか否定ではなく肯定だと、全員が解釈してしまう。不思議だ。
「ジーノ」リュシーが指を一本立てた。「砂時計、さっき二回ひっくり返した可能性、って言ってたわね」
「言った。いや、言ってないか? いや、言った気がする」
「つまり、時間感覚が怪しい。――であれば、あなた、どこに置いたかが怪しい」
「待て、オレは職人だ。棚以外に置くはずが――」
そこまで言って、ジーノはカウンターの下を覗き込む。
沈黙。
ゆっくり顔を上げて、なぜか胸に手を当てる。
「わたくしは今、重大な事実を発見したかもしれません……!」
「“オレ”で続けて!」リュシーのツッコミが飛ぶ。
「……オレは、かもしれないを、発見した」
「まだ発見してないのね」
ジーノは引き出しを順に開け、紙袋の束、紐、シール、レシピカード……そして、奥の奥に小さな紙袋のかけらを見つけた。甘い匂いがする。
「パンの袋、だな」
「ひとかけらってことは、ここで何かしら“袋を扱った”のよ。――詰めた? 出した? 誰かに渡した?」
「渡してはいない。開店前だ。詰めた……ような、詰めてないような……オレの記憶がグルテンで伸びてる……」
ルーズがひょいとカウンターに飛び乗り、くんくんと鼻を動かした。
「この匂い、裏口の方に流れてるよ」
「やるじゃない、ルーズ」
「猫だからね……」
全員で裏口へ。扉の前、わずかに粉の足跡――いや、足跡というより、袋の底が擦れたような筋が、外へ向かって伸びている。
「誰かが運んだ?」
「あるいは、オレが……」
ジーノが眉を寄せる。そこへ、不識がするりと戻ってきて、静かに紙を一枚差し出した。
それは、今日の祭りのチラシ。大きく「午前の部:屋台開放 パン即売会」と書かれている。
全員の視線が、ジーノに集まる。
リュシーが、ゆっくり、やさしく、しかし逃げ道をふさぐ速度で言った。
「ジーノ。訊くわ。“昨日のあなた”は、このチラシを見た?」
「……見た。気がする。いや、見た」
「そして――“朝一で屋台に運んでおくか”って、思った?」
「思った、かもしれない。――思った! オレ、思った!」
「じゃあ、可能性はひとつね。あなたが自分でどこかに運んだ」
ジーノは天を仰いだ。
そして、胸に手を当てる。
「――わたくしの、うっかりが、世界を騒がせたのであります!」
「世界は騒いでない」
リュシーのツッコミが、朝の店内に小気味よく響いた。
開店まで、あと二十分。
祭り会場は、角を三つ曲がった小さな広場。もし運んでいたのなら、証拠はそこにある。
不識は静かに頷き、扉を押し開けた。外気がふっと流れ込み、鈴の音が一つ転がる。
「よし、確認に行こう」リュシーが言う。「もし本当に屋台に並んでるなら――」
「オレのうっかりを、笑って許してもらおう」ジーノが真面目な声に戻す。
「そして、わたくしは反省会の司会をつとめます!」
「だから“オレ”で続けて!」
笑いながら、みんなは歩き出した。
朝の光が石畳を斜めに撫で、ルーズの尻尾に銀色の縁を添える。不識の仮面は相変わらず無表情なのに、どこか楽しそうに見えた。
角を一つ曲がるたび、パンの匂いが少しずつ濃くなる――ような、気がした。
この作品はAI創作です