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水面を割って水中に呑み込まれる。

気泡の音が耳を塞ぎ、全身を冷たい水が抱き包む。沈んで行きながら水面を見上げる。白い泡が水面をめざして昇っていく。夜を映した水面は暗く、まるで水底のようだった。


少し離れたところにアーサーが漂っている。動きはない。

テオも身体が動かないことに気が付いた。落水の衝撃か、水の冷たさのせいか、両手を広げたまま遠ざかっていく水面を眺めていた。

暗い水のなかへ沈んでいく。

静かな水の音。冷たさすら心地よかった。

まどろみに似ていた。ゆっくりと目を閉じたくなる。


「!」


そのとき、水底から気配を感じた。

深度の見えない暗闇になにかがいる。

水流が変わった。巨大ななにかがテオの方へ向かって来る。

暗い水底から、ぼんやりと青白いものが現れた。

流線形の長大な身体。腹部の四対のヒレが水を掻く。大きな尾が生みだす強大な推進力でテオのもとまで急接近してくる。


それは白い、クジラに似た姿をしていた。

頭部には縦に四つ、左右あわせて四つの目がある。瞳は青と黄色が入り混じった不思議な色をしていた。

水面をめざして浮上していくその生き物はそばを通り抜けざま、瞳をテオに向けた。宝玉のような瞳が細められた。目元の水晶のようなウロコがきらりと光る。

温かな慈愛を感じる眼差しは、百年前、テオに向けられたものと同じだった。


「――ッ!」


激しい水流がテオの身体を引っ張った。視界が泡で白くなり、身体の上下がわからなくなる。渦にのまれたようにもみくちゃにされあらゆる感覚が翻弄される。

そんななか、誰かがテオの腕を掴んだ。

強い力で一方向へ引っ張られた。


「テオ」


聞きなれた優しい声がした。はっ、と目を開ける。

シャオハが顔を覗き込んでいた。

テオを抱きかかえて、穏やかな笑み見下ろしている。その瞳は青と黄色が混じり合ったものだった。いつも右目を覆っていた髪のしたには、虹色の輝きを閉じ込めた水晶の鱗があった。


ふたりの姿は湖から吹きあがった水柱のなかにあった。それはあたりの建物の高さまで伸びあがり、花畑は眼下にあった。

さきほどまでの水の奔流はなく、まるで宙に漂っているようだった。息が出来て、シャオハの声も届いてくる。水のなかにいるのに、水のなかでないような、不思議な状態だった。

シャオハは掴んだテオの手をそっと握る。


「水底は暗くて冷たいけれど、水面を見上げればいつもきみがいてくれる」


そう言って、テオの額に額を寄せた。


「きみに会うために戻って来た」


「シャオハ」


テオは彼の右の頬に触れた。水晶の鱗をなぞるように撫でた。

同じものがテオの耳元でキラリと輝いた。


「お前が、海の神様だったんだ」


瞳を細めて微笑むシャオハ。

テオの目から涙がこぼれた。大粒の涙が頬を濡らす。


「戻って来てくれてありがとう。また会えて嬉しい。おかえり、シャオハ」


空へ伸びる巨大な水柱はあたりに雨のように降り注いだ。夜に灯った照明にちいさな虹が生まれ、雫を浴びた花畑の植物たちが踊るように揺れている。

花園を囲む建物の壁面に巨大な影が映りこむ。

尾と三対のヒレを動かしながら、流線形の大きな影が夜空へ向かって浮上していく。


〇〇〇


瀧のような水量が建物の屋上に注ぎ込んだ。

水浸しになった床にアーサーが投げ出された。腕をついて上体を起こしたものの、それ以上は動けないようだった。飲み込んだ水を吐き出してむせている。

同じ屋上にシャオハが音もなく降り立った。抱えていたテオを下ろすと、アーサーのもとへ歩いていった。

アーサーは苦しそうな表情のまま、目の前にしゃがみこんだシャオハを睨みつけた。


「……くそが」


吐き捨てたアーサーの頭部をシャオハが大きな手のひらで掴んだ。

アーサーの首筋に、シャオハが噛みついた。

抵抗する間もなく牙が突き立ち肉が食いちぎられる。スーツについた乾いた血を鮮血が染め上げていく。床に滴り落ちた赤色が水ににじみながら広がっていく。


「あぁ、くそ」


吐息混じりの悪態をついたアーサーは背中から倒れ込んだ。両手両足を投げ出して仰向けになる。じっと夜空を見上げると、


「ここまでか」


そう言って大きく息を吐き出した。


「ぶっちゃけ怖かった。自分のなかで炎が日に日に小さくなっていくのが。自分が自分でなくなっていくみたいで……」


アーサーはゆっくりと瞬きをする。まどろみのなかにいるように、その声音も曖昧なものになっていた。しだいにその身体から力が抜けていくのがわかる。


「これで、やっと、止まれる、か……」


男は吐息とともに呟くと、ゆっくり目を閉じた。


シャオハは口回りの血を拭った。

テオはアーサーの亡骸を眺めながら呆然として呟いた。


「ジェイジェイやフランシスを殺したのは、シャオハだったのか」


「そうだよ。百年前に肉とともに奪われた力を返してもらったんだよ」


振り返ったシャオハは、テオを見て少し寂しそうな笑みを浮かべた。言葉を押し出すようにして訊ねてきた。


「おれのこと嫌いになった?」


「……」


とっさにテオは返事が出来なかった。頭の中にいろんなものが散らばって、うまく言葉に並べられない。ふたりのあいだに流れる沈黙。少ししてからテオはどうにか声を出した。


「いいよ。シャオハにだったら、食べられてもいい。俺も力を返すよ」


素直な気持ちだった。

するとシャオハは首を横に振る。ゆっくりとした足取りでテオの前にやって来る。

青と黄色が混じり合う不思議な色の瞳が、テオの目をまっすぐに見つめる。


「テオ。おれと一緒に海を渡ろう」


「え?」


まばたきを繰り返すテオを、シャオハは真剣な顔で見下ろしている。


「以前のように、海を守護するほどの力はまだ戻っていない。だから街が海に沈んでいくのを止めることはできない。でも、三人から取り戻した力と、百年のあいだ海底で蓄えたものを合わせれば、もとの姿で海を渡るぐらいはできる」


たじろぐテオの足元で水たまりがぱしゃっと音をたてた。


「……ど、どうして俺なんだ? それなら若者たちを連れて行って欲しい。彼らにこの街では選べないような、いろんな選択肢を見せてやって欲しいよ」


「それは無理だ。生身の人間じゃ、なにが起こるかわからない航海に連れて行けない」


シャオハはテオの手を取った。

その手に自身の額にそっと押し当てる。


「多くの人が俺のことを大切にしてくれた。でも、おれが死んでいくとき、そばにいてくれたのは一人だけだった」


目を閉じたシャオハは静かな口調で続ける。


「人間に追われて傷つけられて、悲しくて、腹立たしくて、空しかった。身体に打ち込まれた銛は痛かったし、絡みついたワイヤーや重しみたいなクレーンで泳げなくなっていくあの感覚は、いま思い出しても嫌なものだけど」


夜に流れる海風がふたりを撫でる。

波は音をひそめ、夜空を写した海原に星のきらめきが揺れている。


「あの花畑できみが見守ってくれたおかげで、おれは独りで死なずに済んだんだ。最期の最後に愛しい人間がいることを思い出すことができた」


シャオハはそっと目を開けた。おだやかな眼差しがテオに向けられる。


「ありがとう、テオ。きみがいたから、おれは救われた」


テオの脳裏に、海の神様が死に際に見せたやわらかい眼差しが過る。

弱り切った八つの目に込められていた思いを、百年経ったいま、知った。


「だからおれはきみと生きていきたい。この先、何百年何千年だって、ずっと」


シャオハは静かにテオを見つめる。


「ただ、きみがもう眠りたいと思うなら、それも止めない」


その言葉が意味するものにはっとする。

生きてきた百年のなかで選びたくても選べなかった選択肢。

いまはそれを選ぶことが出来る。シャオハならそれが出来る。


「テオはどうしたい?」


優しい問いかけに、何も言えずに黙り込んだ。


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