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路地に着地したアーサーは坂になった階段を駆けのぼる。
続いて降り立ったテオが追いかける。アーサーは壁に立掛けられた戸板をひっくり返してテオの進路を塞ぐ。
テオは走った勢いのまま空中でぐるりと一回転して戸板を飛び越した。
着地したテオの前で、アーサーが大きく振りかぶる。
振り下ろされた空のボトルがテオの頭に直撃した。ガラスが砕ける鈍い音。衝撃で地面に手をつくと、大粒の赤い滴がぼたぼたと落ちてきた。ガラス片が散らばる。
「この身体になった直後は良かった。対抗勢力を片っ端からぶっ潰して、この街のトップの座をこの手でもぎ取った。歯向かうヤツは叩き潰して、女を抱きまくって、好きなもん食って、楽園ってのはこういことを言うんだろうなって思ったよ。そこを統べる俺はさながら神様だってな」
割れたガラス瓶を投げ捨ててアーサーは笑っている。
テオは目元に流れてくる血を拭って顔をあげた。地面に散らばるガラス片をひそかに手元に握り込む。
「絵に描いたような勘違いだったな」
光の届かない路地のなかで、男の目には欲望の炎が燻っているように見えた。
テオはガラスの破片を指で弾いた。
顔面に飛んで来たそれをアーサーは腕で払いのける。
その隙をついてテオは距離を詰めていく。突き出した右の掌底は躱されて、男の金髪を掠めた。
テオの右の脇腹に固いものが押し当てられた。アーサーが引き金を引くと熱と痛みが腹部を貫通していった。狭い路地に陰々と銃声が響き渡る。
「ぐっ」
テオはよろけるように数歩下がった。
脇腹を押さえた指のあいだから血がこぼれる。鈍い痛みに奥歯を嚙みながら、アーサーを睨みつける。
痛みに怯まないテオを見て、アーサーは脇道に滑り込んでいった。壁を蹴って建物の二階部部の外通路へとよじ登る。
すぐにその背を追いかける。脇腹の傷口はすでに塞がっていた。
アーサーを追ってマンション内部に入っていく。
あたりの建物よりも頭ひとつ飛びぬけて高い十階建ての建物だった。内部は閑散としていて、静まり返っている。エントランスに灯る照明は苦しげに点滅している。
吹き抜けの螺旋階段が上階へ続いている。
テオが階段を昇りはじめたとき、アーサーの姿は三階あたりにあった。
騒々しく追いかけ合う足音が響く
「苦しいんだよな、平穏が」
ふいにアーサーの声が聞こえてきた。
上階から聞こえてくる足音が止んだ。
テオが吹き抜けを見上げると、アーサーは物憂げな表情を浮かべてテオのことを見下ろしていた。
「真綿で首を絞められていくみたいだ」
男は再び階段を昇りはじめた。
頭上の夜空にむかって足音が鳴りわたる。
「いまじゃもう、歯向かってくるヤツなんかいない。女も食事も飽きた。酒も煙草も不味い。孤立した限界集落のなかじゃギャングっつーかただの相談役だ。抑揚のない生ぬるい日々がだらだらだらだら続いている」
階段は大きな螺旋を描いて夜の空に続いていく。
まるで別の世界へ続く階段を昇っているようだった。アーサーの姿は見えない。彼の足音だけが聞こえてくる。空に向かう階段を昇って行っている。
「いっそのこと、とっとと海の底に沈んでくんねぇかな」
ため息交じりの言葉だった。
彼はどんな顔をして、言葉を紡いでいるのだろう。
冷たい海風が横殴りに流れていく。
視界が開ける。十階建ての屋上に出た。ほかの建物よりも夜空に近い。物干し台や植木鉢などが置かれていて人の営みの気配を感じた。
屋上のなかばにアーサーの背中があった。
「だからって俺は止まれねぇんだよ」
男は物干し台に掲げてあった木製の竿を手に取った。自身の身長ほどある長い棒を縦に回転させる。鋭く空気を切り裂く音がする。
「俺が俺であり続けるために」
振り返ったアーサーの目は爛々と輝いていた。血に飢えた獣のような猛々しさがあった。
燃え盛る炎に浮かされたように、吠える。
「お前を食えばまだワンチャンあるかもって願っちまうんだよッ!」
大きな踏み込みとともに長い棒が突き出される。
胴体を狙ってきたそれを、テオは脇に挟むようにして掴んだ。
間髪入れず、真横から掌底で叩き折る。
乾いた破片が飛び散る。二つに折れた棒がたがいの手元に残った。
二人は同時に前に踏み込んだ。
折れて鋭利に尖った棒を相手の身体に突き刺した。テオが振り下ろしたものはアーサーの左胸に突き立ち、アーサーが突き出したものはテオの左の腹に刺さった。
足元に鮮血が飛び散る。
痛みに顔を歪め、吐血しながらも、互いに相手に凶器をねじ込んだ。
至近距離で睨みあう。
押して引いてを繰り返す。植木鉢をなぎ倒し、ぶつかった物干し台が倒れ込んだ。屋上の床のいたるところに血痕が落ちている。
「俺の炎に、煮えたぎった油をブッかけてくれよ。このご機嫌な衝動のなかにずっとずっといさせてくれよ、なぁテオ!!」
吠えるアーサーがテオの腹に突き刺した棒を引き抜いた。そして血に塗れた凶器を高々と振り上げると、テオの顔めがけて振り下ろした。
「ッ」
反射的にアーサーの腕を掴んだ。鋭利な先端が目の前で止まる。
テオの背中が屋上端の手すりにぶつかった。
すると、錆びついた手すりが鈍い音をあげて根元から折れた。
テオとアーサーは揃って屋上から投げ出された。
「うおっ!」
階下に張り出したトタン屋根に落下し、傾斜を転がり落ちていく。
住人たちが勝手に増築した家屋が連なる。転がる速度が上がっていく。
激しく回転する視界のなかで、テオは必死に腕を伸ばした。
身体が宙に投げ出される。
唐突の浮遊感。
テオは屋根の雨どいを掴んだ。腕一本でぶらさがるテオの足首をアーサーが掴んでいた。テオの腕に負荷がかかる。雨どいが大きく軋んだ。
地上は足元のはるか下にあり、花畑の湖が広がっている。
「さぁ、こっからどうする?」
さすがにアーサーの表情は引きつっていた。男が揺れるたびに掴まっている雨どいがミシミシと音をあげる。
テオは眼下の湖を見下ろした。
海の神様が沈んでいき、シャオハが沈んでいった湖が、黒い水面を広げている。
不思議と恐怖はなかった。
風に煽られたピアスが頬に当たる。百年間、肌身離さず大切にしてきた、海の神様の一部。
「そういえばジェイジェイが言っていたけど」
唐突に出てきた名前にアーサーは眉を寄せた。
「俺たちは海に沈んでも死ねないのかって」
「心中ならご免だ」
男は表情を歪めたまま固まった。
「さすがのきみも、水底まで沈めば頭が冷えるだろ」
言い終わった瞬間、テオは命綱だった雨どいから手を離した。
躊躇も恐れもない、駆け引きすらないその言動に、アーサーは落ちて行きながら呆れたように吐き捨てる。
「やっぱ、一番イカれてんのはお前だよ」
ふたりは夜を映した水面に吸い込まれていった。