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シャオハはアパートの階段を昇っていた。
古く薄汚れた内階段も見慣れてくると安心感がある。この光景のさきにファンとリリが住んでいる部屋があると思うとなおさらだった。鼻歌が反響する。
どこからか言い争うような声が聞こえてきた。
女性の声だった。切羽詰まったように声は大きくなっていく。
シャオハは階段を駆け上る。騒ぎはリリたちが住んでいる階からだった。
部屋の扉が視界に入る。鉢植えや緑に彩られて、通路に面した窓からは穏やかな明かりが漏れている。
瞬間、扉が勢いよく開いて、人が飛び出して来た。
それは壮年の女だった。金髪をひとつにまとめている。女は通路の壁に背中から叩きつけられて、崩れるように倒れ込んだ。
大きく開いた扉の先が光った。短い閃光のあと、乾いた破裂音が鳴り響いた。
室内から切り裂くような少女の悲鳴。
シャオハが部屋に飛び込むとキッチンには倒れ込んだファンがいた。
そばにフライパンが落ちていて、床には料理が飛び散っていた。
「ばあちゃん!」
脇腹を押さえていた。指の間から血が流れている。
ファンは痛みに顔を歪めながら、抱き起そうとしたシャオハの腕を掴んだ。年を重ねているとは思えないほど強い力だった。
「あたしはかすり傷だ。それよりリリを……!」
ファンはリビングのほうを指差した。
床に何かを引きずった血のあとが続いていた。
シャオハは慎重に部屋を覗き込んだ。
窓辺に、いるはずのない男の姿があった。
金髪をラフに撫でつけた、スーツ姿の男だった。相手の価値を測ろうとするような鋭い青い眼差しが、シャオハへ向けられる。男の手には大昔のリボルバーがあり、銃口からは細い煙があがっていた。
「う……シャオ……ハ……」
男の足元でリリがうめいた。顔は蒼白で涙で頬が濡れている。床についた血のあとは少女へと続いていた。男はまるで人形でも扱うように乱雑に少女の腕を掴んでいた。
「てめぇ」
シャオハは男を睨みつけた。
アーサーは眉間にシワをよせて首をかしげる。
「誰だ?」
しかしすぐに「あぁ」と納得したように眉を持ち上げた。
「テオのところにいる行き倒れか。そういえば顔を見たことがなかったな」
「その子を離せ」
アーサーは何も言わず、シャオハのことを観察するように眺めていた。
やがて眉根を寄せた。困惑したような表情を浮かべている。
「……お前、なんだ? なんか変だな」
「その子を離せと言っている」
緊張感が増していく。穏やかなはずだった食卓が、硝煙と血の臭いで塗り替えられる。
アーサーはシャオハへ銃を向けて引き金を引いた。
マズルフラッシュと銃声。リリが短く悲鳴をあげた。
不意打ちの攻撃を、シャオハは上半身を軽く傾けて躱した。
眉間のシワを深めたアーサーの口元の笑みが引きつる。
「マジでなんなんだ? テオのやろう、何を拾ってきやがった?」
シャオハは一歩踏み出した。
「その子から手を離せ。三回目だ。それとも、その左腕は要らないか?」
アーサーは息を潜める。
そしてリリの腕を離した。細い小さな手がぱたりと落ちた。
慌ただしい足音が聞こえてきた。
シャオハの意識が逸れた一瞬の隙をついて、アーサーは窓を叩き割ってベランダに出た。隣の部屋のベランダへ飛び移って逃げていく。
「ファン! リリ!」
玄関からテオが駆け込んで来た。
状況をみて顔を強張らせている。
「テオ! ばあちゃんとリリを頼んだ!」
窓辺からのシャオハの声にテオの身体が跳ねた。衝撃に呑まれていたテオを、シャオハの言葉が引き戻した。テオがいつもの真っ直ぐな眼差しで頷いたのを確認して、シャオハは逃げていくアーサーを追いかけた。
〇〇〇
アーサーはベランダからベランダへ飛び移り、さらに隣の建物へ飛び移った。
中層階の外回廊に着地。ガラスがなくなった窓から室内に入っていく。
室内には家具が揃い生活の痕跡があった。足跡が着くほどの埃が積もっている。
シャオハは窓辺に置かれていた照明スタンドを掴み、逃げていくアーサーめがけて投げつける。察したアーサーはキッチンカウンターに滑り込む。カウンターに衝突した照明スタンドはけたたましい音をあげて砕け散った。
「これは予想していなかったな。テオに真正面から突っ込むのは面倒くさいからと打った手だったが。完全に裏目にでた。おもしろいじゃねぇか」
「なんであんなことをした」
カウンターの影でアーサーは鼻で笑った。
「神様の肉は食ったことはあるが、不老不死の肉はまだだったなと思って」
「テオを食うためか」
シャオハの言葉に怒気が溢れる。
アーサーはカウンターから飛び出すと、玄関扉を蹴り開けて建物内通路に出た。追って部屋を出るシャオハだったが、薄暗い通路に人影はなかった。足音も物音ひとつ聞こえてこない。
いま居た部屋は通路の一番端に位置している。通路を挟んで四つずつ扉が並び、閉じた扉があれば開け放たれたものもある。突き当りには登りと下りの階段があった。
相手はどこかに隠れている。
左右の部屋を注視しながら通路を進んで行く。
沈黙が重たく感じる。開いた扉をうかがい見る。奥行きの知れない暗い闇がある。
シャオハはすばやく動いた。
背後から突き出されたナイフを躱し、伸びて来た腕を取ると膝を跳ね上げてその腕を折る。
鈍い音とアーサーの呻き声。男の腕からナイフを奪ったシャオハは、ためらうことなくアーサーの身体を刺した。心臓、肺、肝臓、人体の急所を的確にとらえて刃を突き立てる。
「うがっ」
アーサーが背中を丸める。
シャオハは血のついたナイフを捨てて、男の背後に回り込むとその首に左腕を回した。締め上げながら右手で頭部を掴む。そしてそのままアーサーの首を捻り上げた。
濡れた木が折れるような音が、無人の通路に響き渡った。
アーサーの顔は真後ろを向いていた。白目を剥き、口からは血泡を吹いている。
そのまま背中から倒れていくかと思われたが、大きくのけぞった体勢で、首を折られた男は静止していた。異様な光景だった。
「いいねぇ、これだよこれ」
血泡を吐く口元に笑みが浮かぶ。上向いていた眼球が戻って来た。
「百年前、俺が不老不死になったとき、まっさきに何をしたと思う?」
アーサーは折れた首を自力でもとにもどした。ごきごきっと固い音がする。
シャオハは何も言わない。驚きも恐怖も、なにも浮かばない顔で、こうなることを想定していたように、死なない男のことを眺めている。
「敵対していた連中の粛清だ。アジトに単身で乗り込んで片っ端からぶっ殺してやった。この身体は撃たれても死なねえ、刺されても死なねぇ、爆破されても死なねえ、なにも怖いものなんか無い。無敵だ。パニックになって鳴き喚く連中のみっともねぇ顔は最高だったぜ」
首を左右に振り、肩をぐるぐると回す。もとの状態に戻ったアーサーの瞳に、一瞬だけ寂寥のようなものが過った。
「……あぁ、あの頃は最高だったな」
その呟きは小さく静寂にすら消えていく。アーサーは血まみれになったスーツを見下ろして肩を竦めて見せた。
「おい、お気に入りだぞ。これじゃあテオのことをどうこう言えねぇなぁ」
「今度はテオを食う気か」
シャオハの言葉に、アーサーは表情を歪めた。疑問と煩わしさをない交ぜにした感情が前面に出ている。
「今度は? なんだそれは。言っておくが他の不老不死者たちを食ったのは俺じゃない。俺はそこからヒントを得ただけだ」
額に落ちた金髪を手櫛で撫でつける。眉根のシワを深めてシャオハを睨む。
「だいたいお前は何者だ? 記憶喪失だとか聞いたがそれも怪しいな。そんなモンいくらでも言えるからな」
「おれは海から来た」
「答えになっていねぇな!」
アーサーは足元に落ちたナイフを蹴り上げた。
回転しながら飛んで来たナイフをシャオハが避けるあいだに、近くの部屋へ逃げ込んだ。シャオハはすぐさまその後を追いかけた。
部屋に飛び込む。物影に身を隠していたアーサーが、木製の脚立で殴りかかってきた。
頭を狙った横薙ぎの不意打ち。シャオハは脚立を両手で掴み取るとそのまま振り抜いた。
アーサーの身体が大きく宙を舞う。脚立もろとも壁に叩きつけられた。衝撃で部屋全体が揺れる。枯れた鉢植えが倒れて床に土が散らばった。
「ぐえぇ」
倒れ込むアーサーに、シャオハが近づく。
しかしアーサーは床に散らばった土をシャオハめがけて投げつける。相手が怯んでいる隙に起き上がり転がるように窓辺まで移動した。
ベランダに面したガラス戸を開け放つ。
吹き込んだ潮風がカーテンを揺らし、血と埃で汚れたアーサーを撫でる。ベランダへ踏み出したアーサーの背中に、シャオハが声を投げかける。
「実はおれたち、はじめましてじゃないんだ」
「いいや。知らねぇ。記憶力には自信がある」
アーサーは苛立たし気に眉間を寄せて振り返った。
室内のシャオハは拭った顔をあげて、アーサーを見る。
「たぶんお前は一番多く神様の肉を食っている。俺にはわかる。だからお前だけ俺の見え方が違うはずだ」
アーサーは、シャオハの目を見て呆然とした。
青と黄が入り混じった瞳をしていた。
窓から吹き込む風に髪が揺れ、隠れていた左目があらわになる。青と黄の不思議な瞳。眉のうえにひとつ、頬にひとつ、その下にもうひとつ、目があった。縦に四つの目が並んでいたのだ。
眉と頬のみっつの目は開ききっていない。いままさにゆっくりと目を開けようとしている。
シャオハは笑っていた。吹き込む夜風に灰暗色の髪が揺れる。
「お前が食べたのは、俺だよ」
アーサーの全身が総毛立つ。肌が痛くなるほどの鳥肌が全身で湧き上がった。
心が感じるものでも、腹のそこから沸き立つものでもない、本能が告げてくる警鐘。
「……なにが目的だ? いまさら復讐か?」
「力を返してもらいに来た」
アーサーは数秒ほど黙り込んだ。直感が事件を繋ぎ合わせて答えに導く。
「フランシスとジェイジェイを殺したのはてめぇか」
シャオハは口の端に笑みを浮かべたまま言う。
「次はお前だ、アーサー」
潮騒が聞こえてくる。
遠くから押し寄せるように近づいてくる。やがてアーサーの耳を覆うほどにその音に包まれた。直感でわかった。海が怒っている。
肌が泡立つ。本能が恐怖を感じている一方で、胸のなかの炎がわずかに勢いを増した。
「あぁ。これだよ、これ」
瞳を爛々と輝かせる。嬉々とした感情が身体全体からほとばしる。
ベランダへ駆け出す。腰の高さの手すりを蹴りつけて空中に飛び出した。
「いいねぇ!! ギラギラしたガチの奪い合い! 最高だッ!」
夜空に向かって両手を目いっぱいに広げて、落下の風圧をすら楽しんでいる。
アーサーを追って、シャオハもベランダから飛び降りる。
たがいに落下していきながら、視線が垂直でぶつかり合う。
「来いよ! 神様だろうがなんだろうが、何度だって食らってやろうじゃねぇか!」