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2/10

テオは脇道にはいる。室外機を足場にして、出窓の格子を掴んでするすると建物を上って行く。屋上に出て海沿いを移動する。

強い潮風が吹き付けてくる。潮の香りとともに、打ち寄せる波の音がすぐそばで聞こえてくる。波は半分沈んだ建物に打ちつけている。


「また海面が上がっている」


沖のほうに海面から突き出した建造物が見える。

百年前、そのあたりは港だった。海の先には陸地が見えていた。島の物資は陸地から船で運んでいた。観光客もいた。小さな漁船がゆるやかな波に揺られる、のんびりとした漁港だった。

いまは当時の面影はどこにもない。港は海の底に眠り、陸地は忽然(こつぜん)と消え失せた。


「ん?」


海面から斜めに付き出したクレーンの先端に人影があった。

灰暗色(はいあんしょく)の髪が潮風に揺れている。背格好から男だとわかる。

見覚えのある背中だった。


「シャオハ」


名を呟く。

すると男が振り返った。波音のほうがはるかに大きく、声が届かない距離のはずなのに、まるで聞こえたかのようだった。男はテオの姿を認めると、大きく両手を振った。


クレーンの先端から飛び降り、海面に出ている建物を足場にして飛び移る。長身で大柄な身体に反して身のこなしは軽やかで、すぐに建物の屋上まで昇ってきた。


「やっほー、テオ。巡回中?」


シャオハは鳶色の瞳を細めて嬉しそうに笑った。右の目は灰暗色の髪で隠れている。

年はテオよりも少し上に見える。立ち(えり)シャツに柄物の上着をはおっていた。

にこにこしながらテオを見下ろしている。


「そうだよ。シャオハはなにをしてたの?」


「ファンばあちゃんのお使い。食材を調達しに行った帰りだよ」


そう言って肩にかけた布袋を示した。

すると、それまで穏やかに笑っていたシャオハの表情が固まった。

彼の視線が血で汚れたシャツに向いている。テオは困ったように笑いながら、事情を説明した。


「おれの上着を着ときな。街の人が見たらびっくりしちゃうから」


(そで)を通した上着はひとまわり大きかった。それを見たシャオハは声を出して笑って、


「思ったよりだぼだぼだったね」


余った袖口をテオに合わせて折り返した。


〇〇〇


海沿いで崩壊している建物を迂回する。

中層建てのマンションで半分が崩れ落ちていた。住人たちは山へと移り、空っぽの部屋を抱えた建物は波打ち際で朽ちていく。同じ境遇の建物が寄り添い合って海風に晒されている。


あたりを見渡しながら屋上の淵を歩くテオに、シャオハが寄り添って歩いていく。

波の音にまじってにぎやかな子供の声が聞こえてきた。

背の低い建物の屋上にカラフルなパラソルが開いていた。


「あ、テオだ」


「シャオハもいるじゃん」


「遊んで遊んで~」


「いっしょに本読も」


子供たちの賑やかな声と笑顔がやってきたふたりを取り囲む。


「ごめんな。いま見回り中なんだよ」


小さな頭を撫でる。パラソルの下には子供たちを見守る母親や、近所の老人たちがいた。

ターバンを巻いた老女がテオに向かって笑いかける。


「テオさん。この間はありがとう、助かりました」


「いいえ。また何かあれば俺でも自警団でも、いつでも声をかけて」


するとテオの袖がひっぱられた。

視線を落とすと幼い少年と目があった。


「あげる」


たどたどしい言葉とともに一凛の白い花が差し出された。


「ありがとう」


テオは少年に微笑みかける。頭を撫でると少年は「えへへ」と笑った。

ターバンの女性の後ろから桶を抱えた中年の女性がやって来た。


「シャオハ。あんた、いまはどこに住んでいるんだい?」


「テオのとこ」


女性はぱっと明るい表情になった。


「そりゃよかった。この街で一番安全なところだよ」


「そんで、記憶は戻ってきたの?」


杖をついてイスに座っていた高齢の男がたずねてくる。


「いいや、全然。なんも思い出せないよ」


わはは、と声を出してシャオハは笑った。桶を抱えた女性も声を出して豪快に笑った。


「思い出せんやったら仕方ないよね!」


「あんたが打ち上げられとった岸辺ももう沈んでってしもうたよ」


杖の男は海のほうを眺めながら呟いた。


「三年そこいらでここまで海が上がって来るなんて。本当にこの島の終わりは近いね」


「さすがに先にうちらが死ぬよ。わははは!」


「だいぶ人も減った。そうやな、最後のひとりが死ぬ方が先かもしらんな」


しんみりした杖の男の言葉を、桶を抱えた女性が笑い飛ばす。

賑やかな輪ができあがっていた。


ふと、テオはパラソルの下にいる二人の子供に気が付いた。テーブルの影にいて、輪に入ろうとする少女とその子の服を掴んで引き留めようとしている少年だった。


「いっちゃダメだよ。あの人は怖いから、近づいちゃダメなんだよ」


少年の表情は必死だった。

そでを引っ張られた少女は首をかしげた。


「そんなことないよ。どうしてそんなこと言うの?」


「ママが言ってたよ。あの人、ママが小さいときからずっと変わらないんだよ。それどころか、おばあちゃんが小さいときからずっとだよ。大人にならないし、死なないんだよ」


「知ってるよ。不老不死っていうんでしょ。ずっと生きられていいじゃん」


テオは敢えて別の方を向いた。

それでも物影から向けられる恐怖の眼差しを背中に感じる。


「いいわけないよ。そんなのおかしいよ、ただの化け物だよ」


ほかの子供たちの歓声を貫いて、その言葉はテオの耳に届いた。


巡回に戻るテオたちを、子供たちが手を振って見送ってくれる。

建物を移動して行っても賑やかな無垢な笑い声はまだ聞こえてくる。


もらった花を眺めていたテオは、シャオハの視線に気づいて顔を上げる。


「気にしていないよ」


静かに笑う。


「慣れてるから」


吹き抜ける風がテオの髪を乱して目元を覆い隠した。口元に貼りついた空虚な笑いを、シャオハはじっと見下ろしていた。


「もらった花を生けたいから、いったん家に寄るよ」


ひしめきあう建物群。中層建ての建物に囲まれた暗い階段を下っていくと、急に視界が開けた。

建物のあいまにぽっかりと緑の広場が現れる。

青々とした緑のなかに色鮮やかな花が咲いている。そこは手入れの行き届いた花園だった。

広場の四方は高い建物に囲まれている。しかし陽射しは建物のあいだを抜けて、狙いすましたように花畑に注いでくる。薄暗く古びた雑多な街の底に密かにあるのは、光に照らし出された花園だった。葉の水滴がキラキラと輝いている。


黄色い花をのそばに赤毛の少女がいる。テオたちに気付くと手にしたスコップを振った。幼い元気な声が響き渡る。


「おかえり! テオ! シャオハ!」


テオはしゃがみこんで、やって来た少女と視線を合わせた。


「まだ巡回の途中なんだ。花を生けたいんだけどいい入れ物がないかな、リリ」


「うーん、なにかあったかなぁ」


六歳の小さな手が白い花を優しく撫でる。

すると別の声が聞こえてきた。


「さっき土のなかから出てきたガラス瓶がちょうどいいんじゃないかね」


茂みのなかから手ぬぐいを被った老女が立ち上がった。抜いた雑草を片手に花畑の一角を指差した。リリが何かを持って戻ってくる。

それは土に塗れたガラス瓶だった。幼い手が土をはらう。


「これね、海の神様が描いてあるんだって。ばあちゃんが教えてくれた。テオに見せたらきっとよろこぶよって」


テオは受け取った瓶に視線を落とした。

となりのシャオハも覗き込む。

流線形の大きな身体に尾ひれがついたものが描かれている。


「昔の瓶だね。海の神様はここにあるようにクジラみたいな姿をしていたんだよ」


「くじら? くじらってなに?」


少女は無邪気に祖母のほうを見た。


「ばあちゃんもくじらを見たことないんだよ。海の神様のことも、先生に教えてもらって知ったんだ」


ふたりの視線を受けてテオは顔をあげた。


「あぁ、そうか。クジラが見れたのはファンが生まれるずっと前になるのか。昔はとても身近な生き物だったんだよ。海に住んでいて、とても大きいんだ」


両手を広げて大きさを表すと、リリは目を丸くした。


「じゃあ、海の神様もでっかいの? テオは見たことある?」


「あるよ」


テオはふたたび瓶に目を向けた。

そこに描かれている、クジラによく似た流線形の身体。

しかしクジラと違い、胸には水を掻くオールのようなヒレが三対ある。

目は縦に四つ並んでいて、左右合わせて八つの目を持っていた。

ビンに浮かんだその姿を指先でそっと撫でた。


「海の神様はね、不思議な色合いの瞳で、真っ白な身体をしていたんだ」


島に人が住むよりもずっと昔から、海を守っていた神様だった。

島民の多くが漁業に携わっていた時代、人々は神様に豊漁と安全を祈った。

波間にその姿が見えると豊漁になり、波音とともに聞こえる歌声は慈しみ深い子守歌となって島に響いた。

人々は海の神様を大切にしていた。

海の神様も人々を見守ってくれていた。

人と神はおなじ海に生きていた。

そんな時代があった。


「リリも見てみたい!」


「残念だけど、もう、いないんだよ」


いまではそれを知るものはほとんどいない。人々の心から消えてしまって久しい。

草花のあいまを簡素な石畳がのびる。その先に大きな湖面が広がっている。


「百年前まではね、この湖に神様が来てくれたんだ」


「ここに?」


となりにしゃがみこんだリリが、テオと湖を交互に見た。

風に水面が揺れる。水は澄んでいるが、覗き込むと底知れぬ暗がりが不気味にゆらめいている。冷たい水でガラス瓶を洗った。


「俺は子供のころは身体が弱くて、遊びまわったり出来なかったんだ。天気が良い日にここに来るのが精一杯だった。そこで遊び相手になってくれていたのが神様だったんだ」


肌にしみ込むような冷たい水に波紋が広がる。


「たぶん海に繋がっているんだろうね。一緒に日光浴をしたり、摘んだ花を水面に浮かべてあげると喜んでくれた」


指先で水面をくるくるしながらリリはテオを見上げる。


「神様はどこに行っちゃったの?」


「人がひどいことをしたから遠くに行っちゃった」


「もう帰ってこない?」


「そうだね。難しいかもしれない」


瓶に水を汲んだテオの顔を覗き込んで、リリが言う。


「テオ、神様に会いたい?」


「会いたいよ。ずっとそう思っている」


白い花を瓶に差す。緑がかった瓶のなかで白い光が揺れている。

シャオハは湖のそばで咲いている花を指先で撫でて、おだやかに笑った。


「神様がここが好きだった気持ちがわかるよ。居心地が良いもん」


となりでファンが微笑み返す。


「先生がずっと大切にしてきた場所だよ。あたしたちも気合をいれてお世話してる」


「いつもありがとう。リリ、ファン」


テオはふたりに笑いかけた。

やわらかな光が照らす花園はおだやかな空気に満たされている。

街の未来や、崩落していく家屋、血生臭い事件も、この花園では忘れられる。

緑と海の香り、差し込む光が暗い現実を払い落としてくれようだった。

そこにリリとファン、シャオハの笑い声が加わる。自然とテオも笑顔になった。


この光景を守るために動かなければならない。


「そろそろ巡回に戻るよ」


「はい、先生。どうかお気をつけて。あまり無茶をなさらず」


ファンは孫娘に聞こえないようにこっそりと耳打ちをした。


「汚れたシャツは早めに洗うんですよ。手に負えなければうちに持って来て下さい」


「まったく、ファンにはかなわないなぁ」


シャオハの上着で隠していても、シャツの汚れはお見通しのようだった。


「伊達に歳を重ねておりませんよ」


「それを言ったら私もなんだけど。むしろきみよりも年上なはずだけど」


「そうでした。先生のほうがずっと年上でしたっけ」


「こう見えて」


テオとファンは顔を見合わせる。

そして声を上げて笑い出す。ふたりの朗らかな笑い声が花畑に響き渡る。


「シャオハ。ふたりのことを頼むよ」


「まかせて。いってらっしゃい」


三人に見送られて、細い階段を昇って行く。

リリが大切そうにガラス瓶を抱えている。白い花は陽射しを浴びてまばゆく輝いていた。


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