10
青い空を映した海が広がっている。
船影も島影もない、真っ平らな水平線が見渡す限りに横たわっている。
テオは海に面した建物にいた。五階建ての三階部分まで海に沈んでいる。外壁を舐める波が潮風に乗って屋上まで届いてくる。
となりにはガウェインがいる。彼は手のひらに乗せた、いくつかの小さな白い破片を海へ向かって投げた。
「ようやく父は眠りにつくことができました」
そう言った横顔はすっきりとしていた。
「最期まで父がお世話になりました」
深々と頭を下げてくるガウェインを見て、息子の真面目な振る舞いをアーサーも見習えばいいのにと思って笑ってしまう。
「先生、大変ご迷惑をおかけしました」
後ろから声をかけてきたのは、ガウェインの双子の妹のガレスだった。沈んだ顔をしている彼女のとなりにはファンが寄り添っている。
「あんたはうちの玄関で伸びてただけだろう」
「だから、父さんを止められなかった。ファン姉さまもお怪我を」
当時、兄から父が出かけたことを聞いたガレスはすぐにアーサーのあとを追った。彼女も父親の性格をよくわかっていた。アーサーを止めるために駆けつけたものの、突き飛ばされて気絶していたのだ。
「いいんだ。あたしと孫を守ろうとしてのことだったんだから、そんな顔はやめな」
ガレスの背中をファンが優しくさすっている。
彼女も兄とおなじように、苦しむ父を見ていられなかったのだろう。
「ありがとう、ファン姉さま。ふふ。姉さまが自警団の団長を務めていたころも、よくこうやって慰めてくれましたよね」
「懐かしいねぇ。あの頃はあんたは生意気な小娘だったけど、立派になったね」
目尻に深いシワを浮かべて笑うファンに、ガレスの強張っていた表情はゆるんでいった。
ふたりのやり取りを見守っていたテオにガウェインが話しかける。
「フランシスさんの遺骨は親族に引き渡されました。ジェイジェイさんは……?」
「彼が住んでいた家の木の下に埋めたよ。海と空と緑が見える、彼が好きだった場所だ」
たがいに頷きあう。
これまで抱えていた大切な荷物を、あるべき場所にしまっていくような清々しさがあった。
「こうやって、ひとつずつ終わりを迎えていくんだろうね」
テオが言うと、潮風に吹かれるガウェインが口ごもった。
ためらいがちに尋ねてくる。
「そうなると先生は最後まで残ってしまうのでは?」
案じるような声音と眼差しを受けて、テオはにこっと笑ってみせた。
「大丈夫だよ」
〇〇〇
建物に挟まれた狭い階段を降っていく。
薄暗い路地の先に光が見えてきた。花園の入口に大きな背中と小さな背中が並んで座っている。灰暗色の髪の大きな背中が振り返る。シャオハが笑いながら手を振った。
「おかえり~」
すると、隣に座っていた少女がすっくと立ちあがる。振り返ったリリが満面の笑顔を浮かべて、テオとファンを迎え入れた。
「ふたりともおかえり!」
元気な声が路地をいきおいよく反響した。
「起き上がって大丈夫? 痛いところはない?」
テオが尋ねるとリリは大きく頷いた。ピンクのパジャマに毛糸のカーディガンを羽織っている。
「うん、いっぱい寝たもん!」
弾けるような声音のとおり少女の顔色は良い。ファンや医者や、駆けつけてくれた住人たちの尽力があって幼い命は救われた。
なによりリリ自身が生きることを諦めなかった。
「まだ土いじりはよくないから、しばらくはお花畑の見学だもんな」
シャオハはいまにも走り回りそうなリリを膝の上に座らせた。
少女の小さな手がテオの手を取った。
「あの夜のこと、思い出すといまでもちょっと怖いけど、でもね」
リリは嬉しそうに笑いながら見上げてくる。
「こうしていると大丈夫になってくるの。おばあちゃんもテオもシャオハも、いろんな人たちがそばに居てくれるって思うと、負けないぞって思えるの」
「うん」
その場にしゃがみこみ、リリの顔を覗き込む。
「みんながいるからリリは強くなれるよ。強くなって生きていかなくちゃ」
少女の澄んだ瞳はきらきらと輝いていた。
小さく温かな手を両手で包む込む。少女はテオの手をぎゅっと掴んだ。
「だからテオ、リリのことを見守っていてね」
テオは目を細めた。命のきらめきのようなものを感じた。日差しを受けて白く光る水面よりも眩しく、鮮やかな輝きだった。
「もちろん。見守っているよ、いつまでも」
〇〇〇
海上をさわやかな潮風が吹き抜ける。
テオとシャオハは、海面から突き出したクレーンの先端にいた。
街を背にして水平線を眺める。近い未来、街が海に沈んでしまったときの光景はこんなものかも知れない。水面からわずかに覗く建造物だけが街の名残になるのだろう。
「シャオハ。この前の返事をちゃんとしていなかったよね」
そう言ってテオは街のほうを振り返った。
「おれは街が沈んでしまうまで、ここに居るよ」
海風がふたりを撫でる。
おだやかな波音があたりに響いている。
「このままいくと街が沈むよりさきに人がいなくなる。誰も独りになったりしないように、最後まで見守りたいと思っている」
「そう言うと思ってたよ」
となりでシャオハが笑った。
そして、ゆるやかに波打つ水のような優しい眼差しでテオを見下ろした。
「おれはテオのそばにいる」
ふたりで海の方を見る。
青空に浮かぶ白い雲が水平線へと流れていく。
空を映した海原がキラキラと白く輝いている。
永らく見てきた景色。愛すべき日常の風景。潮風がふたりを撫でていく。
「全部を見送ったら海に出よう」
テオの言葉にシャオハは頷いた。
クレーンから降りて、海面から出ている建物へ飛び移る。
海上の足場に降り立ったシャオハが振り返る。
「じつはあの、言い出せなかったことがあって」
隣り合った足場から、きまり悪そうな彼の顔をながめた。
「記憶喪失って言ったこと。あれ、じつはそんなんじゃなくて」
「ちがうんだ?」
テオが首をかしげると、シャオハはきゅっと目を閉じて顔をしかめた。
「怖くて。いきなり海の神様を自称するヤツが現れたらびっくりするだろ? それでもし拒絶でもされたらって思うと、ホントのことを言うのが怖くて……」
「神様でもそういこと気にするんだ」
「そりゃするよ。好きな人に嫌われたくないもん」
両手で顔を覆って背中を丸めるシャオハを、テオは声を出して笑った。おだやかな波間に笑い声が響く。
「そんなことを気にしていたんだと思うとかわいらしいな」
そう言ってテオはシャオハのいる足場に飛び移った。
決まりの悪そうな顔をするシャオハの背中に手を添える。広い背中を優しく撫でた。
「嫌いになるわけないだろ。ずっと会いたかったんだから」
シャオハは海上の足場から波打ち際の建物へと軽々と飛び移った。そして足場にいるテオに向かって腕を伸ばした。
「テオ」
灰暗色の髪を海風に遊ばせながら、シャオハは笑う。
「遅くなってごめん。きみに会いに来るのに百年もかかっちゃった」
テオの黒髪といっしょに右耳のピアスも揺れる。虹色を抱えた水晶の鱗が白く輝く。
テオはシャオハの手を取って、晴れやかに笑った。
「このための百年だったんだな」
了