『真夜中のサイレン』
『真夜中のサイレン』
著:赤虎鉄馬
――静寂が、壊れたのは午前零時ちょうどだった。
遠くのどこかで、奇妙なサイレンが鳴った。
その音は、通常の警報音とも、緊急車両のサイレンとも違った。
不協和音のような、金属の軋みのような、あるいは誰かの悲鳴を加工したような――妙に耳に残る音だった。
俺は、ベッドの上で上半身を起こす。
時計はちょうど「00:00」を示していた。日付が変わる音もなく、ただその不気味なサイレンだけが、町に染み込むように響いていた。
隣の部屋から、何かの物音がした。
たしか、あそこには佐々木さんという中年男性が住んでいたはずだ。
物静かで礼儀正しい人だった。毎朝、同じ時間にゴミ出しをして、時々笑顔で挨拶を交わす程度の関係だ。
翌朝、彼の姿はなかった。
「……引っ越したんですか?」
管理人に尋ねると、首をかしげられた。
「佐々木さん? 誰です、それ……? 隣はずっと空室ですよ。入居歴なんてありません」
冗談かと思った。
だが、不動産の資料を確認しても「空室」のままだ。
郵便受けの名前も、昨日までは確かに“佐々木”だったのに、今は白紙のままだ。
誰も、佐々木さんの存在を覚えていなかった。
いや、正確には――「初めからいなかった」と言う。
そんなはずがない。
俺は、佐々木さんと何度も言葉を交わしていた。
顔も、声も、服装も覚えている。
しかし、部屋の中を覗くと家具ひとつない。まるで、最初から誰も住んでいなかったように。
その夜、再び、サイレンが鳴った。午前0時ちょうど。
今度は二階の角部屋の高校生、蓮くんが消えた。
やはり、誰も彼の存在を思い出さない。
写真、記録、メッセージ、すべてが消えていた。
だが俺だけは――記憶していた。
三日目。
サイレンは規則的に鳴り続け、次々と人が消えていく。
それと比例するように、俺の記憶にも、奇妙な“ブレ”が生まれてきた。
「……あれ? 蓮くんって、黒髪だったか? 茶髪……? 制服、何色だった?」
誰かの記憶を思い出そうとするたび、ノイズが走る。
まるで、記憶そのものが書き換えられ、曖昧になっていくようだった。
五日目の夜。
ついに、恋人の美香が消えた。
部屋にいたはずの彼女の痕跡は、影一つ残されていなかった。
ベッドの温もりも、冷蔵庫のプリンも、写真もLINEも――“なかったこと”になっていた。
「彼女なんて、いたことあったっけ?」
職場の同僚は笑っていた。
その笑顔が、やけに薄っぺらくて怖かった。
七日目。
誰もいない。
いや、「誰もいなかった」町になっていた。
商店街、学校、公園、コンビニ、アパート……全ては静まり返り、無音の世界だった。
サイレンの鳴る時刻が近づく。
時計が「23:59」を示す頃、俺はようやく理解した。
消えていたのは、人じゃない。
記憶だったのだ。
この世界そのものが、“忘却”によって削り取られていた。
そして、最後に残った“記憶”は、俺自身。
午前0時――サイレンが鳴る。
耳を塞いでも意味がない。
それは、脳に直接届くような、記憶を焼きつぶす音。
目の前の風景がぐにゃりと歪む。
建物が溶け、色が消え、音が消える。
そして――俺は思い出す。
この瞬間を、
この消滅を、
何度も、何度も繰り返していたことを。
俺はこの町の記録者。
誰かの代わりに、消える人々を記憶してきた。
だが、記憶は限界を超え、俺自身も……もうすぐ。
「次は――きっと、違う結末を」
最後の想いを胸に、記憶の断片が風に溶けた。