17
ジェルトローネのことは恐ろしいが、それだけでこの暮らしを受け入れるほどエリーは諦めがよくなかった。
仕事で屋敷を走り回りながら、隅々まで調べ回った。時には不思議な力で開かないドアもあったが、ジェルトローネが中にいればエリーも入ることができる。その場合は、掃除と称して窓や棚を吹いて回りながら部屋に目を配った。
その中で気が付いたことがある。
玄関のドアも屋敷内のドアもそうだが、どうやら雷の精霊を利用して鍵をかけているようだ。屋敷中全てのドアではないものの、いくつかの選ばれた部屋には特殊な鍵が施されている。
それを彼女が開錠する時、雷の精霊の流れが生まれる。一瞬のことだが、弱くはない流れが生まれてドアが開くのだ。
それに、ジェルトローネからは、微弱ではあるものの常に雷の精霊の流れを感じていた。人が自然に持つものではない。恐らく鉛の白粉のように、雷の精霊をひきつけるなにかしらの品を持っているのだ。そして、それがドアの開錠に関わっているに違いない。
つまり、ジェルトローネが持つ「なにかしらの品」を手に入れ、それで特定の流れを生み出すことができれば、屋敷から出られる。
「って言うのは簡単だけどさあ」
エリーは一階の小部屋にある窓を拭きながら弱音を零した。これまでの管理が良かったのか、ガラスはまるで存在しないかのように透き通っている。透明な朝の光の先には、エリーが出ることの叶わない外の世界が見えていた。どうやら魔女の屋敷は街中にあるようで、外を行き交う人や馬車が見えていた。
それとなく探ってみたが、ジェルトローネはその品を肌身離さず持っており、眠る時でさえそばに置いている。それだけ大事に持ち歩いている時点で、それが屋敷の鍵に関わる重要な品だというのは丸わかりだ。
だがそれが分かったところで、エリーにはどうにもできない。
魔法の腕はジェルトローネに遠く及ばず、比較的自信があるのは水流のコントロールくらいだ。だがそれも人を傷つけたり圧倒したりする力ではなく、繊細で小さな流れを作るばかり。エリーがちまちまと水の作品を作っている間に、魔女には逃げられてしまうだろう。
それに、ただここから逃げ出せばいいというわけではない。
魔女は未だにノクスの心臓を握っている。エリーが逃げ出したことが分かれば、その矛先がノクスへ向くことも考えられる。彼女のノクスへの依存ぶりからして殺してしまうことはないだろうが、彼が苦しむのは嫌だった。
──それに、これから先もノクスといるためには、ジェルトローネと呪いを何とかしなくちゃいけないもの。
そこで、ノクスの優しい笑顔がふっと頭をよぎった。妙な別れ方をして以来、顔を合わせていない。
「ノクス、元気かな」
ハーグァの街では、もうサーカスが開演している。きっとマーカスやルルに混じって、ノクスも出演しているに違いない。サーカスのメンバーは誰もが素晴らしい芸で観客を魅了するが、やはりノクスがいなければだめだという認識は皆の中にあったように思う。
精霊に愛されたノクス。人の目を惹き付けるノクス。彼が微笑めば乙女は真っ赤になって恥じらい、彼が声をあげれば男たちはのめり込むように耳を澄ませる。
ステージの上に居る彼は輝いていた。
──でも、寂しかったんだよね。
喝采はノクスの孤独を癒しはしなかった。魔女に鎖で繋がれている間、彼は誰に心を許すことも出来ず世界を守ってきた。魔女と二人で作った世界。たくさんの仲間と共にそれを支えながら、けれども「魔女との取引に仲間を巻き込んだ」とすら思っていたのかもしれない。それが彼に孤独を抱かせた。
エリーがいなくなったことにも気がついているだろう。それが恐らくはジェルトローネの仕業ということも。しかし、ノクスには何も出来ない。エリーを忘れ、ステージに立ち続けるしかないのだ。
──ノクスはそれでいいよ。ステージで笑っていて。エリーが勝手にここを抜け出して、ノクスのところに帰るから。今度はもう寂しい思いはさせない。
それに、彼に問いたださなければならないこともある。エリーをいい迷惑だと言ったことについて、本心かどうか聞かなければ。
「だからそれまで、ステージにいてね。エリーはジェルトローネも呪いもなんとかして、ちゃんと帰るんだから」
窓から路上を眺める。道行く人々の中に、ノクスに似た人影があるような気がした。黒髪を後ろで一つにくくり、ほっそりとした顔をこちらへ向けている。その金色の瞳が、驚きに見開かれていた。まるで、本当にノクスだと勘違いしてしまうほど似ている。
──否、勘違いではない。そこにいるのはノクスだ。
「ノクス!」
エリーが窓に張り付くと、向こうも確信を得たらしい。何かを呟いてこちらへ走ってくる。屋敷の周りの生垣を乗り越えて、彼は窓のすぐ側までやってきた。
ノクスの口が再び何かを呟き、エリーを遠ざけるように指を指した。離れていろということか。エリーはわけもわからぬまま雑巾を握りしめて窓から離れた。
すると彼は近くに落ちていた石を持って振り上げた。
まさか、と思った次の瞬間、彼はそれを思い切り窓に叩きつけた。
ガラスの割れる甲高い音が響いた。エリーが耳を押さえて身構えると、彼は続けて数回石を振り下ろして穴を広げた。途端に外の風が流れ込んできて、ノクスを渦巻く精霊たちの色がエリーの目を眩ませた。
ノクスは尖ったガラスの穴を慎重にくぐると、屋敷の中へ入り込んだ。外から吹き込む風で彼の黒髪が踊る。ネックレスが揺らいで、石を鈍く光らせた。金色の瞳が、精霊の祝福を受けて煌めく。
朝の光が、彼を背後から照らした。
「エリー」
低い声が耳をくすぐった。彼は眩しい光を見上げた時のように目を細めて、エリーに手を差し伸べた。
「ここから出よう」
突然のことに唖然としていたが、エリーは遅れて我に返るとノクスに問いかけた。
「な、なんでここにいるの? サーカスは……公演は!」
「大丈夫。エリーを逃がしたらすぐに戻る。ここはハーグァから近いんだ。夜の公演には間に合う」
ノクスは軽く自然にそう答えた。答えをもらってもエリーはやはり戸惑いの渦中にあり、ノクスに詰問を繰り返す。
「なんで助けに来たの? ジェルトローネが怒るよ。そうしたら呪いの発作が起きちゃう。どうして来たの?」
「君が誰かに首輪をつけられることに、耐えられなかったからだ」
彼は形の良い眉をしかめて吐き捨てた。
「エリー。君は僕のそばにいてくれた。その小さくて優しい手で、呪いを何度も遠ざけてくれたね。そして自分勝手な僕を知っても、それでもいいと言ってくれた。それがどれだけ僕の孤独を癒したか、誰にも分からないだろう。その喜びがあれば、心臓を握られても耐えられる」
彼は催促するようにエリーの前に手を持ち上げる。優しい微笑みで、いつかサーカスに誘った時のようにエリーを待っている。
「さあ。君はこんな所にいてはだめだ。屋敷を出よう」
エリーは困惑してノクスの顔と手を交互に見つめたが、やがて口を開いた。
「屋敷から出たら、どうするの?」
「ハーグァにいる商団に話をつけてある。子供を一人預かって、面倒を見てほしいと。サーカスでお世話になったことのある相手だから身元も確かだ。珍しく、魔女とも関わりがない。彼らなら、エリーを守ってくれる」
今後について流れるように説明するノクスの声には淀みがない。台本でもあるようにさらさらと説明され、エリーは目を回した。突然の展開に圧倒されながら意味を噛み砕く。
すると、重要な一つの疑問が浮かび上がってきた、エリーは声を絞り出して尋ねた。
「……エリーは、サーカスに帰れないの?」
その問いに、ノクスは表情を凍らせた。しかしすぐにそれを取り繕って、穏やかな笑みに隠してしまう。
「魔女に目をつけられた以上、もう一緒にはいられないよ……申し訳ないけれどね。さあ、のんびりしていると魔女が来てしまう。急いで」
エリーはノクスの前で棒立ちになり、虚脱状態にあった。彼の言葉に衝撃を受け、頭を殴られたように思考が停止していた。
目を見開いて、時々思い出したように瞬きをする。乾いた眼球がひりひりと痛んで、今にも目玉を取り落としてしまいそうだった。
その衝撃が去り始めてから新たにやってきたのは、怒りだ。
「ノクスは……」
「うん?」
「ノクスは自分勝手だよ!」
怒鳴りつけると、彼はきょとんとこちらを見た。けれどその罵倒も予想していたのか、すぐに沈痛な面持ちになる。その態度がまた気に食わず、エリーは鼻息も荒くノクスの手を払った。
「前に言ったじゃん。自分の行く道を決めるのは自分だけだって。なのに、今のノクスは違う。エリーの道を決めようとしてる。なんで?」
「君は魔女の恐ろしさを知らないんだ。彼女は執念深い。一度目をつけられたら、ずっと追いかけられる。呪いで首輪をつけられる前に逃げるしかない」
「分かってるけど! でも勝手に決めないで!」
頭に血が上り、頬がかっと熱を持っていた。傍から見れば子供の癇癪に過ぎないだろうが、それでもエリーは、このまま逃げ出すことを良しとしたくなかった。
「エリーがどうするかはエリーが決める。エリーの主はエリーだもん。今、エリーに首輪をつけようとしてるのはジェルトローネじゃないよ。ノクスだ!」
そう叩きつけると、ノクスの瞳がざっくりと傷ついた。精霊の煌めきを孕んだ瞳が丸くなって、呆然とエリーを見ている。彼が深く傷ついたことを察して少しばかり居心地が悪くなるが、エリーは気分を持ち直して、今度はノクスの手を握った。
「エリーは逃げないよ。ノクスの呪いも、ジェルトローネもなんとかして、サーカスに帰るんだ。だから邪魔しないで!」
「エリー、君は……」
エリーはノクスの手を無理矢理引っ張ると、部屋のクローゼットの中に押し込んだ。客人用の部屋のためクローゼットの中は空っぽで、ノクス一人くらいならば忍び込める。彼をクローゼットに隠すと、戸を閉めて彼の存在を隠ぺいした。
その後走って廊下まで出て、掃除用具の中からほうきを持ってくると部屋に戻った。窓の前でほうきを手にあわあわとしていると、ドアが開いてジェルトローネが入ってくる。
「エリー? 大きな音がしたけれど」
彼女は部屋に入ると、割れた窓ガラスと、ほうきを持って右往左往するエリーを目撃した。それからため息をついて静かに微笑む。
「ああ、ガラスを割ったのね。仕方のない子。これ、とっても高いのよ」
「ごめんなさい……」
エリーは落ち着かない態度で謝罪した。その様子を見て、ジェルトローネはガラスを割ったことに動揺していると思い込んだようだが、実際はクローゼットを開けられやしないかと肝を冷やしていただけだ。
「ふうん……」
ジェルトローネは、室内に散乱したガラスの破片を見つめて何かを考え込んだ。それからエリーを振り向いて、うっすらと笑う。
「逃げなかったのね?」
「だって逃げたら、ノクスの心臓を締め上げるでしょ?」
「献身的なのね。もう会えないのに」
彼女はくすくすと肩を揺らすと、「割れた分は片付けておいて。空いた穴には板でも当てておきなさい」と指示して部屋から出て行った。クローゼットには一瞥もくれなかった。
彼女が出ていくと、エリーはほっと胸を撫でおろす。どうにか誤魔化せたようだ。
ドアが再び開かないかと警戒しながら、クローゼットへ戻る。戸を薄く開けると、体を縮めて収まっていたノクスが不安そうにこちらを見ていた。その視線がどうにも不安定で、エリーは自分の投げつけた暴言を今更ながら後悔した。
「ごめんね」
「大丈夫だよ。魔女に見つかるよりはよっぽどいい」
エリーの謝罪は、クローゼットに押し込んだことに対してと思われたらしい。ノクスは勘違いしているが、わざわざ訂正するのも気が引けた。エリーがちょっとした自己嫌悪を感じている間に、ノクスは落ち着きを取り戻して話しかけてきた。
「君がいなくなった後、僕はすぐには動かなかった。君がきっと魔女に捕まっただろうと分かっていたのに、何もしなかった。きっと魔女に言いくるめられて、僕の元からは去っていくだろうって……魔女が出てきた以上、もう君といられないのは分かっていたから。
サーカスのみんなが心配していたから、僕が許可してサーカスから抜けたことにして、それで丸く収まると思っていた。また、君と出会う前の日常に戻るだけだと」
改めて見ると、ノクスの顔色はあまりよくなかった。美しい顔にはうっすらと隈があり、睡眠の質が落ちていることを伺わせた。呪いの発作が起きているのだろうか。エリーがじっと見つめていると、ノクスは苦く笑った。
「でも、そうしたらレグが言ったんだよ。エリーは本当に自分からいなくなったんですかって」
「レグが?」
「うん。彼は誰より君を案じていた。エリーがこんなに急にいなくなるわけがないって納得してくれなくて……僕はなんとか彼に言い聞かせようとしていたんだけれど、そこで言われたんだ。『団長はそれでよかったんですか』」
数日前のレグの顔を思い出す。テントの組み立てがようやく終わり、明日から公演が始まるということで彼は意気込んでいた。「ちゃんと街で宣伝してきたか?」とエリーを小突いて、隣で笑いながら食事を取った。それほど時間が経ったわけでもないが、随分昔のことのように思える。彼が、エリーを心配してくれたのが素直に嬉しかった。
「僕はそこで、急に恥ずかしくなった。魔女だってエリーを殺すほど非道じゃない、きっとどこか遠くにやられただけに違いない。そうやって自分に言い聞かせていたのは、魔女に逆らうのが怖かったからだ。エリーを案ずる気持ちよりも、恐怖が大きかったからだ」
ノクスは床にしゃがみ込む。床のガラス片を慎重に指で持ち上げて、光に透かした。ガラス片を通り抜けた光が白く床に反射してちらついた。
「本当は、君にここにいてほしいよ。サーカスにいてほしい。でも、僕は君を守れるほど強くない。だからせめて君を逃がそうと思って手筈を整えて、ここにきて……それが限界だ」
ノクスの手が震えるたび、床の光も揺らぐ。彼は不安に揺れる瞳をエリーに向けて、じっと見つめてきた。
「でも、君にはできるのか? 呪いも魔女もどうにかして、サーカスに帰ってくることが。優しくて勇敢な君になら……」
彼の目が縋るような色を見せた。金色の瞳の中、精霊の愛情が渦巻いて溺れそうになる。彼の不安定な心を映したように、周囲の精霊も落ち着きを失っていた。精霊のちらつきを眺めながら、エリーはあっけらかんと言った。
「そんなの、エリーにも分かんないよ。エリーだってすごい魔法使えるわけじゃないし、頭もよくないし。ジェルトローネをなんとかするなんてすぐには出来ないと思う」
ノクスはその答えに、やや驚いてから苦笑した。彼が落胆の声を漏らすより先に、エリーは続ける。
「だから、二人でやろうよ」
「……え?」
「エリーとノクス。二人で一緒にやろう。呪いとジェルトローネをどうしたらいいか、一緒に考えよう。そうしたらきっと、いい方法が見つかるよ」
エリーはノクスの隣にしゃがんだ。それからにっこりと笑いかけて、ガラスを持って震えるノクスの手に指を添えた。
エリーの手に包まれて、ノクスの手の震えは徐々に収まっていった。冷えていた彼の細い指が、ガラス片を取り落とす。それが更に割れることはなかったが、ごとりと重たい音を立てて床に転がった。
「君は、本当に魔法使いなんだな」
「そうだよ? なんで?」
「僕の心を操って、苦しめて、喜ばせる。君が現れてから、僕はずっとそんな調子だ」
彼は泣き出しそうに眉をひそめて笑った。太陽を見上げたように目を細めて、咳き込むように笑っている。その声はともすれば嗚咽にも聞こえたが、頬は乾いていた。
エリーは、ノクスの手をぎゅっと握って隣に座っていた。床のガラス片が輝いて、部屋中に白い光を散らしている。