15
カーテンが開く音でエリーは目を覚ました。
大きな窓から取り込まれた陽光がエリーの顔を照らし、視界が光に包まれる。真っ白な光を手で避けると、見知らぬ天井が目に飛び込んでくる。体を起こすと、カーテンを開けた女性がこちらに気が付いた。
「起きたのね?」
女性は、朝の光の中で黒いドレスに身を包んで微笑んだ。体にぴたりと沿うラインのドレスは、裾は足首まで、袖は手首までしっかりと覆い、彼女の体を隠している。露わになっている指先や顔だけが真白く輝いて、黒曜じみた瞳を印象付けていた。
「ごめんなさい。雇っていたメイドは、あなたのお世話をさせてからみんな暇を出してしまったから。それで、私がカーテンを開けに来たのよ」
少女めいた高い声が耳をくすぐる。エリーはしばし呆然としていたが、はっと我に返るとあたりを見渡した。
部屋は、エリーがかつて森で暮らしていた家よりも広かった。大人が三人は横たわれるほど大きなベッドに、惜しげもなくガラスの使われた巨大な窓。床には濃紺のカーペットが敷かれており、静かに足を下ろすとふわふわとした感触が足の裏をくすぐった。その他、部屋を飾り立てる調度品の一つに至るまで洗練された印象を受ける。物の価値などエリーには分からないが、それでもここが大金持ちの豪邸であることはすぐに理解できた。
「魔女の家……」
「そんな冷たい呼び方はひどいわ。ジェルトローネと呼んで、エリー。それが私の名前よ」
魔女──ジェルトローネはうっそりと微笑んだ。その笑みに底知れなさを抱きながら、エリーは自分の記憶を探る。
エリーは、ジェルトローネとノクスの会合を目撃した。ノクスの言葉に傷ついてそこから逃げ出したが、なぜか逃げた先にもジェルトローネがおり、彼女の顔を見たところで記憶が途切れている。恐らく彼女の手で屋敷に連れてこられたのだろう。
自分の姿を確認すると、小綺麗なネグリジェが着せられて体の泥も落とされている。彼女曰く、メイドに世話をさせたのだろう。ただ、そのメイドたちもすでにここにはいないようだ。
「なんで、エリーを連れてきたの?」
「興味があったから。ノクスが気に入った魔法使いさんは、どんな子なのかしらって」
ジェルトローネは恥じらう乙女のように頬に手を当てた。陶器のような肌がぽっと火照って色を持つ。エリーはベッドから降りて、じりじりと魔女から距離を取った。
「ノクスに呪いをかけたのはジェルトローネ?」
「ええ、そうよ」
「なんでそんなことするの!」
エリーの叫びを、ジェルトローネは笑顔で聞いていた。彼女は美しい微笑みを崩さないまま細い声で答える。
「取引だから。私がサーカスを助ける代わり、彼には首輪をつける。そういう約束なのよ」
「どうしてその条件にしたの? なんでノクスを苦しめるの? そんなことして、ジェルトローネに嬉しいことなんて……」
「嬉しいわ」
彼女はきっぱりと答えた。絶句したエリーに、変わらず優しく語りかける。
「彼の心臓を握るたび、それがどくどくと脈打つたび、たまらない気持ちになるの。私と彼が繋がっているって分かるから。呪いがあれば、私は一人じゃない。ノクスがすぐ近くにいるって、分かる……」
ジェルトローネの目に、狂気の色はなかった。彼女は、全く正気である。正気のまま、狂っている。エリーは背筋に冷たいものが伝うのを感じた。
「ノクスの呪いを解いてくれたり……しないよね」
「あなたは一つ勘違いをしてるわ」
ジェルトローネが人差し指を立てて緩やかに左右に振る。こちらを馬鹿にしたような態度が頭にくるが、エリーは黙って彼女の言葉を聞いた。
「この呪いはノクスも望んだことよ。最初に取引をする時、私はきちんと伝えたもの。あなたは呪われることになるけれど、それでいいのね? って」
「でも、今のノクスは呪いを嫌がってるよ」
「そうなの? 彼は私にそんなこと、一言も言わなかったわ」
魔女は完璧な微笑を浮かべた。エリーはゆっくりと後退し、ドアに向かってすり寄りながら震える声で笑った。
「言えなかっただけだよ。だって、ジェルトローネはとっても怖いもん。こんな人に、本当のことなんて言えないよ」
エリーはノクスについて、確信めいたものを抱き始めていた。先日の夜は混乱して見えなかったことが、霧が晴れるように少しずつ見えてくる。
──エリーがいい迷惑だって、もしかしたら本当の部分もあったかもしれないけど……ノクスは多分嘘をついた。エリーが呪いを楽にできるってジェルトローネに知られたら大変だって分かってたから。だからきっと、あれは嘘だったんだ。
エリーがキッとジェルトローネを睨むと、彼女は目を丸くして口に手を当てた。演技のような大げさな仕草で、彼女は驚く。
「まあ。エリーって、本当にノクスを信じているのね。あんなにひどいこと言われたのに」
「言わせたのはあなたでしょ!」
エリーはそう叫んで、ドアに飛びついた。ドアノブを回して廊下に飛び出そうとするが──それは叶わない。
ドアノブは回らなかった。何度試しても、ガキンと固い音がするばかりでドアが開く様子はない。エリーは焦ってドアを揺らしたが、廊下への道が開かれることはなかった。
「ふふ」
ジェルトローネの笑い声が零れて、咄嗟に振り向く。彼女は窓際に立ったまま、一歩も動いてはいなかった。その瞳に一切光が浮かんでいないことに気が付くと、エリーは途端に恐ろしくなって怒鳴った。
「エリーをどうするの? サーカスに帰して!」
「ねえ、エリー。取引しましょう?」
ジェルトローネはゆっくりと、一歩ずつこちらへ近づいてくる。エリーはドアに背を預けてしゃがみこんだが、それでも膝の震えは止まらなかった。
「あなたがここで、私のいなくなったメイドの代わりをしてくれるのなら、ノクスの心臓をこれ以上締め上げないって約束するわ」
「こ、今度はエリーを呪うの?」
「そんなことしない。ただ、新しいメイドがほしいだけなのよ。こんな広いお屋敷、私じゃどうしたらいいか分からないものね」
ジェルトローネはくすくすと笑いながらエリーの前に立った。「ね?」と小首をかしげると、長く艶やかな髪が肩から滑り落ちる。彼女は美しかった。
──嫌だって言っても、帰してくれるわけない。
ジェルトローネはノクスの心臓を握っている。エリーが下手なことをすれば、勢いあまって彼の心臓を握りつぶしてしまうかもしれない。それに、彼女ほどの魔法使いを前にしてエリーが無事でいられる保証もなかった。
「分かった……ここで働く……」
エリーが小さな声で頷くと、ジェルトローネは喜色満面で手を叩いた。
「じゃあ、屋敷を案内するわね。広いけれど、大丈夫。一生懸命やってくれたら、それだけでいいから」
彼女は上機嫌のままドアノブへ手をかけた。彼女が触れると、不思議なことにドアはがちゃりと開く。
どうやら、ここからは逃げ出すことも簡単ではないらしい。エリーはごくりと唾を飲んだ。