14
ノクスは通りかかった店で飴を買い、ベンチに座ってエリーに渡した。エリーも特に遠慮することなくそれを受け取り、口に含む。棒に刺さった黄金色の飴は、舐めるとほっとする甘さがあった。森で暮らしていた頃には食べたことのない味だ。次々溢れてくる唾液を飲みながら飴を頬張った。そのうち、魔法の行使で痛む後頭部の波も引いていった。
エリーたちの前を人が通り過ぎていく。足早な男性、手を繋いでゆったりと歩む家族。時折汚れた恰好の子供が飛び出しては裏路地に消えていく。多くの人が生きていた。
「エリーは、僕のことを軽蔑する?」
たっぷりの沈黙の後、ノクスはそう呟いた。尋ねながら、それを否定してほしいと願うような声色だ。エリーはすぐに首を横に振った。
「しないよ。でも、自分勝手とは思う」
「そう、だろうね」
ノクスは脱力したように肩を落とした。それは軽蔑という最低の評価を避けられたことの安堵にも、自分勝手という言葉を受け止めているようにも見えた。
「魔女に呪われてから、僕は孤独になった。サーカスの仲間のことは信じているけれど、呪いをどうにかできるわけでもないし……彼らの前では、僕は恰好つけてしまうんだよ。団長らしくあらねばと思ってしまう」
彼はベンチに深く体を預けながら、道行く人を眺めた。エリーは飴をかじりながら静かに続きへ耳を傾けた。
「だから、君がやってきた時……初めて運命に感謝した。この子を僕の元へ遣わしてくれたことに。君が僕の呪いを遠ざけてくれた初めての人だった。どうしても、ここにいてほしくて」
ノクスが手のひらで顔を覆う。彼の声は震えていた。
「嘘をついたわけじゃない。サーカスでみんなを楽しませたい気持ちは本当だ。でも、君を助けたのは……僕の下心だ。君と一緒にいれば、孤独が、呪いが遠のくことを期待したんだ。
僕はあの魔女と同じだ。自分の望みのために誰かを操って、自分の手元に置こうとする。嫌悪した在り方そのものだ……」
ノクスは頭を抱えて小さくなっている。まるで、エリーを抱えてサーカスのステージへ飛び降りた人物と同じとは思えなかった。
──でも、これが本当のノクスなのかも。
エリーは初めて、ノクスという人間の根底に触れていた。
彼は魔女と取引をしてしまう愚か者で、寂しがりやで、まるで小さな子供のようだ。飄々として余裕たっぷりの団長は、彼が必死で演じている外側に過ぎない。彼は精一杯の虚勢を張って、団長などという席に座っているのだ。口癖の「大丈夫」は、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。これで間違っていない、これで大丈夫だと。
エリーは飴を舐め終えて、棒を口から出した。すぐそばのくず入れに放り投げると、改めてノクスに向き直る。
「えい」
エリーはノクスの頭をチョップした。
彼は一拍遅れて顔を上げて、怪訝そうに眉をひそめている。戸惑っているノクスに向けて、エリーは笑いかけた。
「はい、これでおしまい」
「というと……」
「ノクスが、すごくかっこつけてて、自分勝手な人なのは分かっちゃった。だから、もういいよってこと。そんなに気にしなくていいよ」
「僕は、君を騙すようなことを言ったのに?」
食い下がるノクスに、エリーは唇を尖らせた。
「あのね、ノクスがエリーと一緒にいたくて色々してくれたのは分かったけど、でも、一緒に行くって決めたのはエリーなんだよ。ノクスは魔女と一緒って言ったけど、違うよ。だってノクスは、エリーが決めていいって言ってくれた。どこに行くのもエリーが決めることだって」
確かに、ノクスには大恩がある。行き場のないエリーをサーカスで受け入れてくれたこと、人身売買の商人をやりこめてくれたこと。家族を失った傷を優しく撫でてくれたこと。
しかし、最終的にサーカスに同行すると決めたのはエリーなのだ。
エリーを売ろうとした商人が捕縛された後、サーカスに残るかどうかの判断はエリーに委ねられていた。ノクスは無理矢理に、「サーカスへ残るように」なんて一言も言わなかった。エリーがそうしたくなるように手を回したのは事実だろうが、結局のところ、それにはなんの強制力もなかったのだ。
「確かに、ノクスにはたくさん助けてもらったけど……でも、その全部が嘘なわけでもないでしょ?」
エリーを手元に置いておくために色々としていたのは確かだろうが、その全てが虚構だったとは思えない。ノクスがサーカスにかける思いは本物のはずだ。でなければ、あれだけの観客を魅了することなどできない。
「いいよ。エリーはノクスと一緒にいるよ。自分勝手でも、いいよ。助けてくれて、ありがとう」
今さっき自分で叩いてしまったノクスの頭を、今度は優しく撫でる。いつか、ノクスがそうしてくれたように。
ノクスは顔を覆った指の隙間からエリーを見た。不安げに揺れる金色の瞳に笑いかける。精霊に愛された色の瞳が、瞬きを忘れて太陽の下でくるりと輝いていた。
彼の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「ごめん……っ」
再び顔が手の中に隠れてしまう。だが、エリーは無理に前を向かせようとはしなかった。ノクスが自分で顔を上げる時を、じっと座って待っていた。
それからしばらくして、二人はサーカスに戻った。会話は少なく妙な雰囲気だったが、悪くはない。エリーはノクスとの沈黙を楽しんだ。
これまでのような、ノクスに庇護され、盲目的に彼を信じる時間は過ぎ去って戻らない。だが、これでいいのだ。エリーはノクスの弱さを知った。その弱さを、きちんと見つめていたいと思った。
サーカスの仲間たちは初日公演へ向けて気持ちを高めているようで、前夜祭と称して酒を飲む者、早々に眠る者、自身の役割を確認する者と様々だった。
エリーはやはり公演の最中は仕事がないため、特に確認することもなかった。夜になれば出された食事を平らげ、食後にとホットミルクを持たされてテントから放り出された。街から帰ってきたノクスとエリーがぎこちないために喧嘩したと思われているらしく、彼の分のカップも渡された。これで仲直りをしろということらしい。
エリーはホットミルクのカップを二つ抱えてノクスを探し回っていた。
サーカスに戻ってからは、ノクスは「一人で考えたい」と言ってエリーから離れた。あれだけ本音を口にすれば落ち着くまで時間がかかると思い見送ったが、食事の時間にも戻ってこなかった。あまり長時間姿が見えないと、今度はどこへ行ってしまったのかと心配になる。
マーカスに行方を尋ねたが、ノクスがふらりとどこかへ行ってしまうのはよくあることだと言われた。エリーも探さずに一人で飲んでしまえばいいのだが、昼間に彼の弱みを聞いた後ではなんだか気が引ける。あの寂しがりの男を放っておくのに罪悪感を覚えたのだ。エリーは年下の子供でも探すような気持ちで歩き回った。
大テントを設置したのは、街の外れ、森との境界を一部切り拓いた土地である。そのため周囲は鬱蒼とした木々に囲まれており、濃厚な精霊の流れがあった。一歩踏み入れば真っ暗な世界に包まれるが、黒檀の森ではいつもこうだった。エリーは夜に目をこらす。
すると、木々の隙間から精霊たちが落ち着かない様子で飛び出してくるのを感じる。この浮足立った感覚はノクスのものかと思い覗き込めば、そこには確かにノクスがいた。
エリーはぱっと嬉しくなり駆け寄ろうとしたが、ノクスの鋭い声に思わず立ち止まった。
「どうしてこんなところまで来たんだ? 確かにあなたの家からは近いだろうが……」
どうやら誰かと話しているらしい。普段とは様子の違うノクスの声に緊張が高まり、エリーはそっと木の影に隠れて耳を澄ませた。
「あら。そっけなくて悲しいわ。私があなたのショーを見にきてはいけない決まりはないはずよ」
鈴を鳴らしたような可憐な声が彼の話し相手のようだった。甘い響きのそれは、なんだか立ち聞きしてはいけないような気分にさせられる。その声にはうっすらと聞き覚えがあるが、記憶にひっかかるものはない。少なくとも、サーカスの団員ではなさそうだ。木の影から覗き込むと、闇の中に白い肌だけがぼんやりと浮かび上がっていた。彼女が話し相手だろう。
「あなたは僕のショーに興味があるわけじゃない。手助けをすると言いながら、いつだって失敗の芽を残している」
ノクスは冷たく張りつめた声で、口早に女性を糾弾した。どうやら口論をしているようだ。
「あなたが貸してくれたライト……中の精霊が少なくなると点灯しなくなるなんて、あなたは一言も言わなかった。あやうくステージが台無しになるところだった。おまけに、あなたの持ってきた化粧用の白粉もだ。鉛入りのものが危険だと知らないはずはない。中毒者が出ていたらどうするつもりだったんだ」
「でもそうはならなかった」
女性の可憐な声がそれを遮る。ノクスが更に噛みつこうと口を開くが、それより先に女性がくすりと笑った。
「……何がおかしい」
「いいえ。どれも起きなかった事態でしょう? 大丈夫だったでしょう? 『あの子』のおかげで」
ノクスが息を呑む気配があった。それと同時に、エリーも思わず息を詰める。
──もしかして、この人が魔女なの? ノクスと取引して、呪う代わりにサーカスのために必要なものを準備してる人?
エリーは話の要点を掴むので精一杯で、彼らが誰について話しているのか分からないまま会話を盗み聞いていた。黙ってしまったノクスの代わりに、女性がころころと笑いながら続ける。
「まだ小さくて未熟な魔法使い。でも、もう十分あなたの懐に入り込んでしまったみたい。呪いを和らげてくれる唯一の存在とくれば、当然かしら?」
「エリーは僕とは関係ない!」
急に自分の名前が降って湧いて、エリーはびくっと肩を揺らした。ホットミルクは既に冷めきって、カップの中で膜を張っている。エリーはどくどくと脈打ちだした心臓を抱えて、唇を噛み締めた。
この先を聞くべきではない。頭の隅で警鐘が鳴り響く。
理由は分からないが、今すぐにここを立ち去るべきだと直感が告げていた。これ以上盗み聞きをするべきではない。何も聞かなかったことにして立ち去るべきだ。
しかし、足が地面に張り付いたまま動かない。カップの取っ手を握る手がしびれて、やけに重たく感じられた。
「あの子は、ただのサーカスの団員だ。魔法だってろくに使えない。あの子の手を借りたって、呪いはほとんど楽にならないんだ。それなのに何も知らずについてきて……少し助けてあげたらなついてきて、僕だっていい迷惑だ」
頭の血がさあっと引いていくような感覚があった。
ノクスの吐き捨てる声に目の前が色を失っていく。カップがどんどんと重みを増し、ついにエリーの手から滑り落ちた。
ばしゃりと足元にミルクがぶちまけられる。
「誰かいるのか!」
ノクスが振り向くのと同時に、エリーは全速力で走り出した。呼び止める声が聞こえた気がしたが、無視して走り去る。
はあはあと耳障りな呼吸を繰り返しながら、エリーは走った。夜の森は暗く、明かりなしではうまく歩けない。何度も木の根につまずいて、膝や肘を打ち付け、泥だらけになりながら逃げ惑った。
──とにかく、一度逃げなくちゃ。
エリーはめちゃくちゃに絡まった思考を解くことは諦めて、ただひたすらに逃げた。それは魔女からか、ノクスからか、よく分からない。とにかく、背後に迫った何か恐ろしい存在から逃げることが今のエリーに必要だと信じた。
南下してきたとはいえ、夜の空気は冷える。冷たい風に耳を千切られそうになりながら、エリーは鼻水を啜りあげた。目の縁から雫がはらはらと伝い落ちて呼吸を乱すが、嗚咽ごとそれを飲み込む。息が尽きるまで、そうして走り続けた。
空気が喉に張り付いて苦しくなる頃、前に出した足が木にぶつかってつんのめる。あ、と間抜けな悲鳴を上げてエリーは地面に打ち付けられた。
「あうっ」
ぜえぜえと呼吸を繰り返して土に頬を押し付ける。ぶつけた膝が鈍く痛んでいた。
しばらくそうしてじっとしていると、徐々に冷静な思考が戻ってくる。エリーは突っ伏したまま息を整えた。
あそこにいたのは、きっと魔女だった。
美しい声は、聞く者を魅了する不思議な響きを持っていた。相対するノクスはひどく緊張していて、怯えすら伝わってきた。彼女が、ノクスの命を握っているのだ。
思い出すと、エリーの背筋も凍るようだ。聞いている時には何も思わなかったが、離れてみるとその恐ろしさが身に染みる。エリーは初めて相対した魔女に恐れを抱いた。
「……ノクスのところに戻らなきゃ」
彼はエリーを拒絶するような言葉を口にしたが、それが本心かどうかはまだ分からない。というよりも、本当だと信じたくない。魔女への恐ろしさ故に口走った、妄言だと思いたかった。
何はともあれ、ノクスの元へ戻らなくてはならない。そうでなければ、あの言葉が真実かどうかを尋ねることもできないのだから。
エリーはゆっくりと体を起こすと、泥と涙に塗れた顔を拭って立ち上がった。
「あら。もう立つのね?」
背後から聞こえた麗しい声に、エリーは硬直した。
軋む体を振り向かせれば、そこには闇に溶ける女性の姿がある。手首と顔だけが白く、闇の中に現われる。衣と髪は黒いのか、森の影に隠れてよく見えなかった。
「こんばんは、エリー。いい夜ね」
彼女はにっこりと笑って、スカートを小さくつまんだ。淑女の完璧な礼で、エリーの前に身をかがめた。