13
テントの組み立てが終わっても、すぐに公演が始まるわけではない。
一日は新たな場所でのリハーサルが行われ、新たに組み込まれた演目が問題ないかを確認する。マーカスやルルなどステージに上がる面々は、街の移動中に新たな技の考案と練習を行い、新しいテントでそれを試す。街ごとに異なる公演を、というのが路傍の石ころ団のモットーらしかった。
エリーはまだサーカスについて勉強中の身であり、体躯も小さいため出来ることは少ない。ただ、サーカスではエリーが唯一の魔法使いであるため、ライトなどの魔法がかけられた機械のメンテナンスにはエリーも同席することとなった。精霊の流れや魔法に綻びがないかをチェックするというわけだ。これだけは他の誰にもできないことのため、レグのサポートを受けながらエリーも機械について学ぶこととなった。
そうして準備を整え、ようやくサーカスは幕を開けられるのである。
初日公演を明日に控えた午後、エリーはノクスと共に再び街を訪れていた。
「エリーの魔法は、まだささやかだけどいい宣伝になるかもしれない」というのはノクスの言だ。
エリーの使用する魔法は、小規模な分準備が必要ない。水源と、水の精霊さえいればどこでも披露できる技というわけだ。それを活かし、明日から開幕するサーカスの宣伝を行うのはどうか、とノクスが提案した。
実際、まだステージには立てないが芸を練習中の子供たちが、街で宣伝をするのは今までにもあったらしい。レグはライト係に集中しているため経験がないそうだが、練習の成果を試す場があってもいいだろうというノクスの計らいで、多くの子供たちが路上で芸を披露してきた。
今回はそれがエリーの番というわけだ。サーカスへの加入時期を思うと異例のスピードだが、文句を言う団員はいなかった。エリーの魔法は、もしかしたらエリーが思っているよりも悪くないのかもしれない。
そうして、今度はノクス同伴で街へ出た。エリーは、先日とは少し違う昼の街の賑わいに目を回しながら、ノクスを必死で追いかけた。
「前は噴水の広場に行ったんだったね」
「うん。あそこは水の精霊がたくさんいるから」
「そうしたら、今日もそこの方がいいだろうね。人通りも多いし、宣伝としては十分だ」
ノクスが語っている後ろで、エリーは履きなれない靴でよたよたと歩くのに集中する。他の団員から借りた革靴は、大きさが合っておらず歩くたびにかぽかぽと踵が浮いてしまう。おかげで、いつものように飛び跳ねたり走ったりは難しそうだった。
おまけに気になるのが、ふわふわと揺れるスカートの裾だ。膝を覆い隠すほどの長さしかないドレスは、風が吹くたびに頼りなくなびく。足の隙間を風が吹き抜ける独特の感覚に冷汗をかきながら、ドレスの膨らみを手で押さえて奇妙な歩き方をしていた。
エリーが慣れない服に四苦八苦していると、ノクスは振り向いてから申し訳なさそうに微笑んだ。
「そうか、その靴ではうまく歩けないね。ついいつものように歩いてしまった。ごめん」
ノクスは立ち止まって、エリーの隣に並ぶ。それからエリーの手を取って、今度は隣り合って歩き出した。
「普段のやんちゃな君もいいが、サーカス団らしい恰好も似合っているよ」
「そうかな? エリー、こんな服着たことないからなんか変な感じ」
エリーはえんじ色のドレスの裾を手で押さえつけた。
街で宣伝活動をするにあたり、いつものシャツとズボンはあまりにも下働きの男児に見えるとのことで、エリーにも衣装が用意された。それがこのドレスだ。
襟は広めに開いており、ドレス本体と同じ布でおおぶりなフリルがあしらわれている。胴部分にも同じようなフリルが斜めに走り、白い刺繍糸で小さな模様が縫われていた。膝を隠す裾は、ギザギザと規則的な波があり、そこにも刺繍が施されていた。
このドレスを、ノクスはどこからともなく持ってきた。一体いつ用意したのかと不思議だったが、ルルは「いつものことよ」と笑って教えてくれなかった。
そうして、エリーは慣れないドレスを着て街を歩いている。森で暮らしていた頃も、動きやすさを重視してズボンばかり着ていた。貴族の子供などは常にドレスだと聞くが、この危なげな服で四六時中過ごすなどエリーはまっぴらごめんだった。
ルルの衣装などに比べると装飾はないに等しいが、その方がありがたい。エリーにはまだ、ルルやノクスのような突飛な服装で街をうろつくだけの度胸はない。実際、隣を歩くノクスはサーカスの時と同じ服を着ているため、街中においては目立って仕方がない。不可思議に透ける半透明のマントに、全身が深い赤色とくれば人目も引く。おまけにノクスは非常に美しい顔立ちをしている。それが彼の注目を集めるのに一役買っていた。良家の子女らしき子供が、ぽかんとした顔でノクスを見つめながら通り過ぎて行った。
「ノクス、目立ってる」
「そうじゃないと、宣伝にならないだろう」
エリーの純粋な指摘も、ノクスにはたいしたことではないらしい。涼しい顔をして前を見据えていた。
「笑われるのには慣れているから。僕はクラウンだしね」
「クラウン?」
「まだ、レグから聞いていない? 道化のことさ。サーカスで、おどけて芸を失敗してみせたりして、観客を盛り上げる役のこと。僕はそれだ」
その説明を聞いて、エリーはステージ上のノクスを思い出す。エリーが観客として見ていた時にはそんな素振りはなかったが、一体いつ失敗していたのだろう。エリーがサーカスについて造詣が浅いために理解できていないのかもしれないが。
「失敗なんてしてたの?」
エリーが首を傾げると、ノクスは苦く笑った。
「うーん、説明が悪かったかも。路傍の石ころ団にはクラウンはいないんだ。必要だって意見もあったけれど、『出資者』がそれを望まなくて」
「出資者って……呪いをかけた魔女のこと?」
「そう」
ノクスの声が、街の喧噪の中で冷たく冴えていた。空気がぴりっと緊張し、エリーは唾を飲み込んだ。
「彼女はサーカスに必要なものをなんでも用意してくれる。それが僕との取引だから。その代わり僕は呪われて、彼女の望むままに踊る。彼女だけのクラウンだ」
エリーと繋がった彼の指先が、わずかに力んでからすぐに脱力した。その手が震えているように感じて、エリーはノクスの顔を見上げた。
「ノクスは……」
しかしその言葉の前に、二人は噴水広場へ到着してしまった。周囲をきょろきょろと見渡すと、先日の夜の光景とは異なり、子供たちの姿もある。活気と賑わい溢れる広場は、ハーグァの街の住人にとって憩いの場のようだ。
「さあ、準備しようか」
あ、と振り返った時には、ノクスはもういつも通りに戻ってしまっている。指先の震えもどこかへ行って、飄々と取り繕っていた。エリーは話を聞く機会を逃したことに失望しながらノクスの後に続こうとして──足を止めた。
「エリー?」
異変に気が付いたノクスが振り向く。エリーはノクスの腕を引いて、広場の角を指差した。
「ねえ、あそこのちっちゃい子、泣いてるよ?」
指と視線の先には、エリーよりも更に年下の女の子が立っていた。五、六歳に見える彼女は、広場の隅、裏路地に繋がる道の入口に立ち尽くしてしくしくと泣いていた。シャツ、ズボン共に汚れているが、特に膝の泥汚れが激しく布が擦り切れていた。エリーたちからは距離があるが、それでも悲痛な泣き声が聞こえてきそうな雰囲気である。肩を落としてさめざめと泣く彼女に、しかし通行人は誰も声をかけない。
「ああ、街の子かな」
ノクスは大して熱のこもっていない声で呟いた。それきり興味をなくしたようにエリーに向き直る。
「魔法には特に準備はいらないんだったね。僕はどこで見ていればいいかな?」
「え、ちょっと待って」
何事もなかったかのように会話を続けるノクスに、エリーは呆気にとられた。思わず言葉を遮る。
「あの子、放っておくの?」
「だって、僕らにはどうしようもない。路地に暮らしてる子かは分からないけれど、そんな子供はごまんといるんだ。もし親や家族がいないのなら、僕らが声をかけたとしてもできることはない」
ノクスが冷たく言い募るのを、エリーは愕然と聞いていた。
──これ、ノクスが言ってるの?
それだけ、今の彼の様子と言葉は予想外だった。ノクスは、かつて行き場のないエリーを助けたことがある。サーカス団の仲間だって、皆路上で暮らしていた子供たちだと聞く。だからこそ、泣いている子供がいれば、その子が貧しい身なりであるなら、なおさら放っておかないはずだと思い込んでいたのである。
「それに、無差別に手を差し伸べるのは親切とは違う。中途半端に介入してもいい結果にはならない」
淡々とノクスが説明する声を聞きながら、エリーは徐々に違和感と苛立ちを募らせる。流れるような穏やかなノクスの声が、これだけ耳に障ったのは初めてだった。
「だから、僕らにできることは……」
「じゃあなんでエリーを助けたの!」
滔々と語るノクスの言葉が頭に来て、エリーは思わず怒鳴った。エリーの怒りに燃える瞳に、ノクスが一瞬たじろぐ。しかしそれは、エリーの激情を落ち着かせはしなかった。頭に血が上り、耳まで発熱しているようだ。エリーは叩きつけるように叫んだ。
「エリーだって薄汚くて、どこの子かなんて分からなかったでしょ? でもノクスは助けてくれた。サーカスは、泣いている人も笑顔にするパーティだって言ってくれた。なのに今は違うの? 何が違うの?」
「それは、」
「エリーといたら寂しくないかもしれないから拾ってくれたって言った。じゃあ自分が寂しくなくなったら後はもういいの? 一緒にやろうって言ってくれた時は嘘ついてたの?」
頭の中が真っ白になり、言葉だけが勝手に口をついて出ていく。エリーはノクスを糾弾しながら、頭のどこかで彼に理解を示していた。
──ノクスの言うことは間違ってない。この街にいる、寂しい子供たちをみんな拾い上げるためには、それこそ御伽噺の魔法が必要なんだ。エリーなんかじゃどうにもならないんだ。ここにいる女の子一人をどうにかしても、それはなんにもならないんだ。
だが、それでもエリーはここで引き下がるのは嫌だった。エリーをサーカスに誘ってくれた時のノクスの言葉を、裏切りたくはなかった。
「エリー、僕は」
「……分かってる。変なことはしないもん。エリーは広場で、魔法を使ってサーカスの宣伝する。それだけだから……ノクスは黙って見てて!」
勢いよく啖呵を切ると、エリーは肩を怒らせながら噴水を通り過ぎた。そこで精霊を操り、水を僅かに持ち上げる。歩きながらそれをこねくり回しているうちに、頭が少しずつ冷静さを取り戻していく。
泣きじゃくる女児の前に着く頃には、目はぎらついているものの笑顔を浮かべられるまでには落ち着いた。少女は、目の前に立ったエリーを見て涙に濡れた睫毛を瞬いた。
「こんにちは!」
「こんにちは……」
少女が舌足らずの挨拶を返してくるのに頷いて、エリーは手元に浮き上がっていた水をぐにゃぐにゃとこねた。そして集中して水の形を変えると、透明な水流の花を一輪差し出した。
「わあ……!」
少女が目を輝かせて花に夢中になる。涙に濡れた頬がわずかに上向いたのを確かめて、エリーは少女の手を取った。
「向こうで、もっと大きな魔法をするの! 来て、一番前で見せてあげる!」
エリーは無理矢理少女の手を引っ張ると、噴水の前まで取って返した。少女は抵抗することなく、大人しくエリーの後についてきていた。
少女を噴水の前に立たせると、エリーはノクスを一瞥した。彼はどこかほうけたような顔で、しかし行く末を見守るように静かにエリーを見ている。それに力強く頷いてみせてから、エリーは大声を張った。
「レデイースアンドジェントルマン! 路傍の石ころ団のサーカスへようこそ。皆さまにお会いできて光栄です! 今日というパーティにご参加くださった幸運な皆さま方へ、さあ、拍手を!」
サーカスが始まる前の、ノクスの決まり文句を一言一句違えずに口にする。通行人たちが何事かと目を向けてくるが、足を止める人は誰もいない。ただ、目の前に立つ少女だけがぽかんと口を開けてこちらを見ていた。
「拍手して!」
エリーが煽るように拍手をすると、少女はようやく動きを取り戻してまばらな拍手を贈ってきた。エリーはそれに満足げに頷いて、両手を大きく広げた。
「路傍の石ころ団唯一の魔法使い、エインリューズ。得意の魔法を披露します!」
それから、精霊の流れに集中する。
噴水の仕組みは分からないが、水の精霊の流れを操作して水を持ち上げているのはなんとなく理解できる。雷の精霊の流れも微かに感じるところを見るに、ライトと同じくそのエネルギーを利用しているのかもしれない。水が噴き上がるのと同時に水の精霊がぶわっと上昇し、それが緩やかに降りてくる。
その流れの一端を、掴んだ。
──リロンテキなことはエリーにはなんにも分かんない。だから、直感で!
エリーは水を一筋、上空まで噴出させた。元々上昇する流れがあるためこれは簡単だ。そこから勢いよく水を下ろして、四角い水の壁を出現させる。真横に水が降ってきた紳士は、ぎょっとした顔で飛びのいていた。「ごめんなさい!」とそれに謝りながらも手を止めない。
「うちのサーカスの見どころは、まずはナイフ投げ! 綺麗なお姉さんが鋭いナイフをたくさん投げます!」
エリーが手を水の壁に向かってさっと振ると、噴水から持ち上がった水の塊が素早く飛んでいく。ばちゃんと飛沫を立てながら水の壁に吸い込まれると、飛びのいたばかりの紳士が不思議そうな顔で壁を覗き込んだ。目の前の少女も、両手を叩いて喜んでいる。
「次は玉乗り! 危ないボールの上でジャグリングしちゃいます」
水の壁を解体して、今度は球体を作る。その上で踊る人影を作りたいのだが、人間の形を取るのは難しい。結局人になり損なった二本足の何かが、両手をうねうねとくねらせて踊るだけになってしまった。これはもっと練習が必要かもしれない。
「馬も出てきます! すごく元気で頭のいい子です。足も早くて、ステージを駆け回るのは迫力があります」
エリーは馬のピーターの形を作り上げた。魔法の濫用で頭がガンガンと痛んでいるが、集中が切れるほどではない。エリーは息を詰めて水を操った。
馬というものも、水で作って似せるのは非常に難しいと今日初めて知った。四つ足の奇妙な生き物になってしまい、それを誤魔化すために高速で、右へ左へ動かす。そのたびに飛沫が散って、少女はきゃっきゃとはしゃいだ声を上げた。
「次は……」
エリーは次々にサーカスの演目を水で紹介した。アクロバット、トランポリン。ステージを盛り上げる音楽隊の紹介もした。そのうち頭痛が目の奥まで沁みてまっすぐ前を向いているのもつらくなるが、ここで折れるわけにはいかない。
水を大胆に操ったおかげか、昼間という時間帯の問題か。いつのまにか、エリーの周りには多くの観客が集まっていた。皆一様に、次は何が出てくるのかと期待の眼差しを向けて、エリーと水の遊戯を見ている。一つ芸を紹介するごとに、大きな拍手が響き渡った。
「次……っ」
息切れを起こしながら水を持ち上げようとするが、その前に肩を叩かれて我に返った。はっとすると集中が途切れ、操っていた水がばしゃりとコントロールを失う。操っていた水はちょうど噴水の上にきていたようで直接的な被害はないが、激しく跳ねた飛沫がエリーたちに降り注いだ。
「お楽しみいただけましたでしょうか?」
エリーの肩を叩いたのはノクスだった。ノクスの艶やかな黒髪には、水滴がいくつも飛び散って煌めく。彼はステージ用の微笑を浮かべ、観客をぐるりと見渡した。美しい微笑みに骨抜きにされたのか、観覧していた令嬢がほうっとため息を零す。
ノクスは前に歩み出ると、最前列にいた少女に向かって手を差し出した。その手にはいつのまにやら花が一輪握られて、観客のどよめきを誘った。
「我らのサーカスは明日より開幕いたします。ご興味のある方は、ぜひご一緒にパーティを楽しみましょう」
ノクスが深々と一礼をする。彼に目配せをされ、エリーも慌ててそれに習う。頭を下げた二人のサーカスに、観客は大きな拍手を浴びせていた。
先日とは比べ物にならないほどのコインが、エリーの前に積み重なっている。立ち去る観客が次々にコインを投げていくのにお辞儀を返していると、横から顔を出した少女がエリーのスカートの裾を引いた。
「魔法使いのおねえちゃん」
彼女は、ノクスの差し出した花を胸に抱いたまま満面の笑みで笑った。
「ありがとう。楽しかった!」
それだけ言うと、ぱたぱたと走り去ってしまう。
結局、彼女が泣いていた理由を聞き出すこともできなかった。だが、立ち去る彼女は笑顔だった。それだけで、ひとまずは満足しておくべきだろう。小さな女の子が駆けていく後ろ姿を見送ると、後には広場の喧噪とエリー、ノクスだけが残された。
大口を叩いて魔法を使ったものの、肝心の締めはノクスに頼ってしまった。若干の居心地の悪さを感じてエリーは身じろぎをするが、それを見てノクスは小さく笑った。
「僕の負けだよ。魔法使いさん」
「え?」
「君はあの子を笑わせた。僕が諦めたことをしてみせたんだ」
ノクスがエリーの前にしゃがみこむ。彼はどこか疲れの滲む、けれどすっきりとした顔をしていた。
「魔法を使って疲れただろう。おいで。なにか甘いものでも食べよう」
ノクスに手を差し出される。エリーは一瞬の逡巡の後、その手を取って頷いた。