11
サーカスは公演を終えると街を移動していく。
そこで、エリーは初めて「街」が一つではないことを知った。黒檀の森から近い街はサーチェスだったが、そこから更に南下していくと違う街がある。次に路傍の石ころ団が公演を行うのは、サーチェスの南にあるハーグァという街だった。
サーチェスの街の人手──あくまで見た目の印象だが、路上生活をしている人々に見える──を借りて大きなテントを解体すると、馬車の群れや荷車に荷物を乗せてサーカスは南へ向かった。大テントに使用した柱などは持ち運べないため、サーチェスで売り払ってしまった。毎度、新たな街で柱木を調達するのが通例だそうだ。
エリーは初めての馬車にはしゃぎ回り、危うく馬に蹴られそうになりながら荷物の運搬を手伝った。レグに何度も怒鳴られたが、それすら初めてのことで面白かった。森ではエリーと親しくしてくれる同年代の友人はいなかった。そうしてはしゃぎ回りながらも、サーカスの面々に仕事を教わって移動を繰り返した。
だが能天気に楽しんでばかりもいられない。
ノクスの呪いの発作は、そう間隔を空けずにやってきた。
月が昇ってしばらくの頃。真夜中にうめき声を耳にしてエリーは目を覚ました。
荒い呼吸と苦悶の声。寝ぼけ眼だったエリーは、すぐに布団を跳ねのけて飛び起きた。
サーカスは未だ移動中であり、荷物を守りながら野営をしていた。公演中に張るものより小さなテントを張り、その中で皆眠っている。ただ、ノクスだけはやはり皆と同じテントにはいない。一人がやっと横たわれるほどの狭いテントに、長身を縮めて眠っている。エリーはそこに無理を言ってもぐりこんでいた。
「ノクス!」
狭いテントの中で、ノクスは身をよじってのたうち回っていた。心臓のあたりを力強く押さえ、過剰なまでに呼吸を繰り返す。細く白い喉が、かひゅ、と空気を詰まらせて咳き込んだ。
「待ってて、すぐ楽にするから……」
「エ、リー」
ノクスの周りには、やはり例の気味が悪い精霊の流れがあった。普段精霊に愛されている様子とは全く異なり、まるで命を刈り取るように淀んだ気がノクスに覆いかぶさっている。呪いは雷の精霊が流れてくることで始まる。だが、それが実際どのようにノクスを苦しめているのかは分からなかった。
エリーは手を伸ばしてノクスに触れると、その流れを追い払うように念じた。
すると、暗い精霊たちの流れはすぐに消えていく。いつもこうだ。根本的なことは何も解決できないまま、手ごたえのない一時しのぎがエリーの精一杯だった。
強く閉じられていたノクスの瞼が緩む。そしてその中にある金の瞳の輝きが、ゆっくりとエリーに焦点を合わせて微笑んだ。
「ありがとう、もう大丈夫。起こしてごめんね」
彼は暗闇でも分かるほど真っ青な顔で言った。エリーは何もできない悔しさに泣きそうになりながらも頷く。
呼吸の落ち着いてきたノクスが、体を起こして一呼吸つく。汗に濡れた髪をかきあげている横顔を見つめていると、素朴な疑問がわきあがってきた。彼の呪いを解くヒントにならないかと一縷の望みをかけて尋ねる。
「ねえ、どうしてノクスは呪われているの? 魔女に呪われたって言っていたけど」
「取引だったんだ」
ノクスの瞳が、ここではないどこか遠くを見やる。彼は胸元に揺れるネックレスをつまむと、指先で弄った。エリーは静かに彼の独白を聞いていた。
「僕は街の路地裏に暮らしていて……すごく寂しかったから。それをどうにかする方法を探してた。毎日路上で芸を披露して、それでお金をもらって暮らしてた。そのうち仲間が増えてきて、何人かで芸をすることもあった。少しずつ、寂しいのは薄れて……それで満足していればよかったのに、僕は強欲だったから」
ノクスが自嘲するように、唇を歪に曲げる。
「僕はもっと多くを欲しがった。僕の周りの寂しい子供たちともっと大きな場所で芸ができたら、もっとたくさん褒めてもらえて、寂しいのもきれいさっぱりなくなるって。多くのお金、多くの賞賛。そういう強欲さを、魔女は見逃さなかった」
「魔女に魔法をお願いしたの?」
「うん。彼女は路上にいた僕を見つけた。そして取引を持ちかけてきた。もっと大きな劇団を作れるよう力を貸す代わりに、体を預けろと。僕は欲に目がくらんで、彼女と取引をした。そうして彼女が差し出した盃を飲み干したら、いつの間にか呪われていたのさ」
それから、ノクスたちは多くを手に入れた。
魔女の用意した土地で、魔女の用意したテントで、魔女の用意した機械で。ノクスたちはみるみるうちに注目され、新進気鋭のサーカス団となった。公演をするたびに、富も名声も勝手についてくる。路上暮らしとはすぐにおさらばとなった。
その代わり、ノクスは呪いを受けた。魔女が念じた時には、心臓が締めあがる呪いを。
「出資者となった彼女は、僕が恩義を忘れてしまわないよう、こうして心臓を握っている。何かがあるたびに心臓を握りしめて、自分が誰のものか忘れないようにアピールしてくる。僕は一生、彼女の奴隷だ」
そこで彼はエリーに向き直った。そして乱れたエリーの髪を優しく撫でつけて整える。
「ごめんね。君が胸を痛めてくれる優しい子だって分かっていて、こんな告解をしてしまった。僕は大丈夫だよ。君が気にすることじゃない」
ノクスに謝られる理由が分からず、エリーは黙って何度も首を横に振った。引き続き泣き出したいような気分だったが、ノクスの触れる手があまりにも優しいので、エリーは涙をこぼすこともできなかった。
「どうにか、ならないのかなあ?」
「何が?」
エリーが歩きながら呟くと、前を行くレグが振り向いた。太陽が頭上に輝き、冷えた大地を温める。南下していることもあり、昼頃になると寒さは少しばかり薄らいだ。ぽかぽかとした陽気の中、サーカスの移動に混じってエリーは考え込む。
「ノクスの呪いのこと。みんなも知ってるんだよね?」
背負っている荷物ががたがたと揺れるのが気になり、エリーは荷物を背負い直した。レグは顔を曇らせて前へ向き直ってしまう。
「知ってるよ。でも、魔法のことは俺らには分かんないからさ。すごい魔法使いにも見てもらったことあるらしいけど、どうにもなんなかったんだって」
レグの声には、無力感と苛立ちが感じられた。彼は団長を尊敬している。敬愛する人物が苦しんでいる時に何も出来ないのはつらいのだろう。エリーもここ最近それを身をもって体感しているため、レグの気持ちが痛いほど分かった。
「どこで誰に呪われたのかも分かんないらしいしさ。呪ってきた本人をとっちめることもできないんじゃ、俺らにできることはねえよ」
「え? 誰に呪われたのか知らないの?」
エリーが驚愕すると、レグは怪訝な表情を浮かべた。
「は? お前も知らねえだろ? どっかのいかれた魔女がやったんだろうけどさ、最悪だぜ」
エリーはそこで黙り込んだ。その沈黙を、レグは呪い主を知らないためだと思い込んだようだが、違う。ノクスが魔女の話を彼にしていないのが気になったのだ。
呪いをかけた魔女がサーカスの出資者であることをノクスは話してくれた。だが、他の面々には隠しているらしい。
──もしかして、サーカスを続けていくためかな。サーカスを助けてくれる人が魔女だって知ったら、みんなサーカスが嫌になっちゃうかもしれないから。
エリーは口を滑らせないように唇を閉ざした。ノクスが隠していることを、うっかりエリーが話してしまうわけにはいかない。
だが、黙っていても思考は閉ざせない。呪いのことを考えるうちに、エリーは再びぼやきを口にした。
「エリーがもっとすごい魔法使いなら助けられたのかな」
「街で研究してる魔法使いにも分かんなかったんだぜ? お前みたいなちんちくりんには無理だろ」
レグに鼻で笑われ、なにおう、と掴みかかる。二人で頬を引っ張りあっていると、後方のマーカスから「まっすぐ歩けお前ら」とどやされた。
その後は大人しく歩いていたが、エリーの中には不満の種が燻っていた。
──エリーだって魔法使いだもの。少し練習すれば、レグがあっと驚く魔法を使えるはずだもん。
森では生活上でしか魔法を使っていなかったことを忘れ、周囲の精霊の流れを観察した。
川が近いのか水の精霊が豊富に漂っている。これならばエリーのとっておきが出来るかもしれない、とほくそ笑んだ。
「ねえレグ、ちょっと見てて」
「なんだよ?」
レグが面倒そうに再び振り向く。エリーは首からぶら下げていた水筒の蓋を開き、人差し指を立てた。
足元に注意を払えないため歩みがゆっくりになる。エリーは精霊の流れがぶれないように息を詰めて、水筒の中の水だけをゆっくりと持ち上げた。
細長い筒の中から水が細い筋になって立ち上り、重力に反した動きを見せる。精霊が弾けてしまわないよう慎重に指をくるりと回すと、持ち上がった水が花冠のように輪になった。透明な水流が、火の光を透かして煌めいている。
集中を切らさないようにちらりとレグの顔を伺うと、彼はこちらに夢中になってぽかんと口を開けている。してやったりと思いながら、エリーは胸を張った。
「どう? エリーにだってこれくらいはできるんだから」
レグがひっくり返って驚くのではと自慢げに告げるが、彼の反応は思っていたものとは少し違っていた。瞬きを取り戻すと、納得した様子で頷いている。
「あー、水流装置か」
「へ? 水流……?」
「舞台の機構にあるんだよ。そうやって水を自由に操れる機械が。ただバカ高いからなあ。うちにもあったらいいんだけど……団長、いつもみたいにどっからかもらってきてくれねえかな?」
レグはそれだけ言うと前に向き直ってしまう。エリーが驚いて魔法を解くと、操られて浮遊していた水がコントロールを失い、ばしゃりと足元にぶちまけられた。急いでレグの隣に走り込んで詰め寄った。
「ね、ねえ。エリーが一人で考えて、たくさん練習した魔法だよ? もっと驚かないの?」
「驚くって言ったってな。水流装置に使われてる魔法と一緒だろ? そりゃ俺にはできねえけど、別に見たことあるし。ああ、怪我の手当てとかにも使われるんだっけ? 人の血も操れるなんてぞっとしねえや」
エリーは雷に打たれたような衝撃を浴びた。
森の中で暮らしていた頃には、生活に必要のない魔法は使わないよう口を酸っぱくして言われてきた。だからこそ、こうして水流を操って遊んでいるところを見られれば大目玉になるため、隠れて練習を重ねてきたのだ。
しかしそれは街ではありきたりな魔法だと言う。
「そんなあ……エリーじゃ役立たずってこと?」
街の文明は、エリーの想像している以上に進んでいるようだった。魔法使いが協力した製品は、どれも緻密な魔法がかけられていて素晴らしい動きを見せる。エリー一人が奮起したところで、そこに新しい発見など何もないようだった。
「いや、そうとも限らない」
隣の荷車から声をかけられ、エリーたちは顔を上げた。
見れば、積みあがった荷物の隙間からノクスが顔を出して手を振っている。今朝も呪いの発作が出たので、大事を取って馬車に同乗しているのだと遅れて思い出した。
ノクスは荷車の縁に肘をつきながら、一つにまとめた髪を風に遊ばせた。
「レグが言った通り、水流装置に使われている魔法だが……それを一人で思いついたのならすごいことだよ。魔法というのは、基本的に誰かに師事して学ぶものらしいからね。独学でこれほどやれるのは、エリーに才能があるからじゃないかな」
エリーはみるみるうちに自信を取り戻し、鼻を高くしてレグを見た。気分が良くなり、ぺらぺらと口が回り始める。
「おばあちゃんにも褒められたことあるよ! エリーはリロンテキなことを理解せずに、感覚で魔法を使えるんだって。精霊の流れを掴むのがうまいってよく言われてたし。もしかしたら天才かも」
レグに白けた目を向けられるが、ノクスに褒められて有頂天になったエリーには効果がない。ノクスはそれを静かに聞いていたが、やがて薄い唇に笑みを乗せた。
「エリーがもっと細かく水を操れるようになったら、ショーでも使えるかもしれないな」
「本当? エリーもステージの上に上がれるの?」
「いつかね」
エリーは馬車に駆け寄る。後ろではレグが「調子に乗らせるようなこと言ったらだめっすよ」とぼやいていたが、もはやエリーの耳には届かなかった。ただ、エリーの未来を信じるように微笑むノクスの目だけが頭に焼き付いて、その期待に胸が膨らんだ。