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 ──エリーのことだ。あの人たち、エリーがここにいるって分かって追いかけてきた。


 エリーの肩がびくりと揺れたのに、ノクスも気が付いたらしい。彼は相変わらず不可思議な色の瞳でこちらを一瞥すると、ふむ、と一呼吸置いた。


「そうか。僕が行こう。エリー、一緒に来てくれるかい?」


 その言葉に、エリーはすぐには頷けない。


 ──もしかして、エリーを商人に引き渡すの?


 目の前が真っ暗になり、うまく呼吸ができない。エリーが固まったまま動けずにいると、ノクスは柔らかく微笑んでエリーの肩に触れた。


「大丈夫。悪いようにはしないよ」


 そこで、ノクスがエリーを売り渡したりなどしないと思い至る。彼はそんな人間じゃない。エリーが泣き出しそうな顔でノクスを見ると、彼は微笑んで頷いた。


「怖がらなくていい。商人ならなんとでもなる」


 恐慌したエリーとは違い、寝起きじみた速度で頷いたノクスには、やはり全て分かっているようだった。顔を強張らせるエリーに対し、独り言のように囁いた。


「パーティを台無しにする方には、ご退場いただこうか」


 ノクスはエリーと手を繋ぐと、近くの団員からステッキを受け取った。そのままその足で、裏口へ向かって歩き出した。エリーは反射的に体を引いて逃げそうになるが、ノクスを信じて震える足を前に出した。


 外に出ると、大声でがなりたてる見知った商人が、サーカスの団員と口論になっていた。真っ暗な夜の帳の中、篝火に照らされた商人の横顔がおどろおどろしく揺れる。


 部外者は立ち入れないと告げる団員に対し、商人は「俺たちの商品をお前たちが盗んだ」と言い張っている。金になる魔法使いが逃げたことに怒り心頭のようだった。


 エリーが怒鳴り声に身を竦めると、ノクスは繋いだ手に力をこめた。そして彼らの前へ踏み出す。


「やあ。ずいぶん楽しそうじゃないか」


 相手をしていた団員が振り向き、「団長」と呟く。彼は終わりのない商人の怒鳴り声に疲弊していたが、ノクスを見てどこかほっとしていた。


 商人は闖入者に一瞬顔をしかめたが、ノクスがエリーを連れていることを知ると、途端に表情を変えた。一瞬の安堵、その次にはエリーを隠していたことへの怒り、そしてノクスを懐柔しようとする嫌らしい笑みに変わった。


 商人は歪んだ笑みを浮かべると調子のいい声で語り掛けてきた。


「ああ、そう、そいつです。うちの商品だってのに逃げ出しやがったのは。全く困ったもんですよ。逃げられて途方に暮れていたら、こちらのサーカスにいるって情報が流れてきたもんで。どういうことかって来てみたら、やっぱりここにいましたか。や、ご迷惑をおかけしました」


「なるほど。昨日の公演で、僕がこの子を連れてステージに出たから……そこで目撃証言が出たのか」


 ノクスは一人納得するように呟いている。商人もそれを否定しないところを見るに、おおよそは合っているのだろう。下卑た笑みを浮かべたまま手を揉み始める。


「いやね、最近のガキは活きがよくて困りますよ。そいつもオークションで売りに出す予定だったんですが、この有様で。おかげで予定が狂っちまいまして。いや、まあ、気に入った方がいるならそのお方にお渡しするのもやぶさかではないんですがね」


 商人は、ノクスをそれなりの取引相手として認めたようだった。これだけ大きなサーカスの団長となれば、金蔓として利用したいと思うのも無理はない。


 ──ノクス、どうするのかな。


 エリーはこわごわとノクスを見上げた。


 彼は普段と同じ様子で笑っている。だが、ほんの少しだけ目の色が冷たく見えた。


「うん。いい子だね。とても気に入った」


 だから、とノクスは顔色ひとつ変えずに言った。


「百万ルナ。それで買うよ」


 沈黙。


 ばちりと篝火の火が跳ねて、ようやく時間が動き出す。商人は一瞬青くなった後で顔を真っ赤にし、額の汗を拭い始めた。


「あ、はあ、ええと、百ルナですかい?」


「百万だ」


 ノクスは薄い唇に笑みを乗せたまま揺らがない。ただ商人だけがだらだらと滝のような汗をかいて、ごくりと唾を飲み込んでいる。


 エリーには百万ルナの価値がよく分からない。だが、とてつもない大金であることだけは理解できた。そんな金額をエリーに出していいのかと不安になるが、ノクスには譲る気は一切ないようだった。


 商人は動揺しまごついていたが、すぐに目に卑しい光を取り戻した。そして芝居がかった口調で体をくねらせる。


「旦那の心意気は嬉しいんですがね。そいつはオークションで……」


「不足かい? なら二百万」


 商人はしゃっくりのように大げさに息を呑んだ。


 再び静寂が降りる。


 ノクスは退屈そうに、ネックレスの先端の石を指で弄っている。商人はたっぷりと沈黙したが、最終的に口をもごつかせてゆっくりと答えた。


「……分かりました。二百万で」


 商人の唸るような声で交渉は成立した。


 エリーには口を挟む隙もなかったが、果たしてこれでいいのだろうか。いくらエリーが魔法使いだと言っても、それだけの価値があるようには思えない。おろおろとしていると、こちらを見下ろしたノクスと目が合った。


 彼は商人の目を盗んでこっそりとウインクを飛ばしてきた。そこで、彼に何か考えがあることはすぐに分かった。エリーは黙って、事の行く末を彼に任せることにした。


 ノクスはその場にいた団員に金を持ってくるよう伝えると、落ち着かない様子で金を待つ商人に話しかける。


「最近は奴隷の売買もかなり規制が厳しくなっている。特にこの街では、認可を受けた者でなければできない。この商売も楽じゃないだろう」


「ええ、本当に。しかし需要が減るわけではありませんからね。しかしまあ、方法はいくらでもあるんですよ」


 大きな取引を終えた安心感からか、商人はするするとよく喋った。ノクスは変化のない微笑でそれに頷き、語り続ける。


「そういえば、指名手配を受けている人身売買グループがあると聞いた。それがこの街にやってきているという噂も」


 話の雲行きが怪しいことに気が付いたのか、商人は体を強張らせる。しかしノクスは言葉を止めなかった。


「そうだ。僕はこのサーカスの団長をしているんだが、これだけ大きなテントを張るとなると、街の警備隊とも連携を取る必要が出てくる。そこで嫌というほど聞かされるのさ。『こんな風貌のやつが客としてやってきたら教えてくれ』と」


 商人は絶句し、目を泳がせ、激しく目を瞬いた。顔は今度は真っ白になり、病的にさえ見える。禿げ上がった頭にも汗が光り、つうっと頬に伝い落ちてきた。


 ノクスは抑揚の薄い声で、ああ、と呟いた。


「そういえば、君はどことなく聞いた風貌に似ているな」


「……何が望みだ」


 商人の低い声に、ノクスは軽く返した。


「なに。二百万ルナほどあれば、この軽い口も閉じられるのではないかと思っただけさ」


「てめえ……調子乗ってんじゃねえぞッ!」


 商人は突然激高し、懐からナイフを取り出した。それをノクスへ向かって振りかぶるが、それよりも先にノクスは手に持ったステッキを軽く引いた。彼に庇うように腕の後ろに回されながらも、エリーはその瞬間を見た。


 ノクスのステッキの動きに連動して、商人の横に積みあがっていた木箱がバランスを崩した。ぐらりと揺れたそれは、商人が飛びかかるよりも早く彼に襲い掛かり、ボキリという嫌な音と潰れた悲鳴を奏でて地面に転がり落ちた。


 一瞬で決着はついた。


 男は木箱に押しつぶされ、動けずに呻いている。ノクスはふうとため息をついて、「二百万ルナでいいと言ったのに」と男に言い放った。


 金を持ってくるよう言われた団員が駆け寄ってくると、ノクスは警備隊を呼ぶように伝えてエリーとその場を離れた。団員は、金を持ってはいなかった。初めからこうなることが分かっていたようだ。


 篝火の横に置かれた木箱にエリーを座らせると、ノクスはやはり笑っていた。エリーの前にしゃがみこんで首を傾げる。


「大丈夫だったろう?」


「うん……」


 何が起きているのか分からないまま、全てが解決したようだ。エリーは魔法の使用や緊張の連続で疲労した頭で言葉を考えた。


「エリーが逃げてきたって、分かってたの?」


「奴隷商人が近くに来てるって話は聞いていた。魔法使いが森から追われたとも。だからその可能性もあるかなとは思っていたよ。それだけ」


「分かってたのに、サーカスに入れてくれたの?」


 エリーが首を傾げると、ノクスの視線は虚空へ向いた。


「誰だって、望まない者を主にしてはいけない。心がすり減って、なくなってしまうから」


 そう話す彼の言葉は、普段の穏やかさが掻き消えた空虚さを感じさせた。まるで己に言い聞かせるような呟きに、エリーは思わず黙り込む。


 ──ノクスは不思議な人。ふわふわして掴めないのに、時々すごく重たくなって、沈んでいくみたい。


 エリーの不思議そうな視線に気が付いたのか、ノクスはこちらを向いて笑顔を浮かべ直した。その時には、もう普段通りの彼に戻っている。


「それに、君はもうサーカスの一員だから。今日のことで、みんなもそれを認めてくれたと思うよ」


「そうかな?」


「そうだよ。ほら、ごらん」


 ノクスに促され振り向く。


 すると、大テントの中から出てきた小さな人影が、エリーたちの元へ一直線に走ってくるところだった。その影が近くへやってくると、篝火が横顔を照らし出す。


「レグ?」


 走ってきたのはレグだった。彼は肩で息をしながら、真剣な眼差しでエリーを見つめた。寒さか、走ったためか、彼の白い頬が赤く染まっている。


「どうしたの?」


 エリーが尋ねると、レグはむっと唇を噛み締めた。それから少しの逡巡の後、険しい表情のまま口を開く。


「大丈夫だったかなって、思って」


「え?」


「団長がいるから平気とは思ったけど。その、商人が来たって……」


 彼は、エリーが商人に連れ戻されてしまうのではと心配してきてくれたらしい。エリーは心遣いが嬉しくなって、笑顔で答えた。


「大丈夫! ノクスがひょいひょいってやってくれた!」


 レグはほっと息をつくと、やはり一瞬だけ黙り込んでから言葉を続けた。


「じゃあお前、これからもこのサーカスにいるってことだよな」


 そう聞かれ、エリーは虚を突かれた。


 エリーがサーカスに入ったのは、憧れた街での生活の一端を知れると思ったことと、商人から逃げる隠れ蓑になると考えたからだ。そして商人はこのままいけば警備隊に捕まり、もうエリーを追跡してくることはないだろう。つまり、サーカスに入った理由の半分は消えることになる。


 ──じゃあ、サーカスからもう抜ける?


 その考えがちらついた瞬間、エリーは自分でも驚くほど強く反発を覚えた。


 まだ、ここにいたい。サーカスの仲間として、ここで夢を作りたい。


 エリーはノクスを見た。


 彼は全てを受け入れるように微笑んでいる。エリーがサーカスから離れることを選んだとしても、彼は引き留めてこないだろうことがなんとなく理解できた。


 ──でも、ノクスは寂しいんだよね。


 エリーは立ち上がると、背筋を伸ばしてはっきりと言い切った。


「エリー、ここにいるよ。一緒にサーカスをやりたい」


 それは自分の夢のためでも、ノクスのためでもある。エリーは自分でも分からない高揚を胸に抱きながら、それでもやりたいことだけは見えていた。


「まだ、サーカスにいてもいい?」


 エリーがノクスを見上げる。彼は薄く笑ったまましっかりと頷いた。


「自分の行く道を決めるのは自分だけだよ。エリーがそう望むなら、僕らが拒む理由はない」


 ノクスの許可に、ぱっと表情が明るくなる。レグと顔を見合わせると、彼も同じように晴れやかな表情を浮かべていた。


 しかしエリーと目が合うと、すぐに仏頂面に戻ってしまう。それから慌てた様子で「でもエリーを認めたわけじゃねえからな」と付け足した。それに、ノクスとエリーは顔を見合わせてくすりと笑った。


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