告白
「聞きましたよ。花屋の美樹さんに告白されたそうじゃないですか」
みなみが溢れる興味を隠そうともせずに近づいてきた。
きっと真東だろう。口の軽い男だ。向こうもやりにくくなるから、なるべく表沙汰にはしたくなかったのだが、そう思い通りにもいかないようだ。
答えずに店のディフューザーのオイルを交換した。壁を作ったつもりだったが、みなみには話をやめようという気がないようだ。
「振ったんですよね? 美樹さんかわいいのにもったいない」
「興味ない」
「付き合ってみたら出るかもしれないじゃないですか。そんなことだから男色とか噂されるんですよ」
余計なお世話だ。みなみにしたって結局はいいように扱われているだけの恋愛ばかりなのだ。何を根拠にものを言っているのかもよく分からない。
花屋が隣に出来たのは今年の春先だったろうか。小川美樹を初めて見たのは夏前だった気がする。
それまでは見かけなかったのだからその頃から働き始めたのだろう。
彼女が店先に打ち水をしているところに通りかかって挨拶をした。人見知りの様子も無く、笑顔で明るい声が返ってきた。彼女は天真爛漫というか、いつも笑顔の健康的な女の子だった。喩えれば初夏の新緑にあふれた草原だろうか、田園かもしれない。田舎臭いということではなく、自然に近い感じだ。
花屋ということもあってオイル抽出のために必要な花を買いによく足を運んだ。本来は抽出にはかなりの量が必要なため、あくまで極少量の抽出実験的な用途だ。
暇なら立ち話をすることも多かった。彼女の母親は体が弱く、外仕事に向かないとか、働く為に大学を中退したとか、花は愛情を注ぐと応えてくれるとか、母親の元気を自分が奪ったのだとか…。
彼女はいつも笑顔だったが、本当は泣いていたのかもしれない。
数日前のことだ。店を閉めて通りに出た。
この辺は些か電灯の類が少ないので薄暗いのだが、そのぶん星がよく見える。
その日も空を見上げると、真っ白な月が煌々と網膜を刺激した。星もまたいくつも結びつき星座を創りあげていた。
ひと気を感じてそちらを見ると花屋の軒先に彼女が立っていた。
腕時計を見ると十時近い。花屋の閉店時間は八時だから、とうに閉まっている。
彼女は寒そうに両手を合わせて息を吐きかけていたが、こちらに気づくと小さく頭を下げた。その表情は硬く、どこか寂しげでもあった。
「こんなに遅くにどうしたの? 風邪引くよ」
「えっと、その、ちょっと……」
「この辺りは閑静だから逆に物騒だよ。早く帰ったほうがいい。駅まで一緒に行こうか、それとも何かやることがあるのかな?」
彼女は首を振り、駆け寄ってきた。
「それにしても寒くなった、吐く息が白い。今年も終わりだ」
そうですねと答える程度で彼女はうつむき、それきり黙ってしまった。彼女らしからぬ様子に違和感を覚えながら駅に向かって歩いた。
なにかあったのかもしれないが聞こうとは思わなかった。話したければ話すだろう。しかし、たかが隣の店の人間でしかない自分に、相談ごとなどあるとは思えなかった。そもそも相談されたところで何も出来ない。
「あの、西島さん。お話があるんです」
彼女が口を開いたのは、赤羽駅の北改札の前まで来た頃だった。平日だからか人影はまばらで、その声が妙に響いて聞こえた。彼女は何かを決したような表情でこちらを真っ直ぐ見つめた。
ここで自分には彼女の意図が読めてしまった。複雑な心持ちだった。
「あの、私、何度も西島さんとお話して、いつも真剣にアドバイスしてくれたり、愚痴も黙って聞いてくれたり、そういうの、嬉しくて。私、こっちに出てきてあんまり友達もいないし、でも、西島さんの話とか楽しくて、だから寂しいとかそういうのじゃなくて……。あれ、何が言いたいんだろう、あたし、変ですよね」
困ったように笑う彼女の口元は小さく震えていた。
次第に潤みを増していく大きな瞳から、ぽつりと雫がこぼれた。
「わたし、あの、迷惑かもしれないけど、西島さんのこと……好きなんです」
真っ直ぐで、純粋で、とても綺麗な告白だと思った。
彼女はうつむいたまま泣いていた。きっと、苦しかったに違いない、怖かったに違いない。
成功の理想に想いを馳せ、希望を抱きながら、反面、否定されるかもしれない恐怖。その重圧で彼女は自分が壊れそうになっていたのだろう。
そっと彼女の髪に触れた。哀れな子羊に救いを与えたまえ。
「ありがとう」
彼女は顔を上げた。涙でぐずぐずだが、醜さは無い。だが、希望も無い。
「気持ちは嬉しい。けど、俺はだめだ」
「そ、そうですよね。西島さんにだって好きな人いたりしますよね。わたし、なんて馬鹿なんだろう」
そう言って彼女は無理に笑った。強がっているのがよく分かった。
「馬鹿じゃない。俺には好意を抱く相手なんていないよ」
「そ、それじゃあ、どうして……」
「だからね、好意を抱ける相手なんて、いないんだ」
何を言っているのか理解できたかどうかは知らない。彼女はただ時間が止まったように動かなかった。
雨音が、聞こえてきたのはその時だった。
「女の子にそんな台詞はあんまりですよ、もっと気遣ってあげないと」
みなみはまるでその場にいたかのように言った。
実際、偶然にその場にいた真東から事細かく聞いたのだろう。
「気遣ってどうなる。変に気を持たせるほうがよっぽど残酷だと思うが」
「確かに、そうかもしれませんけど」
「みなみこそ、踊らされないようにするんだな。でないと都合よく使われるだけだぞ」
そう言うと、みなみは複雑な表情を浮かべて微笑った。
真綿で首を絞めるのと、鋭利な刃物で両断するのと、どっちがいいなんて結論が出せるものだろうか。
結果は一緒だ。死ぬだけだ。
過程が違ったところで結果が同じなら何も違わない。殺される者に聞けばいいのだろうか、回りくどくやんわりと振られるのがいいか、即断で断られるのがいいのか、どっちだ? 馬鹿馬鹿しい。
「いやぁ、感動しちゃいました。かっこよかったなぁ西島さん。『好意を抱ける人はいないんだ』なんて中々言えるもんじゃないですよ。クールって言うか、ダンディって言うか。あぁ、でもショックだなぁ、ちょっといいなって思ってたんですよ、美樹さん」
真東はオルガンの前で椅子に座ってクルクルと回っている。
「なんでもいいが、こういう話を他人にするな。俺は構わないが向こうが迷惑だろう」
「あは、すみません。あんまりにもかっこ良かったんで話したくなっちゃって、いやぁ、振った相手にも気を使う辺り、やっぱりかっこいいですよ」
嫌味という訳ではないようだが、真東にはどうもこの手の話を茶化す性質があるようだ。
あまり気持ちのいいものではない。彼の軽薄さだけが剥離して、空間に漂っているようだった。
「あれからどうしたんですか、会いました?」
「いや、会ってないな。でも、何も変わらないよ」
「そうですかねぇ」
何も変わることは無い。少なくとも自分はそうだろう。時折花屋に出向いていき、花を買うついでに世間話をする。それだけだ。
相手が彼女なのか、別の店員なのか、そこに違いなどなにもありはしない。自分にとっては花屋の店員という役割が存在している、というだけのことだからだ。
どうしてこれほどに価値を見出せないのだろう。
価値が無いのか、見えないだけなのか、判断ができない。やはり世界と自分の間には目に見えない巨大な隔たりがあるように思えた。
それは例えば、マンガの世界と現実の隔たりのように、手を伸ばしたところで決して届かない壁。そんなものに近いような感覚だ。リアルとフィクションに隔たりがないという見方も出来るかもしれない。自分にとっては総てがフィクションであり、それに独り埋もれて生きているような、そんな感覚でもある。
寂しいという訳ではない。だから世間的に言われる孤独感とは違う。
独りでいるのは苦でもないし、また、楽でもない。
言うなれば無。無そのものだ。あらゆる事象がどうでもいい。ならば何故自分は生きているのだろう。何の意味があって生きているのか。もしかしたら、それこそ意味など無いのかもしれない。
真っ白な砂で描いた絵が、風で吹き散らされるように、本当は自分も消えてしまいたいのかも知れない。それこそが、自分の求める唯一無二の欲求なのかもしれなかった。
「西島さんみたいな動じない男になりたいなぁ」
そう呟いた真東にそっと微笑んだ。
「やめておけ。面白くもなんともないぞ」
真東のオルガンの上に置かれたスマホからニュースが聞こえた。
(……は、本日未明、今月に入って三度目のミサイル発射を行いました。国連はこの行動に対し、経済制裁をもって……)
「またやりましたね。ほんとどうなってんですかね、あの国は」
「さぁな」
「地下核実験だって頻繁にやってるらしいですよ。噂じゃ核弾頭に搭載も可能になったとか。なんで野放しにしとくんですかねぇ、経済制裁って言ったって限度があるでしょう」
「そうだな、独善的な被害者意識だけ増やして根本は変わらないって気もするな」
「物騒な世の中ですねぇ、嫌だ、嫌だ」
そんな話をしながら、本当は心のどこかで、世界が消えてしまう未来を想像していた。そうしたら、本来自分が生きるべき世界がその姿を現すのではないかと思ったのだ。
消えた後にそれが現れないのなら、きっとそれはそれでもいいのだ。
その日の夜、カウンターで伝票の整理をしていると、窓の向こうからこちらを伺っていた小川美樹と目が合った。彼女はにっこりと微笑んで頭を下げた。
自分も同じように頭を下げると、彼女は小さく手を振って小走りに走り去った。