発進
私は組織に入ることを承諾した。
絶望を押し付けられた気分だったが、それまでの人生に満足があったわけでもない。それまでの違和感に比べたら、こちらの方がよほど性に合っていたし頭がクリアになった。その反応こそ真実の人生かもしれないと感じれば、以前の暮らしはどうでもよくなった。両親は早くに他界したし親戚もいないと言って差し支えないほど疎遠だった。自分ひとりどうなったところで誰も困りはしない。
それからはひたすら訓練の日々になった。
身体的な部分の強化はもちろん、メンタル、基礎的な科学知識や操艦技術、言語習得や思想の排除に至るまで、徹底的に行われた。この訓練の時ばかりは後悔しない日が無かったほどだった。
本気で死ぬ、殺されると思ったことも数多くあった。だが不思議なもので人間死なないときは死なないのである。そんなものを体験すると、人は死ぬ時が決められているのではないかとさえ思えた。その時までには何があっても死なないが、その時がくれば何があっても死ぬ。死とはそういうものであるような気になった。
表向きには嫌気がさした会社を自主退社し、北海道へ移住して牧場の経営を始めた、ということになっていた。事実牧場は経営していたが、そこで働く者はすべて『エデン』に関わる組織の人間だった。そしていつか来る『その時』に備えていた。
組織に人種は関係なかった。黒人だろうが白人だろうが黄色人種だろうが、一個人を量るのには無価値だった。絶望の中で、それだけは救いだった。今すぐには駄目だったとしても、いつかはこれを世界の当然にできればいいと思う、だがそう言うと妻は寂しそうに首を振った。
結婚したのは牧場に移って二年後だった。
気の強い女、そう思っていたが、本当は誰よりも優しかった。それが彼女の痛々しさでもあった。大切だと思うから、守ろうと思うから残酷な選択をしなくてはならないことも多い。その都度彼女は傷つき続けていた。せめてその苦渋の選択だけは自分が変わってやろうと思った。我武者羅になって、気がつけば、自分は『エデン』のトップになっていた。
「状況は」
スミスが答えようとしたときに司令室全体にカウントが響いた。
「エデン起動完了5秒前、4、3、2、1」
今までスリープモードだったシステムが完全起動し、青白かった中央司令室にオレンジの光が加わって広がる。インジケーターのレベルが上がっていった。
「準備完了。いつでもいけます」
スミスはそう叫んだあと黄野中将に敬礼した。黄野は答礼しヘッドセットをつけた。
「全艦通信オープン」
その言葉に通信担当のロシェット・マイセンが頷くのが見えた。
「黄野桜良中将である。これから司令のお話がある。各自、心して聞くように」
その視線を受け、私は正面の巨大モニターに視線を向けた。敵の艦隊が黒い影のように映っているのが見えた。
「我々は、弱き存在である…」
誰も居ないように静まった部屋に自分の声だけが響いているのを感じる。今、この『エデン』にいるもの全てが自分の言葉を聞いているのだ。
「宇宙という世界に存在する点よりも更に小さな点である。ほんの些細なことで掻き消えてしまうほど小さな点だ。この場に居る者たちにとって、それはよく理解っていることだと思う。知っているから優れているということではない。知っている者たち、知らぬ者たち、それらは人としての種としての役割の違いである。我々は人として共に生きる同士であり、そこには何の違いも無い。そして今日、我々はその大切な多くの同志たちを奪われた」
俯く者たちの姿も見えた。
「奴らは何百万もの同士を奪い、いまだ奪おうとしている。この理不尽な虐殺を受け容れることが我々の宿命なのだろうか。例えそうだとしても、私はそれを認める訳にはいかない。ここにいる君たちもまた私と同じ気持ちであると、そう思っている。彼らの蹂躙を受け容れるわけには行かない。我々は真実を知っている。だからこそ人類を護る義務がある。その為にここにいる」
私は目を閉じ、一呼吸おいた。
「我々は弱き点かもしれない。だが、ただの点ではない。生きた点である。心を持った点である。それはかけがえの無い人類の財産であり、誇りである。この心は断じて汚されてはいけない。護らねばならない。そして、それを護る力こそ、この『エデン』に他ならない。だがこれだけは忘れないで欲しい。『エデン』とは道具のことではない。そこにいる君達一人一人の心が『エデン』の一部である。この場の全員が『エデン』なのだ。心そのものが『エデン』の力となる。最後にこれだけは言っておこう。私からの願いだ」
しんと静まる空気が耳の奥で加速していく。その加速を砕くように叫んだ。
「決して諦めるな。我々の想いこそが希望となる」
以上だ。その言葉を最後に通信をきった。
無音だった。その中でマイクを置いた直後、空間が張り裂けそうなほどの振動が一気に拡がった。
歓声だった。
全員が大きく歓声を上げている。ビリビリとした熱気が『エデン』全体に拡がる。まるで熱い血液が流れ渡るようだった。桜良が隣に立った。そして小さく笑った。
「あなたを選んだのは私ではなかったみたいね」
「何の話だ?」
「さあ?」
私は再び正面を見据えた。歓声は続いている。スミスに合図を送ると彼は「スタンバイ」と指示を出す。同時に響いていた歓声は掻き消えたように無くなり、再び静寂が訪れた。
不安はあるのだと思う。当然だ。だが今彼らの目には炎が宿っていた。意思の炎とも言える輝きは、しっかりとそれぞれの役割を見据え、一つの魂へと『エデン』を昇華させていた。迷いは無い。残された作業はたった一つだった。
生きる。
その想いを胸に、中は大きく叫んだ。
「出るぞ! 超巨大母艦『エデン』発進!」
地響きが轟く。北海道のほぼ中央。十勝岳の麓、十勝平野の北端の大地が大きく盛り上がる。地殻変動のように断裂してゆく大地がまるで生き物のように蠢く。
だが、そのスケールは凡そ生物の比ではない。雲の上にまで伸びた大地が崩れ、中からその本体が姿を現しだした。土埃と雲が交じり合い漂っている。上昇にあわせ、巨大な影が夜空を覆っていく。大地に立つ者たちには星が消えていくように見えただろう。
影は、成層圏に近づくと共にその本体から光のラインを模様のように現し始めた。
『エデン』が空中に輝く。
直径50キロにも及ぶ巨大な笠のような本体、その中央から下方に伸びる一本足、そのシルエットは巨大な海月のようでもある。一本足はよく観ると多数の円柱ブロックのようなもので構成され、円柱は交互に反対方向へと回転している。エネミーファーストの使用していた円盤の技術を応用して作られた『エデン』だが、その能力や規模はオリジナルの比ではない。
戦闘母艦としての能力だけではなく、あらゆる施設も内包した『エデン』は一つの国家としてさえ十二分に機能できるほどの潜在能力を擁していた。
全世界から集められた精鋭クルーの数は百五十万人に及ぶ。
人類の最後の砦、超巨大戦闘航宙艦。
それこそが『エデン』の真の姿である。