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ダスト  作者: イリ―
堀北‐ほりきた‐
19/24

サンタクロース

 自分が、まるで井戸の底にいて、遠くにある外界をその小さな口から見ているようだった。

 自分の目という井戸の口から伸びる奥底、本当の私はそんな奥に小ぢんまりと存在しているのかもしれない。萎縮し、肉体の感覚を投げ捨てた私の魂はただ、ただ其処(そこ)に在るだけだった。

 どこか違うのではないか、それこそ幻想だと考えていたはずではなかったか。彼に何かの期待があったのではない。ないが、何故だという思いは拭えなかった。よりによってこの人である必要がどこにあったというのだ。絵のことを語る時、彼は子供のように楽しそうに笑っていた。あの無邪気な姿が偽りであったのか。違うのだと思う。ならば母は、その彼を愛したのだというのか。彼に惹かれるのは分からないことではない。それでも、何故彼なのだと思う。


 結局これは(はかりごと)だったのだ。彼は私のことを知っていて近付いて来たのだ。この時の為に根回しをしていたに過ぎないのだと思うと吐き気がした。

 騙されていたという思いが怒りに変わっていくようだった。


「何故ここに長谷川さんがいるの」

「夏芽、よく聞いて頂戴、この人は」


 長谷川さんが手を伸ばした。母が心配そうに黙った。


「まずは謝らなければならない。僕は君に一つ隠していたことがある」

「もう分かった。あなた達がそろいもそろって卑怯者だということはね」

「夏芽、違うの」

「何が違う!」


 叫んでいた。一瞬の静寂が室内を満たした。左目から涙が落ちた。

 全部が汚い。全部が穢れている。全部が醜く。全部が腐っている。

 腐臭に溢れている。

 こんな世界は、無くなってしまえばいいのに。

 私が、消し去ってやる。

 目の前に包みが差し出された。見覚えのあるラッピング。私が包んだプレゼントが目の前にあった。


「僕は父に育てられてね、母はいなかった。僕を連れて家を出たのは父だった。父はいい人だったが酒癖が酷かった。それが原因でいさかいが起き、僕を手放したくなかったのだろうね。それでも酒を飲めば暴力を振るって、僕はよく殴られたものだ。だからといって憎んでもいなかった。多少はね、あったのかもしれないけれど。寂しい人だったから憎む気にはなれなかった。絵は父に学んだんだ。僕には才能が無くてね、それでも好きだったから画商として関わることにした。二年前、病で父は亡くなって、遺品を整理していたらね、手紙が出てきた」


 何の話だ、そう思った。回りくどいのは嫌いだ。愚鈍(ぐどん)だ。はっきり言えばいいのに。真実は過去。変えることなどできないのだから。


「手紙はね、父のものだった。母へと宛てたものだったが、どれ一つとして投函された様子は無かった。どれも内容は似たようなものだった。謝罪と後悔だったよ。思えば父が最後に残した絵もそうだった。だからということでもなかったけど、母に会おうと思った。ただ知っておいて欲しかった。父の知っていた住所は古くてね、所在は知れなかったが何とか見つけた。母は別の人と結婚して子供もいた。妹がいると初めて知った」


 何だ? これは、この話は一体何だ。私は分からなくなっていた。


「母は既に別れていて妹と二人だった。生活を邪魔したくはなかったから僕は母にだけ会うことにしていたんだけれど。やはり隠すべきではないという結論に至った。だから僕は、今日この日を選んだ。受取ってくれるかい」


 この人は、なんだ? 私は、なに?


「このプレゼントは妹である君に贈るために選んだんだ」


 私が、妹。私が? 妹?

 母のほうを見た。母は涙を流していた。


「夏芽とはお父さんが違うけれど、修一はあなたのお兄さんなの、今まで黙っていてごめんなさい。あなたを傷付けたくなくて。本当にごめんなさい」


 母が連れてきたのは兄? 母が嬉しそうに会っていたのは兄? 長谷川さんが、兄?

 私が長谷川さんの妹だというの。異父兄妹だというの。

 プレゼント。プレゼントが差し出されている。どうしたらいい?

 私は、そっと手を伸ばした。

 受け取るの? 認めるの?

 破壊するの? 否定するの?

 プレゼントに手が触れると、私は意識を失った。



 世界が腐っている。それは人がいけないのだと思った。人が穢らわしいから世界が汚れるのだ。私のいる世界は醜く、壊してしまわなければ、私はいつまで経っても幸せになれないのだと思っていた。だから、私は壊してやろうと決めた。

 だが、本当にそうだったのか。

 壊そうとした世界は、私の思いなど無視して壊れてしまったのではないか?

 母のことも勘違いしていた。男のところに入り浸りどころか、その相手は腹を痛めて生んだ己の子。罪といえば前夫の存在を隠していたことだが、それとて私の気持ちを(おもんばか)ったと言ってしまえば悪意とは遠い。


 自分の勘違いが知れただけであっさりと亀裂が入った。

 もし数え切れぬほどの勘違いの上に成り立っていたのが私の世界なら、腐っていたのは世界か、私自身か。

 壊れるべきは世界ではなく、私だったのだろうか。

 それでも私はまだ全てを受け入れることは出来ない。受け入れてしまえば、過去の屈辱や悲しみも、已む無しとしてしまうことになる。母がどうあれ、やはり世界は腐臭を放っていることに違いは無いはずだった。


 薄らと目を開けると部屋は暗く、ダイニングからの明かりが入口の襖の隙間から伸びて見えた。

 どの位眠っていたのか、置時計に眼を向けると十時前だった。それほど経ってはいないようだ。二人はダイニングで話している。(わず)かにだが声が聞こえた。


「あの子は容姿のせいでずいぶん辛い思いをしていると思うの、もしかしたらあの人と行ったほうが幸せだったかもしれない。それも全て私のせい」


 違う。この容姿がいけないのではない。本質を見極められない愚か者が多いからだ。


「僕には何が正しかったかは分からないけれど、この数日ずっと見ていた。あの子はあの子なりに一生懸命だったと思う。僕の画廊で絵を見つめていた夏芽は真っ直ぐだったよ。仕事場での夏芽は日本だと忘れるくらい素敵な雰囲気でそこにいたよ」


 それも違う。私はこの世界を呪っていた。絵はこの世界ではないものを描いていたから観ていただけだ。絵の中の住人だったらどれだけ良かったかと考えていただけだ。それは真っ直ぐとは異なるものだ。店でも同じことで、私はそこに在っただけだ。在ることで周囲が勝手に関連付けて夢想しているのに過ぎず、私はただオイルを売っていただけなのだ。


「これからは僕が二人を守っていくよ。だから安心して」


 長谷川さんの、いや、兄と呼ぶべきなのだろうか? 実感は何も無い、あるはずが無い。生まれてこの方一度も会ったことが無いのに、突然兄だと言われた所で、はいそうですかと受け容れることなどできる者がいるものか。

 ふと、翔子の顔が浮かんだ。彼女ならできたのかもしれない。

 ただ少しだけ、翔子は受け容れすぎたのだろう。今のこの状況を翔子に話したら何と言うだろう。きっと「お兄ちゃんが出来たの? 良かったじゃない。普通欲しくたって手に入らないよ」そう答えるような気がした。


 長谷川さんの穏やかな声を聞いていると、不思議に落ち着くような気がする。兄だからかどうかは知らない。話す内容の問題でもない。もしかしたら、父という存在の与えてくれるものに近いのかもしれない。ただし確証はなかった。父を知らずに育った私が感じたことのない感覚であったから、そうかもしれないと思っただけだ。だから違うのかも知れない。


 私は起き上がり外を眺めた。小高い丘の上にある団地だから、遠くに街の明かりが見える。クリスマスイブだからか、いつもよりも彩りある光に見えた。


「母さん。夏芽は僕のことを兄として認めてくれるだろうか」

「分からない。けれど、きっと大丈夫よ」


 認めるとか認めないとか、そういうことではないと思った。

 認めなくても彼は母の子だ。私は母の子だ。それは変わらない。

 私がすべきはありのままを受け入れることだ。それは何も変わっていない。そして、壊すべきだと思ったら、その時に壊せばいいだけのことなのだ。今はまだその答えが出る段階ではない。

 そう思ったら、何だか急に気が抜けた。今は何も考えたくなかった。


「お兄ちゃん? お兄さん? 兄さん? 兄貴? 兄ちゃん?」


 どうやって呼んだらいいのか、戸惑い(つぶや)く自分がなんだか可笑しかった。ベッドから立ち上がり、薄闇の中で服装を整えた。部屋を出たらどうしよう。笑えばいいのか、怒ればいいのか、泣けばいいのか。普通にしよう、と思った。いきなり兄と認めて呼んであげるのも面白くないから当分は長谷川さんで良いだろう。修一君でも良いかもしれない。


 何となく昂揚していた。西島さんに救われた後もそうだった。悪い気分じゃない。

 ダイニングに出ることがまずは一歩だった。私は足を踏み出そうとした。


 その時、私の影が目前に突如浮き上がった。

 真っ黒な影。

 それ意外は真っ白だ。

 振り返った。

 窓の外が真っ白に染まり、何も見えなくなっていた。

 その光景はまるで光の大洪水とでも呼ぶべきものだった。

 全てが呑まれていく。

 待って、私はこの部屋を出なければいけないの。

 母に謝らなければいけないの。

 長谷川さんを、いつか兄と呼ばなければいけないの。

 だから、嫌。

 長年周囲を覆っていた膜が消えた途端に、これからだというのに、世界は切り裂かれるというのか。

 身体が欠けてゆく。

 私が、世界が壊れていく。

 こんなものは望んでいたのと違うじゃないか。


 今更になってサンタクロースは

 私の世界を切り裂いた。

 


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