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ダスト  作者: イリ―
堀北‐ほりきた‐
17/24

長谷川修一

 家は嫌い。

 だからなるべくは家に居ないようにしていた。

 もうじきクリスマスである。オーナーからのお土産を貰った。黄色の瓶の香水。ジャスミンの香りがした。私はジャスミンが好きだったから、嬉しかった。茉莉花茶(ジャスミンティー)もよく飲んだ。


 ある日の朝方、仕事が午後からだったので渋谷に出て散歩した。いつもこうして街を歩く。

 いつも通る道がある。アナログ版を置いている店があって買ったり聞いたりするのではないのだけど、ジャケットのデザインをただ眺めたりするのが好きだった。何枚も何枚も、ただデザインを眺める。それだけで何時間もつぶしたりする。時々店員が話しかけてきて、この曲が好きなのとか、あっちにもいいのがあるとか、ブラック系のミュージックは最高だとか、可愛いねとか、どこの国の人とか、そんな無為(むい)な質問を繰り返してきたりした。そういう時は、私は日本育ちだし曲にもあなたにも興味はないわ、そう言った。そう言ってしまえば何も言ってこなくなった。


 朝早くなので店はどこもまだあまり開いていない。私はただ歩いていた。なんとなくお腹がすいて、近くにあったカフェに入った。出勤時間を少し過ぎているのでお客は少なめだった。私はハムの挟まれたベーグルサンドとカフェラテを注文して窓際に座った。

 何となく外を眺めて行き交う足を見ていた。

 細い足、太い足、綺麗な靴、汚れたスニーカー、膝の曲がった歩き方、モデルのように颯爽(さっそう)と進む足、色々な足が右に左にと通り過ぎていった。どのくらいそうしていたか分からないが、行き交う足の中で立ち止まり、こちらに向かって来る足があった。青いスニーカーにデニム。

 私の前で止まった。顔を上げると其処には男性が立っていた。男性はにっこり笑って手を振った。

 先日店に来たお兄さんだった。


「いやぁ、奇遇(きぐう)だね。今日はお休みかい?」

「午後から」

「そうかい、僕は休みなんだ。予定はある? 少し話しててもいいかい?」


 彼は店に入ってきてそう言った。特に用事もない、どちらでもよかった。


「妹さん、喜んでくれましたか?」


 それは気になっていた。上手くいったのだろうか。


「あぁ、まだなんだ。まだ会ってない。今度のクリスマスイブ。その日に会う予定なんだけどね」

「そうなんですか、喜んでくれるといいですね」

「そうだね、そうだと嬉しい。でも、どうかなぁ」


 複雑な事情があるような言い方をこの間もしていたように思う。だからといって聞いてみようなどとは思わなかった。それぞれの事情がある。話したければ話せばいい、そうでないなら話す必要もない。


「あぁそうだ。名乗っておこう、変質者だと思われたら大変だ。僕は長谷川修一(はせがわしゅういち)

「私は堀北夏芽(ほりきたなつめ)です」

「この近くで画廊(がろう)をやってるんだ。絵とか興味ある?」

「絵、ですか。分かりませんけど、観るのは好きです」

「本当に。今度観においでよ。有名画家のレプリカばっかりだけどね」


 長谷川さんはそう言って笑い。暫く絵の話をした。彼は楽しそうに話をしていて、本当に絵が好きなんだなと思った。



 母は相変わらず、時々外出していた。

 仕事とは違う。きっと男のところだ。隠しているつもりかもしれないが、明らかに嬉しそうにして出て行く。この家に連れ込まないだけまだマシだった。連れ込まれたら直ぐにでも家を出て行ってやると思っている。

 暮らしているのは小さな市営団地だ。2DKの家は二人暮しには上等だろうと思う。部屋を分けて顔を合わせずにいられるのだから文句はない。もし部屋が分かれていなければ、私は狂っていたかもしれない。ただ、妙にすえた臭いのするこの家は、嫌いだった。


 私の部屋は決して女の子らしいとはいえないと思う。ポスターもなく飾りっ気は何もない。唯一飾られているのは、翔子と二人で撮った写真だ。私は笑っていない。そんな私を捕まえて、翔子は満面の笑みだった。これが最初で、最後の写真だった。参考書が所狭しと並ぶ小さな本棚の上。写真はそこにあった。

 今は大学一年で奨学金を貰いながら通っている。母には学費は自分で稼ぐ、そう言ってあった。

 幾度も言い合いを繰り返し、私を論破(ろんぱ)することも出来ずに母はそのうち何も言わなくなった。大学の単位は多く必要だけど、然程(さほど)問題ではない。この世界を飛び出すことに比べれば些細なことだ。フランス語を学んで移住すれば、私は普通に受け容れられるかもしれない、と思ったこともあったが、どこかで冗談じゃない、という気持ちもあった。とりあえず私は最悪日本を離れられるように英語は必死にやった。複数の言語を使えれば、何処の国に行っても通事(つうじ)くらいは出来るはずだった。

 でも、どこかで思う。それが捨てるということになるのだろうか、と。

 違和感の正体は何も分からなかった。



 ある朝、長谷川さんの画廊に行ってみることにした。

 場所の地図は貰ったパンフレットに載っていて、それを頼りに歩いた。ホテル街を抜けるような感じで進むと、ホテルから出てくる人影があった。

 南原さんだった。男と一緒にいる。彼氏だろうか、でもできたという話はしていない。彼女なら、いの一番にしそうなものなのに。だから違うのかもしれない。あの人もまた父のように、母のように、他人に依存し、性欲に溺れるだけの人なのかもしれない。否定の要素は何もなかった。普段からそういうところのある人だ。

 隣にいる男が誰かは知らないけれど、見たことはあった。この辺りは近道で通ることも多いから、時折見た。見かけるということはもっと頻度は高いのかもしれない。いつも違う女性といる人だと常々思っていた。「(けが)らわしい…」私はそんなものを見ないように顔を背けて歩き出した。


 画廊はそう遠くなかった。小さくて驚いたかいと長谷川さんは笑った。

 確かに広さはなく、むしろ狭いといえるかもしれないが、渋谷の土地だと思えばこれでもかなりの家賃はかかっているはずだった。縦長の店の壁には幾つもの絵が並んでいて、見たことのあるものも何点かあった。どれも数万円から数十万円の値がついていた。


「レプリカばかりだけどね。本物なんて国立美術館クラスで買えるはずないからさ、せめて名画をレプリカでも身近に感じて欲しいと思ったんだ。やっぱり写真とは違うし」


 確かに写真とは力強さというか迫力が違った。レプリカでこれならば本物だったらどうなんだろうと思った。有名なゴッホのひまわりがあった。


「今なら本物が上野の国立西洋美術館にあるよ。興味があるなら見に行って見るといい」


 私は思ったよりもずっと興味が湧いたようだった。気がつくと1時間は過ぎていた。長谷川さんは奥のカウンターに座って黙ってこちらを見ていた。


「あ、ごめんなさい。癖で集中すると他が見えなくなっちゃうの」

「いいんだ、気にしないで。あんなに一生懸命観られたら絵も幸せだ。そんな子に会えて僕も嬉しくて仕方がないよ。喜んでもらえて良かった」


 今度は是非本物を見て欲しい、と彼は言ってもそもそと何かを取り出した。それは一枚の大きなポスターだった。


「よかったらお土産にあげるよ。写真だけどね。邪魔かな?」

「ううん、そんなことない。ありがとう」


 ポスターには沢山の絵の写真が散りばめられている。横長のポスターを丸めて、ケースに入れて彼は渡してくれた。それから暫くゴッホの死に隠されたミステリーについて色々話してくれた。消された猫や、自殺には不自然な弾痕(だんこん)や、友人や弟との確執、どれも興味深くて面白かった。


 家に帰ると私は早速ポスターを広げて壁に貼った。閑散とした部屋が急に華やいだ気がした。

 ついでにディフューザーでオイルをたいた。本場のようにフランキンセンスとミルラをたくと、なんだかここが日本ではないような気分になって落ち着いた。今だけは自分の場所だ。そう思えた。


 人間は嫌いだ。彼もその一人になるだろうか。きっとそうなのだろう。でも、話していると何故か落ち着いた。好きとか嫌いとか、そういうのではない。あの人は一度も私のことを外人扱いしなかった。話しても、名乗っても、不思議とありのまま見てくれていた気がする。だからそう思うのかもしれなかった。

 彼だけは違う、などという楽観的な考えはない。きっと彼も同じだ。その上で、他の人間との違いは何なのか、私は気づかなければいけないと思う。そうでなければ私も穢れた者たちと同類になってしまうからだ。


 それだけは――認めない。




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