堀北(18)大学生
私は人間が大嫌いだ。
父も、母も、私の周りに存在する全ての人間が嫌いだ。
誰も彼もが醜く、汚らわしい。外見のことじゃない、心内が汚濁に塗れているのだ。
父は母を捨てフランスに消えた。だからといって母に同情も無い。母は母で男に逃げ場を求めた。
汚らしい。そんなものに関わらずとも二人で協力すれば生きていくことはできる。
だけど母はそうしようとしない。弱いのだ。心が腐っている。
家に居ることが苦痛だった。父も母も変わりはしない。
学校に行けば行ったで阿呆だらけだった。
容姿が違うことで随分と馬鹿にされた。外見が違っても、生まれも育ちも日本だ。日本人でしかない。目に見えたものしか理解できない莫迦にはそれが分からない。
愚か者たちと混じりたくなくて勉強した。成績はトップだった。
周りの連中は、外人は脳から違う、そう言った。
努力しただけだ。容姿で賢くなどならない。あぁ本当に莫迦だ。そう思った。
大学生になっても、そう違いは無かった。やはり周りは莫迦だった。知識じゃない。知恵がない。常識なんていう曖昧なものに囚われたまま考えようともしない。私はこの世界の住人ですらないように思うことさえあった。
思春期を迎えた頃からは尚この世界が嫌になった。
男どもが考えることは一緒で、日本人と外人の身体の違いに興味を示し、下卑た視線を寄越した。成長期に入るとその度合いは増した。
女は女で愚かだった。処女でなくなった、女になったと言い出す者が出てくると、処女であることを恥じ、どうでもいい男と寝る者が後を絶たなくなった。そうした連中は得意げに、思ったより大したことなかったわ、そういって他の者を見下した。見下された連中も無意味な劣等感に襲われ、我先にと男漁りを始めた。私はその様子をただ眺めていた。
浅ましい彼女たちと関わるのを率先してやめた。無価値な共通意識に囚われるくらいなら、一人で自由にしていた方がましだ。私は話をする価値も感じなくなった。周りは、外人だからちょっと違うんだ仕方ないさ、ほっとけ、そう言った。
上等だった。日本人としての誇りも失せた貴様らは、純然たる日本人の私とは人種が違うのだから。
何もかもが穢れ、腐っていた。
この国に漂う腐臭は心の底から耐え難いものだ。どこか遠くへ行きたかった。誰もいない場所。人間のいない場所。そんな場所があるのだろうか?
在るとは思えなかった。
昔から地味な作業をこつこつとこなすことが得意だった。積木を重ねたり、米粒を数えたり、絵や裁縫、それこそ意味の無いことからあることまで多岐にわたって集中できた。他人と関わらない分、そういうものに向き合うのが好きだった。発想力などの感性が養える分、無価値な人間に関わるよりずっと有意義だったと思う。
欠点もあった。私は一つに集中するとそれしか見えなくなった。他のことに気が行かなくなるから失敗も多かった。
ある時、薬缶をかけはなしで本を読み始め、破裂させたことがあった。その時は怪我も無く薬缶が壊れただけだったが一歩間違えば大惨事になっていただろう。それ以来、危険な事柄に携わる場合は他のことをしないようにした。
善く言えば集中力があったと言えないではないけれど、悪く言えば注意力が欠落していると取れた。それでも利点の方が多かったのは間違いない。勉強に関してであれば絶大な効果を発揮していたことは事実だ。だから私はいつだってトップの成績を誇っていた。それをやっかんで嫌がらせをしてくる者たちも少なからずいた。
中学二年になった時だ。あけすけに関わってきた女子がいた。
翔子という名前の不良だった。
日本語を話す外人がいる、そんな噂に興味を持って関わってきた。
この頃には自分が日本人だと周りに訂正するのも諦めた。面倒だったし、莫迦には何度言ったところで分かりはしない。事実、小学校からのクラスメートでさえもまだ私を外人扱いした。フランスの血が流れてるというだけでフランス語が話せると思っている。フランス語だと思うならまだマシで英語の授業になると「卑怯だ」と言う輩までいた。罵る前に自分の不出来を知るべきだと思い続けてきた。言ったところで理解する頭が無いから言わなかった。
翔子とは初めての友達になった。彼女は知識は無かったがまだ知恵はあった。何より常識に囚われなかった。べたべたと仲良くなった訳ではないけれど、唯一の友達と言えたかもしれない。
「おまえ日本人じゃんか。見た目がちげーから最初は面白かったけどさ、普通だよな」
翔子がそう言って無邪気に笑ったのを覚えている。
普通だよな。違うとか変わってるとか、そういう言われ方しかされなかった私が普通? 初めて誰かと笑ったのはこの時が初めてだった。彼女だけが私の中身を見ていた。
不良と付き合ってる。
そう言って周囲は勘違いを上塗りした。目が腐ってるのに色眼鏡をしてものを見る。いよいよこいつらは救いようが無くなったと感じた。
大人も子供も無い、莫迦げた常識に囚われている以上、莫迦でしかないのだ。常識なんてまやかしだ。そうやって自分と他人は一緒だと錯覚しなければ生きていけないほどに脆弱な神経しか持っていないのだ。他人と違うことが怖いのだ、弱いのだ。一人で立てないくらい弱いから、徒党を組んで強くなったように思い込むことでしか立っていられない。そして、一人で立っている強者を恐れ、集団で攻撃しようとする。
うんざりだった。みんな死ねばいい。一人で立てぬなら立たずに野垂れ死ねばいい。
その方がよっぽど潔いのではないだろうか。いずれにせよ、風評など他と関わらねば何の価値も無く、相手にしなければ霧散していくから私にとってはどうでもいいことだった。言いたい奴には言わせておけばよい。
翔子は何かにつけ私に構うようになった。行ったことの無いクラブに連れて行かれたり、彼女の原付に無理矢理乗せられて海に行ったこともある。それなりに楽しんだと言えるかも知れない。
笑うなよ、と語った彼女の夢はネイルアーティストだった。彼女の実験台になったこともあったが、思った以上に技術はあった。これなら本当になるかもしれないと思えた。そう言うと翔子は笑った。
しかし、翔子との関係も長く続きはしなかった。
彼女には彼女の場所があった。不良仲間との繋がりは流石に彼女も捨てることができなかったのだ。翔子もまたコミュニティに縛られていた。世間的な常識。それとは違っていたが、結局は彼女たちの世界なりのルールや常識があり、そこから逸脱すれば同じことだった。器の違いだけで中身は同じ。結局人間のやることには大差が無く、弱いもの同士の傷の舐め合いでしかない。
そんな世界に取り込まれてしまった翔子は、夢を叶えるどころか、集団暴行を受け、死んだ。
高校三年の夏だった。
腐臭だらけのこの国に期待など無かった。耐え抜いて、その内この場所からも離れてみせる。それだけが望みだった。
ある日、道を歩いていて清々しい香りを嗅いだ。花の匂いだというのは分かったけれど、何の花かは分からなかった。香りの先に一軒家の店があった。白い壁。黒っぽい木材の柱。木枠の窓。屋根は弧を描き頂点は天に向かって鋭く伸びている。ヨーロッパの御伽話か何かにでも出てきそうな家。そこから漂ってきているらしかった。
入口の立て黒板には開店記念セールとピンクや黄色のチョークで書かれていた。
アロマショップ『ゼノビア』というお店。
それが最初だった。どこか懐かしい気持ちになったのは身体に流れるフランスの血か、それとも気の迷いか、いずれにしても私は吸い寄せられるようにして店の扉を開いた。この時、扉を開かなければ私は、今の私は無かったのかもしれないとも思う。
「あなた、ここで働きなさいな。うん、それがいいわ」
店内を見ていた私にいきなり女性はそう言った。私は初め何のことか分からずにいた。辺りを見回したが誰もいない。私に言っているのだと分かったとき、大いに戸惑った。戸惑わない方がおかしい。私は一言も話していないし、働きたいとも思っていなかった、キラキラと目を輝かせていたわけでも、楽しげにオイルを嗅いでいたわけでもなかったのだ。バイトの面接にでも来ていたのならともかく、店内を見ていただけで即決合格を言い渡されて納得できるものが普通はいるだろうか? いない。にもかかわらず、私はハイと答えたのだった。
どうしてそう答えたのか、未だによく分からない。
多分。『普通は』そういうものの考え方に逆らおうとしたのだろうと思う。
普通という言葉に足を引かれそうになって、きっと私は拒絶したのだ。そして成り行きではあったが私はこの店で働くことになった。
業務は接客販売が主で、アルバイトがすることと言えば商品の陳列、整理。バックにあるオイルや無水エタノールなどの基材管理などだった。細かいことは社員が行う。
私は癖が出て幾度か怒られた。前店長や真東さんに怒られたことは数え切れない。
それでも集中する癖は直らなかった。たくさんのオイルを見ていると、つい眺めてしまった。申し訳ないとは思いつつ、それでもいけなかった。表での陳列ならまだお客の存在で気付くこともできたが、裏に入るともういけない。なのでなるべくは表に出るように心掛けてはいた。
意外なことにオーナーはそれでいい、と言った。暫くして店長が変わり、それまではバイトを仕切っていた西島さんが社員になり、店長になった。怒られる頻度は減った。それは別に失敗が減ったというわけでもなかった。
西島さんは怒らない。ということでもないのだけど、それに近いところがあった。
それは仕事にいい加減だということではなく、むしろ前店長よりも厳しいと思えた。しかし効率という一点においては完璧で、一分の隙も存在しなかった。
有能、なのだと思う。ただ、西島さんには常々どこか異質なものも感じていた。人間らしさ、といったものが余り感じられなかったのだ。一般の人たちに在るような、生臭さとでもいうか、有機的な印象というか、そんなものが無かった。まるで機械だとでもいう物言いではあるが、それは逆に私にとっては接しやすかった。だからといって話すことが多かったということもない。本当のところはどうか知らないが、あまり周囲に関心が無かったようにも思う。だからか南原さんは西島さんのことが苦手だと言っていた。しかし私に言わせれば南原さんの方がよっぽど苦手だった。女の子らしいファッションや芸能人やワイドショー、どれ一つまともに話せなかった。興味が無かったのだ。だからといって哲学的な話を振れば振ったで今度は彼女がついてこられなかった。
真東さんはきっと、私のことが嫌いだ。それもどうでもいいことである。小言は多かったが間違いということでもなかった。仕事の上の付き合いにそれ以上を求めることなどそもそも意味が無いと思っていたから別にそれでよかった。
特別に西島さんが付き合いやすいということでもなかったが、それでもこの店では接していて一番気楽だった。
精油は好きだ。花の香りを凝縮している。たった一滴が数トンの草花から抽出される。散漫としていたものが一つになって形を成す。その膨大な労力で生み出されるたった一滴。まるで宝石のようにも思えた。そんなオイルが店には沢山並んでいる。店内にも日ごとに変えて香りを流す。
店に来ると不思議と落ち着くようになっていた。腐臭漂う街で、いや、人生で、この場所だけが安らぎを感じさせてくれた。
それでも、この店の人間には興味が無かった。目立たぬだけで結局は穢れているのだ。突き詰めれば皆同じ、私だけがどこかずれて生きている。
この容姿が一因ではあるけれど、結局は同じことだったのではないかとも思う。おかしいのは自分か。世界か。どちらでもいい。
私は今を耐え、私を取り巻く世界を捨てるのだ。