真東(25)調香師
僕は素人童貞だ。
それには理由がある。
僕は決してイケメンではないけど昔からモテる。
それはきっと性格的なものだろう。女性に接するにあたり緊張など欠片もないし、女の子に対して何も求めないから責めたりもしない。笑って頷いていれば大抵の女の子は安心し、信頼してくれる。たったそれだけのことだ。それだけで女の子はいくらでも寄ってくる。
だけどもそれはそれ。
付き合う気持ちにも、セックスする気にもならない。本当のセックスは本当に好きになった人だけでいい。でも、その相手はまだ見つかっていない。
だから僕はお金を払って、遊戯的に性欲を満たしている。風俗ならば余計なしがらみはないし時間も決まっている。妊娠などのリスクも無い。高級なゲーセンのようなものだ。自由にどうとでも出来るからストレスも無い。当たり外れはあるけど、それは運試しのゲームだと思えばいい。可愛いから具合がいいわけでもないし、ブスだからといって下手ということでもない。見た目はさほど問題じゃない。性欲というものを消化できればそれでいい。だからこれは本当のセックスじゃない。
女の身体はいい。温かいし柔らかい。その身体と重なり合っているときは落ち着く。それには多少の肉付きがあるほうがいい。世の中ではモデルのような細い女性が注目を浴びているが、実用的ではないと思う。
男同士で話すと概ね共感される。
共感しない奴には童貞が多い。
女を抱いたことが無いから変な妄想で頭の中がいっぱいだ。それが悪いとは言わないけど、現実はもっと汚らしく、つまらないものだと知った時の落胆を思えば彼らが可哀想でもある。期待など捨ててしまえと言ってあげたいが、結局は本人次第なので言わない。気持ちの問題もあるからだ。本人が最高だ、と思えればそれは最高なのだ。僕が追い求めている最高の相手なら、きっと排泄的な僕の擬似セックスも最高のものへと昇華するに違いない。僕の夢ともいえるだろう。
僕にとっての『最高の女性』とは何かをよく考える。
見た目じゃないのは間違いない。性格とか気が合うとかもどうでもいい。そんなもの合う方がどうかしてる。人間は別物なんだから。
答えはきっと匂いだ。その身体から発する匂いが至高のものなら、香水などの作り物ではない匂い、それを漂わせる女性こそがその相手だと思う。
そんな匂いを嗅ぎながらならばきっと最高のセックスだってできるはずだ。
それまで僕は素人童貞でいるつもりだ。
それ以外の排泄行為はそういう場所ですればいいのだから。
僕が「ゼノビア」で働くことになったのは、オーナーと出会ったからだ。
初めて会ったあの時、僕はまだ二十歳だった。香り漂うフランスの町グラース。勉強のため見学に行った工房で会ったのが最初だ。今オーナーはそのグラースに行っている。
グラースは南仏の街だ。なだらかな丘陵の続く丘の中腹にある。年間の平均気温は十四℃と温暖な気候で水も豊富、水捌けも良い土地ということもあり栽培には適している。
十二世紀に皮なめしが発展した。発展した反面、当時は革の臭いがかなり臭かったらしい、その臭いを少しでもごまかす為に香料を付けた。消臭の為の香料を栽培して作り出すうちに革製品ではなく香料そのものを作る事に力を入れる者がでてきて広がり、グラースは革の街から香水の街へと移り変わっていった。今では街中に工房の煙突が立ち、そこから香りを漂わせている。
街全体が何ともいえない香りを発していて心地よい。こんなすばらしい街はそうそう無いと思う。でも、そんな街でさえ万事が上手くいっているわけではない。
今は香料を得る為の畑が減少してきている。合成香料が発達してきたからだ。
合成香料は化学的に香りの成分を抽出して合成したものだ。成分内容が全て分かるので安全性が高く、品質も安定する。且つ安価とくれば天然香料はそのマーケットを奪われるのは必然。天然香料は生産地や環境によって品質が変わるから、量も質も常に一定という訳にもゆかず、そうなれば価格も変動する。
ワインのようなものだと思えば分かりやすいだろうか。製造年や保存状態、土地も違えば味も違うのと同じことだ。だからこそ、天然香料は品質そのもので言えば合成香料とは比べ物にならない高品質なものでもある。香りの効果が生きるのも天然香料の強みでもある。
嗅覚は五感の中でも最も早くに発達したので、原始的な感覚と呼ばれている。
視覚や聴覚などが大脳新皮質を経由し大脳辺縁系に伝わるのに対し、嗅覚は直接奥深くの大脳辺縁系へと伝わり大脳新皮質へと伝わる。そのために直接身体の調節に作用し、この働きを利用したものがアロマテラピーだ。
天然のオイルはこの作用が顕著に見られるのだけれど、医学的な検証がまだ足りないために注目度は低い。それでも近年はその効果が認められつつあるのは確かだ。
そういった事柄にも惹かれて僕は調香師になった。
匂いの持つ秘められた力に魅了された。
そして大学時代にアルバイトで貯めたお金でグラースを目指し、そこでオーナーに出会った。
オーナーは日本人にしては妙に開けっ広げた性格の女性と思う。
そのバイタリティには圧倒されっぱなしで、とても真似できない。同じ日本人だからという理由だけで滞在している間は引きずりまわされた。シャラボーやガリマールといった工房などを一日中回ったりもした。のみならず街中の土産屋にまで見つければ飛び込み、オイルや香水を嗅いで回った。鼻が馬鹿になるかと思ったほどだった。それでもいい思い出だったと思う。
それから三年ほどして急に連絡があった。
店を開くから働いてみないか、そう言われて二つ返事で受けた。あの人となら面白い仕事が出来ると思ったからだった。そして去年、『ゼノビア』はオープンした。敢えては言わないけれど、オープンまではかなり大変だった。それを辛い顔一つ出さなかったオーナーはすごい人だと思った。調香の腕も鼻も、僕は何一つとしてオーナーには及ばないのはショックだったが、それでこそ仕事にもやりがいがあった。そしてオープン初日に泣いたのはオーナーではなく僕だった。オーナーはそんな僕をみて指差して爆笑していた。
半年位して店長が変わった。もしかしたら僕かもしれないと内心ひやひやしていた。なぜなら僕は実務的な作業が死ぬほど苦手で、とてもじゃないが店長など出来る自信が無かった。責任感もない。そんな気持が見透かされていたのか、店長になったのは当時バイトだった西島さんだった。
西島さんは社員へと昇格してあっという間に店の運営に妨げとなっていた点を改善した。
前の店長にはそこまでの意欲や実力もなかったという事だと思った。反面、西島さんもまたそれまではアルバイトとしてのレベルの仕事をしていたという事だろう。それくらいあっという間に店のシステムが変わった。納品や管理、店舗の装飾や演出、裏庭の雑草抜きに至るまできっちりとルールを作った。恐ろしく完璧主義的な印象だったけれど、全てに筋は通っていたから誰も文句など言わなかった。
西島さんは冷たい印象だとバイトの女の子は言う。僕はそうは思わなかった。確かに言い難いことをハッキリ言ったりするから厳しい印象はある。男女の区別もないから余計に女子はそう思うんだろう。僕は嫌いじゃない。オーナーは思惑通りという顔をしているし、実際能力は高い。実務能力もそうだけど、取ってこいといわれてあっさりと資格を取ってくる辺りは尊敬に値する。
確かに本当は何を考えているのか分からないようなところもあるが、それこそ他人には関係のない話だということに気づくにはまだ彼女達は若すぎるのかもしれない。年齢のことは僕も言えないけれど、男同士だから理解できることもある。何よりも、ヒステリックだった前の店長よりもずっと今の方が集中して仕事ができるようになった。
それに、前の店長の臭いは嫌いだった。
ある日、西島さんが困り顔で言った。普段はあまり表情を変えないので意外だった。
「どうしたんですか? そんな顔して」
「オーナーが演出を受けた。なんでも知人の演劇の舞台演出の一環で実験的にやる、ということらしい」
「はぁ、それっていつですか?」
「来週頭から一週間らしい」
「頭って、三日後じゃないですか。いきなりすぎでしょう」
舞台に使用するのに準備期間三日は厳しい。香りの伝達範囲や空調による流れなどの確認事項はことのほか多い。
「先方としてはあくまで舞台は舞台で普通にやるから試しにやってみよう。くらいの軽いノリだそうだ」
「それならいいじゃないですか。失敗してもいいんでしょ、最悪」
「そうもいかないだろう、やるからには結果は出しておきたい。認知度を上げるチャンスでもあるし」
西島さんはその辺が固い。完璧主義が出るのだと思う。
「まぁ話は分かりましたけど、オイルとかはどうするんです? クライアントと相談ですか? だったら僕が行かないといけないのかな」
西島さんがまた少し難しい顔をした。
「それなんだけど、オイルは桜らしい。ラストシーンの桜並木のシーンで流したいんだそうだ」
「それなら作り置きの流すだけじゃないですか。なんで困ってるんですか?」
「オーナーが、この件は全部俺がやるようにと言ってきた」
「あぁそれで」
この手のものは大体僕かオーナー自身で行うのが普通だった。経験のない西島さんは不安なんだろう。きっとオーナーは失敗してもいいから経験させようという腹積もりなんだ。確かに今回の場合は練習としては最適といえる。
「いいじゃないですか、練習ですよ。気軽に行きましょ、分からないことは相談に乗りますから」
「助かる。それじゃあ俺はこれから現場に行ってクライアントと話してくるから、店よろしくな」
そう言ってコートを羽織って出て行った。オイルの保管庫に行き、桜を確認した。そんなに多くないが間に合うだろう。桜は製油が取れないから近いものをブレンドするしかない。
今回の試みは多分失敗するだろう。
空調や空間の広さ、収容人数、様々な要因で変化がある。それを見極めるには経験が必須だからだ。西島さんが落ち込んでいたら元気つけてあげようと思った。有能な西島さんには多分こんな機会はそうそうないと思うからだった。
だが予想は大きく外れた。
西島さんは独自で完璧に実行した挙句、クライアントからも絶賛された。
演出そのものは経験がなくても、積み重ねてきたものが違ったのかもしれない。あまつさえ独自にオイルに手を加えて新たな香りを作っていた。
これは脅威だった。西島さんは決して鼻が利く方じゃない。匂いの判別も苦手だし、利きオイルともなると正解率は低かった。
ところが後に分かったことだけど、西島さんは直感力がずば抜けていた。
『何となく』でとんでもないものを作り出す。
仕事とした時には不安定この上ないけれど、表現者としては驚異的な才能だった。
この能力には流石に嫉妬を覚えた。しかもこのセンスは匂いだけではなく、様々な場所で発揮されていた。センスの塊のような人だと気づいた時、オーナーに次いで生涯二度目の敗北を感じた。
調香師としての能力は僕の方が上だけれど、それだけでは上にはいけない。
西島さんの力は僕にないものだった。だからといって、その力だけでも上にはいけないのだから結局はバランスなんだけれども…。
後日、オーナーと話した結果、西島さんの作ったオイルは限定数の販売が決定した。