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神々の宴(という名の作戦会議?)

二話更新してます。


 クリスマスシーズンだけの短期のバイト経験はある。


 飲食のチェーン店でのバイトだ。


 どうしても欲しい物があって、両親に言うと『社会経験にもなるから』と許可してくれた。


 バイト初日に、ウェイトレスではなく、ウェイターの格好でやらせてくれと頼み込むと、店長はその方が客が入りそうだからと快く了承してくれた。


(懐かしい)


 類は遠い目をしてその時のことを思い出す。


 思った以上に客の入りが良かったらしく、その後も続けてくれと言われたが、部活もあるので断った。しかし良い経験になったのは間違いない。


 高級感のある生地で作られたウェイターの服を着た類は、大神殿の中のもっとも厳かに飾られた部屋にいた。


 今は『神々の宴』、当日の昼前。


 『客』はまだ一人も来ていない。


(『テーブル担当』って言われたけど、テーブルないじゃん)


 類のいる部屋には、五つのベッドのようにでかく奥行きのある天蓋付きのソファが等間隔で円形に並べられていて、それぞれのソファの前に座ったまま手が届く大きさの小さな台が置いてあるだけだ。


 類は全員で大きなテーブルを囲むスタイルを想像していたので、こういうタイプもあるんだなと驚いた。


 部屋の扉の脇には各種飲み物が取り揃えられている。料理は少し離れた厨房まで取りに行かなければならない。神殿に厨房があるのも驚きだが、どうやら人間界の神殿とは使い道が違うようだ。


(何で皇帝たちの部屋担当が私一人なんだよ)


 他の隊員は大広間で皇帝以外の神々をもてなすらしい。全員来ればの話だが、天上界には相当な数の神がいるらしいので、仕方ないかと息をつく。


 『力を持つ自己中』が相当数いるとは、天上界も大変だなと思ってしまう。それを纏めるのはなかなかの大仕事だろう。


(それをやってるのが雷帝なんだよね)


 散々偉そうなことを言っておいてなんだが、前よりは少し事情が分かって雷帝に対する見方はちょっとだけ変わった。

 何も知らないただの女官に偉そうなことを言われたらそりゃ腹立つよねと思う。


 しかし後宮の女たちに対する扱いだけは間違っていると確信出来る。


 類は雷帝に認められたら、それだけは物申すと決めている。




 外から話し声が聞こえる。誰か来たようだ。ガチャリと扉が開く。


 姿を現したのは雷帝とオスカとヴァリスだった。

 

「あら、ルイ。似合ってるじゃない。ここは任せたわよ」

「は、はい」


 ヴァリスはそれだけ言って部屋を出て行った。忙しいのだろう。

 雷帝は類を一瞥したが、何も言わずにソファの一つへ向かい、どかっと腰掛けた。そのまま肩肘をついて寝そべる。


 ソファの脇にオスカが立つ。


 側近は毒見役も兼ねていると聞いた。各皇帝につき、一人は側近が同席するらしい。


(手伝ってはもらえないんだろうな)


 類はオスカをチラリと見る。いつも無表情で何を考えているのか分からない雷帝の側近。しかし真面目であることは行動を見ていて分かる。常に雷帝のサポートに回っていてよく気が利くイメージだ。


「雷帝。お飲み物は何にいたしますか?」


 オスカが聞く。


(しまった。先を越された)


 類は慌てて飲み物の台に置いてあるメニューを雷帝の元へ持って行った。


 雷帝はそれをチラリと一瞥する。


「何でもいい。適当に酒を持って来い」

「は、はい」


 『何でもいい』というのが一番困るのだが。

 類はメニューをオスカに渡して台へ向かう。ハイボールを作り持っていく。雷帝は無言でそれを受け取り飲まずに台に置いた。


(もう少しキツイお酒の方が良かったのかな? でも今から会議をするって言うし、あんまりキツイのを飲むと良くないかなと思ったんだけど)


 手を付けられなかったことを少し気にしていると、オスカが小さなコップを取りに来て、それに雷帝の前に置かれたハイボールを少しだけ入れる。そして一気に飲み干した。


(あ、毒見か)


「大丈夫です」


 オスカが言うと、雷帝はハイボールの入ったグラスを持ち、寝そべったまま一気に全て飲み干した。


 ギョッとしてそれを見る類。


 結構な量が入っていたのでまさか一気飲みするとは思わなかった。


「おい、次だ。トロトロするな」

「え? あ、はい」


 慌てて新しいグラスに再びハイボールを作って持っていくと、同じ手順でまたすぐにグラスは空になった。


「トロい! いちいち言わせるな」

「は、はい!」


 それを何度か繰り返し、他の皇帝が来る前に類はすでに精神的に疲れていた。


(これはイジメだ。パワハラだ)


 絶対わざとやってると類は確信する。最大限早く動いているつもりだが、何をどうやっても罵倒される。ハイボールばかり作っても駄目だし、他のものを出すと『薄い』だの『濃い』だの『出すのが遅い』だのいちいちキツい口調で注文をつけてくる。


 そのうちに各国の皇帝と側近たちが続々と部屋へ入ってきた。


(これを全て一人で捌くのは至難の業だ)


 応援を頼もうかと思ったが、それを伝える相手もいない。


 類は覚悟を決める。


(日本人をナメるなよ!!)


 持参したメモとペンを取り出し、順番に注文を聞く。料理の注文も入ったので、一通り飲み物を出すと、厨房まで料理を通し出来上がった順に部屋まで持っていく。一度に皿を三枚重ねて、ドアノブを肘で下げ体で扉を開けると、テキパキと各小テーブルへ置く。カトラリーとナプキンも忘れない。


「なかなかよく動ける小姓ですな。私のところに欲しい」

「ええ。本当に。容姿も神並みに麗しい。どこで見つけてきたのですか? 雷帝」


 皇帝たちが口々に類を褒める。しかし雷帝は表情を変えずに辛辣に言い放つ。


「ただの小間使いなんだから動けて当然だ。それしか能がない」

「相変わらず手厳しいですな」


 うふふっ、あははっとソファに寝そべりながら笑う皇帝たちを尻目に類は(くそっ)と下唇を噛む。


 勢い良く部屋を出て、残りの料理を取りに厨房へ向かう。


 その途中、通路の端からいきなり手が伸びてきて、体を引き寄せられた。細い通路に連れ込まれる。


(何っ!?)


 必死でもがくが逃れられない。


 足の間から赤い三つ編みが見えた。


「ペレ!?」

「ルイの姿が見えないから探したよ。僕のところへ来てよ」

「勝手なこと言わないでよ! 仕事中だから行かないと!」

「いいじゃ〜ん、他の奴にやらせれば」

「駄目だよ! てか離してよ!」

「嫌。僕のところに来るって言ってくれないと離さない」

「もう! 自己中! 早く戻らないと怒られるんだから!」

「誰に怒られるの? ルイにそんなこと言う奴は僕が捻り潰してあげるよ」


 物騒なことを言いながら、ペレは類の体を包む手に力をこめる。


(やばい。本当に怒られる!)


 類は逃れられない絶望感から泣きそうになる。小間使いの仕事くらい完璧にやらなければ、雷帝に認められるなど夢のまた夢だ。




「おい。俺の小間使いを盗むな」


 不意に声が聞こえて、正面を見ると雷帝が立っていた。ペレの手にさらに力がこもる。背後から上半身を包み込むように抱き竦められていて、全く身動きが取れない。結構痛い。


「····ユリウスのじゃないでしょ〜? いらないって言ったじゃん」


 ペレは少しだけいつもより低い声で言った。


「“今は”小間使いとして必要という意味だ」

「他にもいるでしょ? ルイじゃなくても。僕はルイじゃないと嫌なんだから譲ってよ」

「駄目だ」

「なんで? じゃあ僕も『駄目』。譲らない」


 ピリッと空気が張り詰めた気がして、類の背筋は冷えた。


「体が密着してるから腕輪も発動出来ないね。ルイの足も潰れちゃうもんね。こういう手があったか〜」


 くくくっとペレは笑う。


「いいかげんにしろ。お前のための宴じゃない」

「別に宴全体を潰そうとしてるわけじゃないじゃん。ルイだけ譲ってくれればいいだけなんだから。簡単でしょ? それが叶わないなら全体的に潰しちゃってもいいんだよ?」


 そろそろ雷帝がキレそうだと類はヒヤヒヤするが、ペレもなかなか譲りそうにない。


 はあと溜息をついて口を開く。自分が言ってもどうにもならないかも知れないが、言えるだけのことは言っておきたい。


「もう、いいかげんにしてよ。一生懸命やってるのに邪魔しないでよ。ちゃんと最後までやらせて」


 ペレの顔は見えないが、出来る限り体を捻ってそちらに向けて言う。


「怒られてまでやらなくていいよ。本来の仕事じゃないじゃん」

「私がちゃんとやりたいの! 完遂しないと今までやってたことも全部台無しじゃんか!」

「····本当にやりたいの?」

「本当にやりたいの! だから邪魔しないで!」


 顔は見えなくても、不満そうな表情をしていることは想像出来る。手はまだ離れない。


「····じゃあ、終わったら必ず僕のところへ来るって約束してくれる?」

「······分かった。終わったらね」


 嫌だが、ここで面倒なことになるよりはマシだ。

 もっとごねるかと思ったが、意外にもあっさりと引き下がり手を離したので、類は思わず振り返ってペレの顔を見た。


 不満そうに口を尖らせているその表情が、何となくヘルガの表情と重なった気がした。


 一連のやり取りを見ていた雷帝も、意外にも何も言わずに踵を返し去って行った。


(私にはすぐキレる癖に、ペレには結構我慢強い気がする。やっぱり戦力になるから?)



 解放された類は急いで厨房へ向かう。料理を受け取っていると、ルーカスがやってきた。


「おう、順調か?」

「あ、うん。そっちも?」

「ああ。ワガママな神が多くて困るけどな」

「····同じく」


 ハハッと笑うと、少し疲れも癒やされた。最後まで頑張ろうと思い、気合いを入れる。


 料理を持って、ペレと別れた通路を通ったがペレの姿はもう見当たらなかった。


 扉を開け、部屋へ入る。


「····地国の住民は混乱しています。一刻も早く手を打たねば。このままではオルムの手に落ちてしまうのも時間の問題です」


 何やら深刻な話をしているような雰囲気。


 類は料理を持ったまま、今話している地国の皇帝の前へ持って行くかどうか悩む。地国の皇帝は鼻下に茶色い髭をたくわえ、ダンディだが少し気弱そうに見える。


 するとルイに向かって手を挙げた人物がいたのでそちらに目を向ける。


 水国の皇帝だ。


 雷国の皇帝が雷帝なら、水帝というのだろうか。穏やかそうな美しい顔をして、水色の長いウェーブヘアをシルバーのバンダナでまとめた男性。見た目は二十代半ばくらいに見える。


 近づくと、ハイボールを注文された。そして、今深刻そうな話をしている隣の地国の皇帝の料理をここへ置けと、自身のソファ前の小テーブルを指差す。

 「はい」と言って、そこに料理を置き、ハイボールを作りに行く。


(気を利かせてくれたのかな?)


 皇帝の中にもそういう人(神?)がいるんだなと少し驚いた。ワガママな神ばかりだと思っていたから。

 

「我が国にもおそらく大量の間者が潜んでいて、全て一掃するのはもはや不可能です。入り口を塞ぐのが遅すぎたようです」


 そう話すのはオレンジ色のモジャモジャヘアがマリモのように頭に乗っかった、炎国の皇帝。


 間者は冥界から流れてくる者に紛れて入り込んだ者と、その者の血を引いた天上界で生まれた者なのだという。つまりかなり前からオルムは準備していたということだ。


 類は入界管理局を思い出す。天上界へ入ってすぐに見えた白亜の建物だ。


(確かにあんなザルじゃ入り放題だよね)


 職員らしきやる気のない男の顔が浮かぶ。実際自分も人間界から入ったし、ペレが見せた書類に細工してあったのか、男が見逃したのか知らないが、侵入するのは簡単だろう。ペレは冥界の王の父親だと言うし、書類も準備してもらったのかもしれないが。


(冥界の王は雷帝の下僕と聞いたけど、実際どちらの味方か分からないってことなのかな。母親が違ったとしても、オルムとも兄妹ってことになるんだもんね)


 一瞬ぼうっと考えてしまって、雷帝にじろりと睨まれハッとする。


(しまった、仕事仕事!)


 雷帝のグラスが空になっているのでカクテルを作り持っていく。その後溜まってきた空のグラスを厨房へ返しに行く。これはほぼ雷帝の酒のグラスだ。


 注文は大分落ち着いてきた。雷帝の酒にのみ気を配れば良さそうだ。それにしても雷帝はどれだけ酒に強いのか。顔色も変わらないし、飲む意味あるのか? と思ってしまう。

 

 部屋に戻ると案の定、雷帝のグラスは空になっていた。今度はウイスキーをロックで入れてみる。

 そしてそれをまた一気に飲み干されて唖然とする。

 

 どのくらいの時間が経過したのか、バタバタと動き続けていると、やがて皇帝たちが席を立った。大広間にいる神々の元へ行くようだ。


「大広間で雷帝が神々に演説されてから解散になるので片付けていい。酒と新しいグラスのみ残しておいてくれ」


 去り際にオスカがそう言ってくれたので、一人片付けにかかる。

 酒とグラスを残しておくって、この後打ち上げでもするのかな? と疑問に思いながら食器やグラスを片付け拭き掃除をする。


(よし、完璧!)


 しばらく掃除に専念した後、ピカピカになった部屋を見て、類は一人満足げに頷く。


 突然ガチャリと扉が開き、ヴァリスが顔を出した。


「あら、掃除は清掃員がするから良かったのに。宴は終わったわ。お疲れさま。あなたの評判は上々だったわよ」


 ヴァリスはニコリと満足そうに微笑んだ。


(やり切った)


 ヴァリスが行った後、類は気が抜けたように、ふうと息をついて壁にもたれかかった。類は体力がある方だが、精神的なものもあってさすがに疲れを感じる。


 しかし何とも言えない充実感もある。仕事中は余裕がなくて考えられなかったが、今思えば雷帝は『小間使い』としては自分を認めてくれていたのではと思う。

 何も出来ない『ただの女』から、『小間使い』に昇格したと考えれば一歩前進だ。


(ペレに捕まった時、わざわざ来てくれたし。偶然かもしれないけど)


 そういえば、ペレの元へ行かなければならないんだったと思い出す。


 はぁと溜息をつき、重い体を壁から離す。


 その時、ガチャリと再び扉が開いた。中へ入ってきた人物を見て思わずヒヤリとする。


 長い金髪を揺らし部屋へ入ってきた雷帝は、チラリと類を一瞥してから自身のソファにどかっと足を組んで腰掛けた。


 類はそれを立ち尽くしたまま呆然と見る。


「ペレも呼んだ。酒を出せ」


(え?)


 まさかこの後も働かせるつもりなのか。やっと終わったと思っていたのに、と絶望感が押し寄せる。


 またもや扉がガチャリと開く。


「ユリウス〜、僕とルイを二人きりにさせない気?」


 やはりペレだった。


 これからこの二人を相手にもてなせということか。


「お前とは話さなければならない。まあ飲め」


 そう言って雷帝は類に向かってクイッと首を動かす。


(うう····嫌だけど仕方ない。ここで断ったら今日のことも全部白紙に戻されそうだし)


 渋々二人分のカクテルを作る。


「あれがいい。最初に出てきたやつだ」


 カクテルを作り終わったところで雷帝が言う。ハイボールのことか。


(先に言ってよ〜!)


 泣きそうになりながら再びハイボールを作る。


「僕は最初のでいいよ。ユリウス、あんまりルイを虐めないでくれる?」


 ペレの言葉を優しく感じてしまうとは。不覚。


 雷帝はふんっと鼻を鳴らす。


 先に雷帝の方へハイボールを持って行く。が、突き返された。


 頭にハテナを浮かべていると、


「お前が毒見しろ」


と言われる。オスカの姿が見えないので毒見役がいないのだ。


「い、いえ、私は全く飲めないんです」


 両手を胸の前で必死に振る。するとペレが口を挟む。


「僕がしようか? 僕はルイの作ってくれたお酒で死ぬなら本望だよ」


 恥ずかしげもなくよくそういうセリフを吐けるなと、逆にこちらの方が恥ずかしくなる。そういえば、ヘルガはシルヴァ邸でも毒見していたなと思い出す。警戒心がないのか。


 雷帝はしばらくじっと類を見て、いきなりグラスに口をつけ一気にハイボールを飲み干した。


「えっ!?」


 毒見なしに酒を飲んだところを初めて見たので驚いた。


「次だ。同じやつを持って来い」

「は、はい」


 一体どれだけ飲むのか。胃袋がどうなっているのか少し心配になってしまう。神なので急性アルコール中毒にはならないのだろうか。


 他の皇帝が座っていたソファに腰掛けるペレの前にカクテルを持って行ってから、ハイボールを作っていると、ペレの声が聞こえる。


「バニーじゃなくてもいいからさぁ、女の子の格好してよ。人間界にあるお店みたいに、綺麗な服着て隣に座ってお喋りするやつやって欲しいなぁ」


 キャバクラのことか。類はよく知らないが、たぶんそうだろうと思う。ペレは人間界のことをよく知っているようだ。


「絶対嫌」


 振り向かずに無表情で突っぱねる。


 女の格好を二度とするつもりはない。


「ユリウスも見たいよね? お目通りの時見惚れてたし」


 それを聞いて余計なことを言うなと叫びそうになった。あの時のことを引きずって床に這いつくばって謝罪させられそうになったり、無視やパワハラを受けたりしているんだから。

 せっかく雷帝に小間使いとして認められつつあるのにあれを再び思い出されたら台無しだ。


 怖くて振り向くことが出来ない。ハイボールはもう出来ているが、グラスを握りしめたまま、類は立ち尽くす。


「····女の格好をする必要はない」


 雷帝がボソリと言った言葉は、苛ついているわけではなさそうだった。

 ひとまずほっとして、ハイボールのグラスを持ち上げる。

 恐る恐る顔色を伺いながらそれを持って行くと、バチッと目が合った。


 じっと顔を見られている気がして、急に居心地が悪くなる。グラスを渡す時に手が触れて、少し早めに手を離してしまい、しまったと思った時には遅かった。ハイボールの入ったグラスはスローモーションのように、中身をぶち撒けながら地面に向かって下降する。


 同時に類の顔はみるみる青ざめる。ガチャンと大きな音を立ててグラスの割れる音がして、終わったと思った。


(こ、殺される!)


 立ち尽くしたまま、動くことが出来ない。早く処理しなければならないのに、体が動かない。雷帝の顔を見れない。足に痛みが走った気がしたが気にしていられない。


「ルイ! 大丈夫!?」


 ペレが駆け寄ってくる。


「怪我してるじゃん! 僕が治してあげるよ」


 ペレに抱き上げられそうになって、少し正気に戻る。


「いい! 大丈夫だから!」


 抵抗しながら下を見て、ズボンも濡れてしまっていることに気付いた。一部が破れて血が滲んでいる。もろ足元に落としてしまったようだ。

 今日の成果はなくなった。振り出しに戻った。泣きそうになりながら項垂れていると、突然ぐいっと腕を引かれた。


 気づくと雷帝の座るソファに座らされていた。


 「脚を見せろ」と言われて、は? となる。呆然としていると、勝手に片方の足をソファの上に持ち上げられて、ズボンを膝まで捲くりあげられた。


「なっ!」


 驚きすぎて抵抗すら出来なかった。ソファに片膝を上げた姿勢のまま、類は硬直する。


「あ! ズルい〜! 僕が治したかったのに!」

「お前は能力を使えないだろ」

「あ、そうだった」


 二人の会話が遠くに聞こえる。類の全神経は雷帝に掴まれた脚に集中している。ふくらはぎの裏を掴まれ、切り傷のついた表面にもう一つの手が触れる。どうすればいいのか、じっとしていればいいのか、頭が混乱する。


 というか何故雷帝は傷を治そうとしているのか。ただの小間使いの傷を皇帝が治すのか? グラスを割ったことを怒っていないということなのか。それなら良かったが、この状況を正確に分析することが出来ない。脚に触れる雷帝の手が温かくて居心地が悪くてむず痒くて早くこの場を去りたいという欲求が急激に頭を占拠する。


(な、長い! 早くして! もう無理耐えられない!!)


 傷を治してもらっておいて何とも無礼だとは分かっているが、早くこの場を離れたくて体がプルプル震える。

 こんなに近い距離に雷帝の姿があるのにも違和感と居心地の悪さを感じる。


 やがて雷帝は手を離し、捲くり上げたズボンの裾を下ろした。

 痛みは完全になくなっていて、濡れていたズボンは乾いていた。


(すごい····)


 こんなことも出来るのかと驚きながらも、慌ててソファから勢いよく立ち上がる。


「あ、あ、ありがとうございました! 床を片付けます!」


と言って足元を見ると、何もなかった。


「あ、あれ?」

「ユリウスが片付けたよ」


 ペレが台の上に置いてある空のグラスを指差す。


(え? もしかして元に戻したの?)


 溢れたはずのハイボールも跡形もなくなっていた。


 ポカンとして、床を見る。こんなことが出来るなら清掃員などいらないじゃないかとふと思った。


「もう戻っていい」


 片手を払うようにして雷帝に言われる。


 ドキッとした。


(え? それは用済みということ? ····粗相したから?)


 表情が強張ってくるのを感じる。やはり不合格なのか。涙ぐみそうなのを必死で堪える。



「小間使いとしては使えることが分かった。偵察隊の仕事に励め」


 よく通る低い声でそう言われて、その言葉を頭に浸透させる。意味を理解した途端、急速に自身の中に込み上げてくる熱いものを感じた。


(認められた!)


 何とも言えなく、嬉しいという言葉では言い表せないほど、気持ちが溢れる。

 偵察隊に入ってから今までの努力も、今日の働きも、全てを肯定されたような気がした。


 自然と込み上げる安堵の笑みを、抑えることなど出来なかった。



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