お嬢様はお菓子を愛し、
お菓子が好きだと言うアンに、みんなは決まってお菓子をくれた。
母は愛人との逢瀬の後に。
父は面倒事を押し付ける時。
いつの間にか親に決められていた婚約者は手土産に。
「アンのために用意したんだ。お菓子、好きでしょう」
みんなの言うそれに「うん、好きよ」と笑うのがアンの役目。
父にとっても母にとっても、自分は幼い頃から、都合の良い駒だった。
都合の良い時は利用され、都合が悪くなれば手のひらを返される。
そして、婚約者も例外ではなかったのだと今直面している。
友人と二人、話しているのを聞いてしまった。
「アン嬢ってお菓子渡せば喜ぶから楽だな」
「ああ。宝石も欲しがらないし出かけようとも言わないし、本当都合のいい女だよ。形だけの婚約者、恋愛は別物ってね」
「いいのかよ。まだ結婚もしてないってのに、もう愛人の話か? って、おいっ」
「! あー……アン、今の話、」
遅れてやってきたアンと目が合って、慌てて口を閉じた二人だが、アンはしっかり聞いていた。
でも何も言えないのだ。彼はお菓子をくれるから。
「なあに?」
傷つく心は持ち合わせているけれど、それを見せてしまえるほど、アンはもう純情ではない。
父にも母にももう期待をしていない。
それがいつの間にかできていた婚約者であれば、なおさらだ。
傷ついた顔を見せたところで、状況は悪化こそすれ、決して良くはならないことはもう身に染みている。
だからアンは何も聞かなかったフリをして、ただ首を傾げてみせる。愚かな女であることを選ぶのだ。
「あ、いや、これ、最近流行りの店のらしいぞ。やるよ」
「……ありがとう。お菓子大好きだから嬉しい」
婚約者と友人は手土産のお菓子を押し付けて、用事を思い出したとそそくさと帰って行った。
残ったお菓子はたしかに流行りの店の──けれど前と同じ物だ。
お菓子の箱を抱きしめて、笑顔を張り付けたまま、アンはしばらく立ち尽くす。
「──信じられませんね。あの婚約者殿はいつもこんな?」
「!?」
声に驚き振り向けば、屋敷のパティシエだ。おやつはいつも彼が作ってくれる。
彼が作ってくれるお菓子は、これまでもらったどのお菓子よりも一等おいしい。
「……っ見て!?」
焦るアンにも彼は静かに溜息を吐いた。
「お嬢様、お菓子を渡されたからって無理に笑わなくていいんですよ」
呆れたような言い草に静かに俯いた。
受け取ったお菓子の前で笑顔を張り付けているのだと知る彼だけは、アンをお菓子好きの愚かな女だとは言わないのだ。
幼い頃から、おやつの時間にお菓子を持ってきてくれる。誰もアンを相手にしてくれない屋敷の中で唯一の話し相手。
彼とお菓子の話をするたびに寂しさを紛らわすことができた。
「だってみんなは私を笑顔にさせたくて、お菓子をくれるでしょう。お菓子を貰ったら、笑顔にならなくちゃみんなが困るでしょう。……だからお菓子で笑わなくちゃ」
それはずっと自分に言い聞かせていた言葉。
何かやましいことがあるとき、彼らはアンにお菓子を渡す。アンに知らないフリをしてほしくて、もしくはアンを思い通りに動かすために。
そうならなかったとき、彼らは困り、アンを責めるのだ。
責められると傷つき疲れるのはアン自身で、みんなが望む愚かな女に甘んじるのは、それを回避するための術である。
こんな計算された一面なんて一度も見せたことはなかったのに、つい口を滑らせてしまったのは、我慢も限界だったからかもしれない。
「別に泣いてもいいんです。怒ってもいいんです」
唇を噛んだアンの頭を彼の大きな手が掠めていった。
そんなことこれまで誰も言ってくれなかったのに。
淡々とあやすように呟く彼の声が脳に響く。
大好きなはずのお菓子を目の前にして、アンは初めて泣いた。
泣き止むまで彼は側に居てくれた。
人に寄り添ってもらえるのがこんなにも心地よいものだったなんて。
「泣いたなんて、誰にも言わないでね」
「言いませんよ。……どうぞ。泣いた後に食べるお菓子もいいですよ」
ハンカチの後に、すっと差し出されるお手製のマフィン。
泣き顔を誤魔化すように、頬張った。彼の作るお菓子はいつも美味しい。
アーモンドの香りが口いっぱいに広がって、黙って口を動かした。お菓子の味が辛さを和らげてくれる。
口の中のマフィンがなくなったころ、彼はゆっくりとアンと視線を合わせる。
「あのですね、お嬢様。お菓子を作る立場から言いますが、お菓子を前に無理やり笑われても気分が悪くなるんです」
自分を貶す彼の発言は、初めて聞いた。
そう言われると、彼の仕事であるお菓子に対して不誠実な態度に映ったかもしれない。
「……ごめっ」
「ああ、いいえ。謝ってほしいわけではなくて。……本当に嬉しい時だけ、笑ってほしいんです。だって、私が持ってきたお菓子を見るときと、旦那さまや婚約者殿が持ってきたお菓子を見るとき、全然表情が違うんですよ。知っていましたか?」
初めて知った事実に、アンは慌てて首を横に振った。
そんなことは知らない。
父も母も婚約者も、アンがお菓子を受け取れば、安心して去って行く。去って行ってしまえば振り向きもすることなく。
「お嬢様、私のお菓子、好きでしょう?」
こくこくと頷くアンに、彼は「見ていればわかります」と事もなげに笑う。
誰も気づかない表情の差に彼は気づいてくれるのだ。
「お嬢様には好きなものを好きなだけ……好きな時に心から笑ってほしい」
戸惑うアンを愉しげに彼は見る。
「だからね、かわいいお嬢様。欲しくもないお菓子は受け取らなくていいんですよ。私が好きなだけ、お嬢様の好きなお菓子を作りますよ」
雇い主であるはずの父すら貶すような発言にアンはますます困惑する。
「何を、言ってるのかわかってる?」
「ええ。わかってますよ。お菓子を作るのが私の仕事ですから。お嬢様が好きなお菓子を作る、何もおかしなことではありませんし」
「そう、だけど」
「お嬢様は何も心配されなくて大丈夫です。ただ、私の作るお菓子を笑って食べてもらえれば、それで」
不安げに上目遣いで見れば、彼は悪戯っぽく目を細めた。
「それで、できれば、好きだと言ってもらえれば光栄ですね」
自分でもわかるほど、アンは数回瞬きを繰り返した。
それはパティシエの彼が言うには、少し、違和感のあるセリフだったのだが。
アンはくすりと笑った。
「ふふ、好きよ、それくらいなんてことないわ。大好きだもの、あなたのお菓子」
彼も同じく微笑んで、小さく肩をすくめたのだった。
しばらくは甘い時間はやってきそうにない。