第7章 ビーナス誕生
時は一九九×年三月×日、所は新宿駅西口地下道
川崎恵が浮浪者の群れに隠密潜入してはや三週間が過ぎようとしていた。
彼はサブジェクト(容疑者)に警戒される事を恐れて時間を掛け徐々に近づく作戦を取っていた。彼の業界ではこれを『真綿のとぐろ作戦』と呼んでいた。彼は好んでこの作戦を用いた。それは彼の伯父―陸軍東中野学校修了後大陸に雄飛し終戦の混乱時に行方不明となった彼の母方の伯父―が東中野学校在学中に発案したものであると新人の頃、誰かからか聞いていたからかも知れなかった。
潜入するや彼は何時もの手順に沿って三現確認から手を付けた。三現とは、現場、現実、現物だ。現場はここ新宿駅西口地下道、現実は周りの人物や地形、現物はサブジェクトのキム・オリジ似の男。
彼は現場確認をするや一抹の不安を即座に覚えた。
地の利が悪過ぎる。ここは攻めるに安く守るに難いと直感した。地下道は遠くまで見通しが良く障害物が少なく身を隠す事が困難だ。銃撃戦なら柱が盾になるが複数に駅側から追跡された時、地下道は都庁ビルまで一直線。振り切る事は至難の技だ。地上へ抜ける階段もあるが上で待ち伏せされていたら挟み討ちとなり一巻の終わりだ。
が、しかし、杞憂に過ぎない。今回の任務ではそれは無用の懸念材料だ。と、自分自身を納得させた。が、この不安が遠からず現実のものになろうなど人の子の悲しさかな誰が予知出できたであろうか?
次の現実確認は周りにたむろする浮浪者達の人物鑑定だ。日々、人数は増減しているが凡そ五〇人程。敵か味方かそれともその他か? 浮浪者達個々の立ち振る舞い表情などから敵はいないと彼は結論付けた。
皆、平凡な何処となく遠慮がちに見える民間人達だ。キム・オリジ似の男独りだけに専念出来る。先ずはひと安心。
だが、潜入五日目にして事態が激変した。一人の浮浪者が新しく群に加わった。風采は何処にでもいそうな浮浪者然としていた。強いて違いを言えば豊かな頬髭を蓄えている。何時も朝の遅い時間にここに現れ夕方には居なくなる。ネグラは別なところにあるのか?
他の浮浪者と接する訳でもなく何時も膝をかかえて座っているだけだ。川崎恵の区分けでも始めはその他多勢の浮浪者の一人であった。が、ある時から川崎恵はその浮浪者を『ヒゲ面』と識別する様になった。川崎恵は気付いた。ヒゲ面は何時もキム・オリジ似の男を険のある視線で見詰めていた。敵意すら伝わって来る。そしてその眼差しから同業者の臭いを感じた。が、奴はまだこちらに気付いていな。初心者か?敵か味方か或いはその他大勢か?
『佐藤に照会を頼むとするか』
腕時計を見た。午後四時十五分。徐に横の紙袋の中から雑誌を一冊出してページをめくる。胸のポケットをまさぐり短くなった鉛筆を取り出し雑誌に何やら書き始めた。また、ページをかえて何やら書き込む。そういう作業がしばらく続き漸く終わったのか雑誌を閉じて何故か表紙の端を両手で左右に引っ張り破れ目を作る。
そして胡座をかいた自分の前に置く。他の浮浪者同様にゴミ箱から回収して来た古雑誌を売るかの如く。時間は午後五時を過ぎ人の往来が増えて来た。
突然に若い女性が川崎恵の前で立ち止まり「あ!有った!これ先週号の『週刊ハイライト』よね。おじさん。先週買いそびれて探していたの。あれ〜イヤダ〜、表紙が少し破れてる! ん〜でも、い〜か、連載物も読みたいし〜おじさん、おいくら?」「二十円」と川崎恵は無愛想に答える。
女は財布から十円玉二つを取り出し川崎恵に手渡し週刊誌を受取り人混みの中に消えて行った。そして、そうやって佐藤への連絡は完了した。
川崎恵は過去に三回、浮浪者に扮した事がある。その三回も佐藤への連絡は雑誌を媒体とした。当時、既に携帯電話は一部地域で使用が出来ていた。が、携帯電話や無線通信器などは浮浪者の持ち物としては不相応だ。万が一、所持品検査をされ見付かればそれだけで出自が疑わられる。
対して雑誌は不自然さがない。が、雑誌の余白にメモを残すでは簡単過ぎる。川崎恵の職業的矜持が許さない。且つ、もしも何らかの手違いで第三者、最悪の場合は敵の手に渡った場合、此方の手の内が知られてしまう。そこで二人の間で規則を作る。暗号の基本だ。
①特定の頁のベタ記事に暗号を残す。
②暗号への変換則
③その他の偽装
特定の頁は、シドニー・シャルダンの英語教材の見開き広告頁を使う。当時、日本で発行される雑誌、週刊紙、漫画雑誌のほとんど全てにこの広告頁が掲載されていたので入手が簡単であったからだ。
川崎恵が佐藤に伝えたい内容は「ひげつらあたれ」。シドニー・シャルダンの見開きページのベタ文字の最後から「ひげつらあたれ」の文字を探し出しては鉛筆で丸をする。次にそれぞれの丸の間に任意に丸をふたつ追加する。最後に丸に上下左右斜め上下に隣接する文字を黒丸で塗り潰す。見た目には文字列を碁盤に見立て五目並べを遊んでいるように見える。他のページにもダミーで同様の書き込みをする。
そして仕上げに表紙を破り自分の前に置けば連絡員の静江が回収してくれる。
回収時間は午前九時と午後の五時。解読する方は指定のページの最後の白丸から三つ置きに文字を拾って行けばメッセージの内容を理解する事ができる訳だけだ。
では、佐藤から川崎恵への連絡方法はと言うと、こちらはポケットベルが使われた。川崎恵の古くくたびれた革靴の踵の裏に隠しがありそれはそこに収納されていた。両方の踵には肉厚の鋲が貼り付けられていたので金属探知器も誤魔化す事が出来た。暗号は二種類。10と1。10はトと呼び「利根川下れ」の略で意味するところは「作戦失敗、緊急退避」。1はイと呼び「何時もの時間、何時もの場所で」の略で佐藤とのランデブーを表す。
第二の現実確認で随分と頁を裂いてしまった。これからがいよいよ本題の現物確認だ。三週間の時が流れたがサブジェクトはキム・オリジ本人の様な気もするが今ひとつ確信が持てない。顔も仕草も川崎恵の知るキム・オリジのものであったが性格が明る過ぎ饒舌である。
何時も誰かと喋っては大声を出して笑っている。本物のキム・オリジは暗くニヒルで口数も極端に少なかったはずだ。それに最初からの疑問だがホクロが鏡に映した様に左右逆だ。《やはり、瓜二つの別人、他人の空似か?》 幸い今はひげ面もいない。
川崎恵は意を決してサブジェクトに接触してみようと立ち上がった。
その時、正に丁度その刹那、背後の駅の方角から女の叫ぶ声が聞こえた。
「あそこョ、あそこにちび丸がいるわ!」
瞬間、川崎恵の五体に電流が駆け巡った。《ばれたのか? そんなバカな!》想定外の展開だ。極度の緊張。体は身動きもできずただ呆然と立ちすくむだけだ。《走るか? いや、距離が足らない。》近づく足音の中、《ありえない! 誰だ、さしたのは?》川崎恵の隠密行動を知っているのは上司の佐藤と連絡員の静江だけのはずだ。《静江? あのトランジスターグラマーの静江がさしたのか?》
背後で走り寄って来る数人の足音が大爆音のように川崎の全身に響いた。最初の足音を背後間近に感じ川崎恵は観念した。《すべてが終わりだ》 これまでの隠密行動が徒労に終わる。何処で流れが変わったのか川崎恵には到底理解できなかった。
猫背気味に振り向いて足音の主を見る。 サングラスの女だ。小走りに近づいて来る情景が映画のスローモーションにようにゆっくりと流れる。女との間合いが狭まる。川崎恵の脈拍が機関銃音の如く連打する。《静江がさしたのか?》 極度の緊張で胃酸の分泌を感じた。今にもサングラスの女の手が届く。川崎恵は鼓動の高鳴りの中、《最早これまでか……》と観念した。
が、しかし、ところがギッチョンチョン。女は立ち止まらずそのまま川崎恵の前をかすめて走り去っていった。《ん????????????????????》
川崎は呆気に捕らわれ口をあんぐりとあけた。何が起きたのか理解の外にいた。力が抜けた。思考が停止した。そして、ぼんやりと眺めると遅れること五十メートル程後から男女数人がある者はマイクをある者はビデオカメラをある者は何かの機材を抱えながら小走りに近づいて来る。
が、彼らの視線は川崎恵の方にはなく、かなたサングラスの女の方を見ていた。自分は傍観者になっていた。自分の預かり知らないところで時間が過ぎていた。
「ちび丸さん、逃げないで、私よ」「ちび丸さん、待ってください」「ちび丸さん」
それぞれに叫びながら川崎恵の前を通り過ぎようとしたその時、マイクを手にした男が川崎恵にぶつかった。気の抜けた川崎恵はバランスを崩しその場に崩れるように座り込んでしまった。
《成功だ》河口利之は走りながら内心ほくそ笑んだ。
事は河口利之の青写真通りに進んでいる。匿名の証言者も逃げるちび丸も河口利之の私費で雇ったアルバイトであった。懸念していた通行人も思った以上に少なく偽ちび丸の逃走を阻む者はいない。《やはり生放送にしてよかった。今頃皆テレビに釘付けだ。視聴率も期待できる。この後、偽ちび丸は打ち合わせの通り新宿西口公園内の暗闇へ逃げ込み我々はちび丸を見失う。あたりを捜索中に惜しくも時間切れ番組終了、チャンチャン》
その時、河口利之は何かにぶつかり我に帰った。見れば浮浪者が尻餅をついている。「汚ねーな。この乞食野郎」とぶつかった肩のあたりを手ではたきながら罵吐いた。
「ちび丸が階段を上がったぞ」スタッフのひとりが叫んだ。「中継車を地上にまわせ」川口利之は叫ぶ。《予定通りだ》
ブラウン管の中で河口利之は息を弾ませ興奮気味に視聴者に話しかける。「最初にチビ丸さんを発見しました新宿西口地下道をA地点としますと今我々はB地点のここ西口公園に到着しました。何とチビ丸さんはA地点からB地点に移動したことになります。A地点からB地点! ちび丸さんは園内のどこかに潜んでいるはずです。テレビをご覧の皆様でお近くの方はどうぞ公園まで来て、ちび丸さん捜索に参加して下さい」
公園内のあちこちを探索する河口利之やその他のスタッフの映像がしばらく流れた後、「何だ、あれは!」画面の中で誰かが叫ぶ。
「スタッフのひとりが何かを見付けた模様です。ち、ちび丸さんでしょうか?」と、河口利之は予想外の展開に驚きを隠しきれない様子だが、河口利之の心中を察する視聴者はいなかった。
画面は静まりかえった園内の風景に変わる。
午後九時過ぎの園内はスタッフ以外に人影はなく点在する照明灯が煌々と辺りを照らしているだけであった。映像はひとつの照明灯の下を指差しているスタッフを捉えた。
カメラマンが走っているのか映像がゆれる。先に掛け付けた河口利之が照明灯の根元を見て驚きしばし言葉を忘れる様子がテレビに映る。
「遂に、ちび丸発見か?」テレビに釘付けの視聴者は押しなべて期待する。カメラマンが河口利之に近付き照明灯の根元をとらえた。その映像は日本全国津々浦々の固唾を呑んでトイレも我慢している視聴者の瞳全てに届いた。
「D型アミノ酸だ!」テレビを見ながら竜田川が叫ぶ。
「随分大きいな」籾木戸も叫ぶ。
厚み六〇センチ程、直径一メートル程の円盤型の不気味な物体がブラウン管に写しだされていた。
ブラウン管の中で「我々はちび丸さん捜索中に奇しくもこの面妖なる物体を発見してしまいました。これは一体何なのでしょうか?」と河口利之。長らく現場から遠ざかっていた彼は前年十二月に新聞テレビラジオ等報道機関の間で交わされた『内閣総理大臣要請による報道自主規制に関する覚書』の詳細を知らなかった。
その時、河口利之の周りでざわめき声が聞こえた。どうやらちび丸捜索に掛け付けた近所の野次馬連らしい。
「何だ! あれは? 宇宙人か?」
「動いているぞ!」誰かが叫ぶ。
物体はわずかながら左右にゆれ始めた。
「皆さん、あまり近づかないで下さい。爆発の危険性もあります」と河口利之。
物体のゆれは次第に速さをまして真横に亀裂が走った。そして、ちょうど網焼きのハマグリが焼き上がって蓋をあけるように物体はパックリと開いた。
「◆□◇××◎◎△◇●▽××◇■×!?」
その場に居合わせた者はもちろん全国津々浦々のテレビに釘付けの視聴者達も全員が全員、目の前の光景に驚愕失語する。二つに割れた物体の中には半透明の粘液に包まれた膝を抱えて丸く横になった黒髪の一糸まとわぬ女体があった。
取り巻く衆人の視線など気にも留めず年の頃三〇代前半の全裸の女体は体を起こし長い眠りから覚めたかのごとくに大きく伸びをする。伸ばした両腕から粘液がしたたり落ちる。そして、局部をかばう事もなくゆっくりと立ち上がり、処々に白濁の残るそのあらわで豊満な肢体を全国民の前に晒した。
「●▽×+■▽△◎◎■■!」
「×△×◎■++□□◇?」
「◆◆△▽☆★×△×÷◇!」
見守る者全員、人知常識を超えたあまりの異常さに驚愕の言葉さえ発する事ができない。
《何だ! これは》河口利之は自問する。《誰の仕業だ。それとも本物か?!》
ベテラン河口利之は過去に数々の報道番組を製作して来たがそれらは全てが全て事前に自作の筋書のある世間で言う所のヤラセであった。が、今カメラが捉えている面妖物体は河口利之の全く持って預かり知らぬ一物だ!
《何だ、こいつは? もしも、もしもこいつが本物ならば、その瞬間を初めて映像に捉えたオレはピュリッツァ賞ものだ。ピュリッツァ賞!報道生活苦節二十有余年、記者冥利に尽きる瞬間だ(五体五臓六腑に沁み渡る高揚感)夢にまで見た宿願のピュリッツァ賞!(涙腺を緩ませ恍惚感の中)そして念願の『タイム』の表紙に俺の顔が…》
「ヤラセだ」誰かが叫んだ。カメラがスパンして河口利之を捉えた。
突然の叫び声に甘美な皮算用を妨げられた河口利之も職業柄なんとか我を取り戻しカメラに向かい、が、視線は時々女体を横目でみながら「いいえ、これはヤラセではありません。真実の映像です。ちび丸さん捜索中に偶然、きしくも捉えることのできた真実の映像です。面妖なる物体からちょうど卵が孵化するように現れた女性は一体全体何者なのでしょうか?我々と同じ人類なのでしょうか?それとも誰かの悪質なイタズラなのでしょうか?私には何も答え」
その時、全国で見守る視聴者の前で突然映像が途絶え何処かの風景がブラウン管に写った。
「番組の途中でございますが生中継を中止させて頂きます」と事務的な女性の声が流れた。午後九時四五分。予定では後二〇分近く放送時間は残っているはずだが、突然、生放送は中断された。