第2章 敷島秘密研究所、炎上す。
時は明けて一九九×年一月某日午前八時半少し過ぎ。
新宿発の小田急線は多摩川を過ぎた辺りから多摩丘陵に連なる生田緑地に出会う。その緑地の一角に向ヶ丘遊園地(当時)がある。最寄りの駅は小田急線の急行も停車する向ヶ丘遊園駅だ。遊園駅から遊園地まではモノレールもあるが徒歩でも一五分程の距離。
遊園駅へ向かう人の流れはまだ通勤時間帯内なのか多い。が、逆に駅から遊園地へ向かう人の流れは遊園地もまだ開園前でさほど多くはなく近くにある私大の学生らが三々五々と歩いているばかりだ。
そんな遊園地方面へ歩く人々の中、一人の男が登場。年の頃は三〇代前半、一見身なりはサラリーマン風。辺りに目を配りながら見るからに人目を避けるようにやや早歩き気味に移動している。
そして遊園地前に到着すると遊園地の外、左手にあるプラネタリウムへ直行。入場券売り場窓口の係員に向かい「サラリーマン一人、怪しいものではありません」と告げる。係員も慣れた手付きで座席番号H12と記された入場券を手渡す。開場のベルと共に他の数少ない観客と共に入場。
男は迷うこともなく指定の座席に着席。間もなく開演を告げるベルで場内は暗転。そして、約一時間の天体ショーが終わり場内は再び明るくなった。
ところが各々出口へ向かう観客の中に座席番号H12の男を見付ける事は出来なかった。また、そのことに気をとめる者は誰もいなかった。が、もしその男を注意してみる者がいれば翌日も同じ時刻に同じように辺りに目を配りながら、見るからに人目を避けるようにプラネタリウムへ直行し入場券売り場窓口の係員に向かい「サラリーマン一人怪しいものではありません」と告げ、座席番号H12の入場券を手にし、また、同じように終演後は忽然と姿を消すのを知ることであろう。そしてその翌日もまたその翌々日も。
否、男はこの半年間、月曜から金曜まで土日祭日を除いてほぼ毎日同じように現れては同じように消えるのであった。
男の名前は竜田川健二。三三才。
嘗ては愛妻の今では仮面夫婦の片割れの裕美との間に子供一人を持つ生物学者。約半年前まで新星総合大学大学院理学部理化学研究所で助教授として研究者をしているところを引き抜かれる形で現在の敷島秘密研究所で研究を任されるようになった。
この男にとって転職の決断は研究を一任されることでも所得の増額でも最新の設備でもなかった。ひとつにはそれまでの理化学研究所での人間関係に辟易していたのは事実であるが初めて案内された時、その場で転職を決意したのはその研究所のその名に相応しい出入りの方法であった。
それは約半年前のある日の事だった。竜田川健二は職場の研究室で青山と名乗る男から電話を受け取った。青山は竜田川健二が最近学会で発表した論文をいたく褒めた。そして論文の話題も尽きた頃、前触れもなく転職の打診を打ち明けた。竜田川健二にとって転職はやぶさかでもなかったが不意な話に即答を言いあぐねる。
すると青山は「では、一度お話だけでも」との提案に竜田川健二がどうにか了承すると竜田川の都合を確認し日時と場所を互いに合意した。
約束の時間は三日後の午前8時半過ぎ。約束の場所は向ヶ丘遊園地前。時間の少し前に到着した竜田川は一抹の不安があった。それは場所柄、転職の話が不向きなような気がしたからだ。そして先日の電話で青山の顔を知らないと告げると青山の方は竜田川の顔を知っていると言っていた。何処となく知らない世界に投げ出されたような心許なさを感じる。そんな中、一人の男が竜田川の前に現れた。
「竜田川さんですね。私、青山です。お忙しい中、ご足労いただきありがとうございます。立ち話もなんですから、どうぞこちらへ」と青山と名乗る男は歩き出しプラネタリウムの方へ向かった。
男は窓口で「サラリーマン二人怪しい者ではありません」と告げ入場券を二枚受け取った。《プラネタリウムの中で転職の斡旋をするのか?》と訝しがる竜田川に構うこともなく青山は先へ進み入り口を抜け待合室へ入るとそこには小学生高学年のかしましい集団の先客がいた。
子供たちは数人ずつの仲良しグループに分かれ楽しそうに互いに談笑し合っている。竜田川は置かれている状況が掴み切れずに不安が募る。今にも外に逃げ出したい気持ちの中、予鈴のベルがなった。
小学生の一団が嬉々として入場して行く。予想外の展開であった。
転職の話となれば給与や賞与、福利厚生、有給、時間外手当などが主な議題となりそうだがそんな気配は全くない。知らない世界へどんどんと引き摺り込まれて行くような焦燥感に支配される。
その時、青山が入場を誘った。言われるがまま指定の座席に着席した。二人はリクライニングシートを後ろに倒し丸い天井を見上げた。まもなく開演のベルと共に暗くなり、天井が満天の星空と化した。
「皆さん、おはようございます。今日は登戸満天館プラネタリュウムにお越しいただきありがとうございます」と女性のアナウンスが聞こえて来た。そして、「今週で六月も終わり来週は七月。七月と言えば織姫と彦星の七夕ですね。今日は一緒に七夕に付いて勉強しましょうね」
その時突如竜田川は異常を感じた。《席がゆれている、地震だ》
思わずリクライニングシートを起こそうとしたところを隣の青山に手で肩を押さえられ「ご心配なく」との一言に少しは気を取り直した。が、《まだ、揺れている。でも地震とは違うぞ。そうだエレベータで下がっている感じだ》そう思うが早いか突然目の前が明るくなった。
「ようこそ我が秘密研究所へ、竜田川健二君」竜田川は背もたれを立てまぶしさの中、正面を見据えると、そこに笑顔で出迎える一人の老人が立っていた。
老人は続けて「あなたのグルタミン酸ウソダソーダに関する論文読ませて頂きましたよ。実に面白い。目の付け所が良く切り口も斬新だ。で、コクがあるのにキレが良い。けれんみもなく病み付きになる論文ですよ、全く。どうですか、あなたのその頭脳をここで活かして見ませんか?」
プラネタリウムから予想外の急展開に驚き戸惑っている竜田川は、ただ気を落ち落ち着かせるのに精一杯であった。青山が老人を紹介した。
「この方が籾木戸源次郎さんです。この敷島秘密研究所の代表者です」男の説明によるとこの籾木戸源次郎なる人物が私財を投じ、地上のプラネタリューム施設と地下の理化学研究所を設立したとの事だ。
「付け加えておきますが我々はテロリスト集団でもカルト主義者でもありませんよ」と籾木戸源次郎。プラネタリウムの特定の席が研究所への秘密の入口となっているのは世間の目を欺く為のものではなく、また、研究所の名前が秘密研究所となっているのもただ単に創設者籾木戸源次郎の個人的趣味好みによるものであるとの青山の説明に老人は少々照れて「現に我々は毎年きちんとこの名前で青色申告していますよ」と口を挟んだ。
そして、老人は重ねて「竜田川さん、是非あなたの力をお借りしたいのです。我々は、近い将来必ず来るであろう世界的食糧危機に備えて全く新しい食物を研究開発していたのですがとんでもないモノを見付けてしまいました。我々も全く訳が分からず途方に暮れています。我々はあなたの若若しい斬新な頭脳がどうしても必要なのです。どうかご協力下さい」と懇願した。
「分かりました。お手伝いさせて下さい」竜田川は雇用諸条件の話など忘れて即座に返答した。竜田川の即断は老人の切なる懇願によるものでもこの研究所の崇高なる目的に粋を感じたからでもなかった。ひとつには今の職場の人間関係に疲れ前々より転職するか躊躇っていた事は事実であるがここのスパイ映画もどきの地下研究所とその入室方法が痛く気に入った事が引き金になった、竜田川健二の肩を後ろから押した。
地下の施設は元々先の大戦中、旧帝国日本陸軍の風船爆弾コンニャク芋研究所として使われていたが終戦後しばらくしてから籾木戸源次郎がある伝手で手に入れ改装したものである。その後、地上にプラネタリウムを建設し川崎市へそれを寄贈した。
が、建設する際、籾木戸源次郎の特に個人的に強い要望で場内南側の壁際にある座席番号H列の12番から17番までを仕掛け席とし場内が暗くなると同時に、その日の人数に応じた席数が音もなく地下に下がり空いた空間には真後ろの壁から空席が滑り出してくるからくりにした。否、むしろ仕掛け席を作りたいがためだけにその入れ物としてプラネタリウムを作ったと言う方が真実に近いかも知れない。
当然の事ながら川崎市には極秘事項だ。
だが、以前からいる他の大方の職員らにはこの入室方法は、まず入室時間に制限があり必ず開演時間と一致していなければならない点と一回の入室人数も六名以内と限られている点であまり気に入られてはおらず彼らはもっぱら向ヶ丘遊園地入り口の道路を挟んで対面の雑居ビルの一階にある『敷島秘密研究所職員専用扉、関係者以外立ち入り禁止。新聞の勧誘、宗教の押売りお断り。出前の方は赤いボタンを押して下さい』と書かれた通用門を利用し好きな時間に出入りしていた。それでも竜田川健二はまだ日の浅いせいかそれとも元来の好みに合っているのか過去一度の例外を除いて秘密の入り口を愛用していた。
そして、その一九九×年一月某日の朝も飽きることもなく秘密の入り口を抜け籾木戸源次郎の部屋に入った。挨拶もソコソコに先に口火を切ったのは籾木戸源次郎の方であった。
「やはり、君が手に入れたあの日の新聞は日本中何処にもないね。手を回して新聞社の幹部何人かに当たって見たのだが皆が皆、口を揃えたように否定している。まるで緘口令でもしかれている見たいだね」
「そうですか」竜田川健二は応えた。「私が手に入れた新聞が日本中の何処にもないのですか、奇妙な話ですね。何かとてつもなく大きな力が真実を隠蔽しているようでこの平和な民主主義の世の中にあって良いのでしょうか?」
その時、突然頭上で爆発音が轟き室内に振動が響き続いてけたたましく非常ベルが鳴り出した。
「どうした、守衛室」籾木戸源次郎は机のマイクロフォンに向かって大声で叫んだ。
「通用門付近で爆発があった模様です。今、モニターを切り替えて見ます。あっ、見慣れぬ服装の武装集団が第一扉を突入して来ます」との守衛室からの応答に籾木戸源次郎も自室のモニターを見るや「あけぼの機関!?」と驚きをこめてひとりごつ。
「籾木戸さん、何が起こったんですか?」との竜田川の狼狽交じりの質問に「君の言う大きな力がここにも来たようだね。守衛室、敵の進入経路は?」と籾木戸源次郎。
「はい、通用門に約十名と、それから、プラネタリュウムの方は包囲されていません、 それから、地下口も安全です」
「守衛室、デフコンAを発令」非常ベルは鳴り止み、赤いランプが点滅し始めた。続いて頭上で大きな鉄の扉のしまる鈍い音が聞こえて来た。突然の爆発音に一時は動転した籾木戸源次郎も年の功か或いは経験のなせる技か今では落ち着きを取り戻し沈着冷静に状況判断している様子である。
そして時は将に我が時を得たとばかりに、にんまりとし誇らしげにマイクロフォンに向かって言った。
「守衛室、マイクロフォンを全館につなげ」
「繋ぎました」
「総員に告ぐ。これは訓練にあらず。スペインの雨は主に平野に降り注ぐ。繰り返すスペインの雨は主に平野に降り注ぐ。以上」
竜田川を初め職員全員は即座に理解した。敷島秘密研究所では毎月一五の日に、但し休日と重なる場合はその翌日に欠かさず『有事非難訓練』が実施されていた。
毎回の訓練時、一人悦に入って籾木戸源次郎はマイクロフォンに向かって符丁を発する。戦後生まれの職員達は仕事のひとつと割り切って不承不承に従っていた。符丁は三種類。毎回、予告無しにそのひとつが籾木戸源次郎から告げられる。それは関係者内で取り決められた符牒だ。
『カスバ女のため息は後ろ涙の夜が明ける』は通用門よりの脱出、
『スペインの雨は主に平野に降り注ぐ』は地下口、
『借り物の時間、借り物の場所。初めて君を知りぬ』はプラネタリウム館からの脱出であった。その日頃の成果が実を結ぶ。まさに引き際の魔術師籾木戸源次郎ならではのなせる技である。
そして、籾木戸源次郎は誰にともなく誇らしげに言った。
「戦後五〇有余年、私の生きている内にまたこう言う事があろうとは、全く備え有れば憂いなしだな、ハハハッ…」続けて「敵の現有装備ではこの階に到着するのに早くても半日はかかるだろう。その前に我々はおさらばするよ。さぁ、竜田川君、撤収準備開始だ」と、得意満面に言った。