第9章 神は人に似せて創り賜もうた
時は、敷島炎上事件より数えていきなり約一〇年の光陰が弾丸の如くに過ぎ去った。
その間---
一時は日本中の耳目を総集めにした五十嵐片手醜聞もその後洪水の様に押し寄せては消え去った諸々数々の醜聞事件の前にあっけなくも色あせてしまい何時しか国民の関心は遠のいていた。
時の首相は、五十嵐の後に嵐山が引き継いだ事は前述したが、嵐山は山之内に代わり、山之内から内田川、内田川も短命で川中島、川中島も島田に代わり島田の次には田所が三日総理で所沢が引継ぎ所沢も越冬前に沢田に政権を奪われその沢田も献金疑惑から総辞職の後、田島が首相の座に就いていた。
市谷に幽閉されていた河口利之は隔離後半年が過ぎてようやく他言無用を条件に開放されたが国民の最大級軽視嘲笑の的となり職を失い誰にも相手にされず社会復帰も叶わぬまま路頭に迷い流れ流れて落ちぶれて果ては新宿西口地下道のホームレスに身をやつしていた。彼、河口利之が再び国民の前にその姿を現し今度は大活躍するのはまだまだ先の話である。乞う、ご期待。
尚、かつて路上生活者たちは浮浪者と呼ばれていたがいつの頃からかそこはかとなくお洒落でそしてハイカラな横文字でホームレスと呼び名が変わっていた。しかしそれは長身金髪青目の路上生活者達が欧米より我が国へ大挙上陸し居座った訳ではなく依然その実態は変わる事もなく短躯黒髪黒目のままであった。言葉を取り繕ってもその実体が変わる事は無いはずだが何故かあらゆる分野で横文字での言い換えがもてはやされていた。
ちび丸こと川崎恵はキム・オリジ接触の任を解かれた後も赤坂には戻らず熱烈ちび丸熱に冒された患者達を安堵させる事はなかった。そしてその一部熱狂的ファンは妄信的信者と化しちび丸は御神体に昇華し未公認宗教団体・ちび丸真理教を結成した。その数、およそ一〇万人。
河口利之によって全国に生放送された面妖物体はその後テレビ新聞雑誌などで放映報道される事は金輪際無かった。
が、巷では「私の会社の同僚のお母さんの知り合いの深窓のお嬢さんの婚約者のお父さんのお妾さんのツバメが何時々々何処々々で怪物体を目撃した」式目撃伝聞談が数多数様多種多様、日本全土、北は稚内から南は鹿児島沖縄を超えて遥か南極昭和基地に至るまでヒソヒソとではあるがまことしやかにささやかれていた。
謎の人物・河嶋の報道規制の下で公にこそされなかったが面妖物体はその数を確実に増やし続けていた。
ここで物語は新展開の様相を呈する。
英国の科学雑誌『ネイチャー』八月九月特別合併臨時増刊号は著者竜田川健二の名で『ハジジャンの構造』という論文を鳴り物入りで掲載した。
それは長年敷島研究所で観察研究されてきたD型アミノ酸に関しての研究論文であった。謎の人物河嶋の威光もドーバー海峡を越える事は出来なかった次第だ。
格調あるブリティッシュ・イングリッシュと溢れる専門用語で記された『ハジジャンの構造』の詳細は一般の方には難解過ぎる為、他書に譲るとする(実は語り部の私自身も難しすぎてよく分からない)。
が、都合よくここに同研究所の万年助手・青山利之介権左ェ門箒之守惟成(あおやまりのすけごんざえもんほうきのかみただなり)氏による同論文を分かりやすく噛み砕いて解説した『ハジジャンの構造・婦女子読本』という便利な
副読本があるので、以下、それをそのまま引用させて頂く。
「常識外の突然変異で生じた新生物。気の遠くなる様な永い永い進化の歴史の中で遅れてやって来た新生物。我々は彼らをハジジャンと命名しました。
老人の恥掻きっ子ならぬ年老いた創造主・老神の恥掻きっ子でハジジャンと名づけました。
私達敷島研究所では十年以上前よりその生態を観察研究し続けて来ましたが彼らハジジャンの存在は私達の慣れ親しんだ常識を瞬時に根底から覆すに余りある迫力を持ち合わせた超非常識的存在であります。
しかし、ハジジャンの外形外観は人類に似ています、いや、ソックリです。まさに老神は人類の形に似せてハジジャンを創り賜もうたのでしょうか? 見た目だけでは人間とハジジャンの区別はできません。例えばあなたが偶々乗り合わせた電車で目撃した耳たぶ穴あき青年や茶髪ぽっくり靴のお嬢さんが、あるいは路上で偶然見かけた路肩に腰を下ろす家無きおじさんがハジジャンであったとしてもあなたはそれに気付く事は決してありません。断言できます。
それ程までに彼らの外観は私達人類と同じであります。それでは、人類とハジジャンとの違いは何でしょう? あるいはハジジャンをハジジャンたらしめているその超非常識性とは何でしょうか?
話ははるか三〇億年前に地球に及びます。その頃の大気には酸素はまだなく地上海中いづれにも生物はもちろんの事、いかなる有機物もない死の惑星でした。
さて、実験室で放電版を差し込んだ密閉式のガラスケースにアンモニア・メタン・水素の混合ガスと水を入れます。三〇億年前の大気環境を人為的に再現する訳です。そして高圧電流を放電します。高圧電流の放電は稲妻を模したものであります。
幾度か放電を繰り返した後にガラスケース内を調べてみますと窒素と水素と炭素の化合物が検出できます。窒素と水素と炭素の化合物、つまりアミノ酸です。生命の原料アミノ酸が化合されました。当時、落雷の度に生産された原始アミノ酸は順次海中に溶け込みおよそ十億年の時間を掛けより高度により複雑に離散集合を繰り返しながら原生生物へと進化していきます。
そして植物と動物に別れ双方とも突然変異・進化を繰り返しながらある種は途中で途絶えまたある種はより進化し今日の地球上には微生物から万物の霊長人類に至るまでありとあらゆる生物が生存しています。
逆を言えば地球に生息する全ての生き物は元を辿れば全てが全て三〇億年前の原始アミノ酸に遡る事が出来ます。皆さんご存知の一本の進化の木です。
が、しかし、密閉式カラスケース内の放電実験で得られたアミノ酸は実は二種類ありました。窒素分子が左側にあるL型アミノ酸と右側にあるD型アミノ酸です。三〇億年前の自然現象で化合したアミノ酸も当然左右対称形のL型とD型の二種類があったはずであります。
しかし、非常に不思議な事に現在地球上に生きる全ての生物はその体内でL型アミノ酸だけを愛用しています。先にあげました進化の木もL型アミノ酸の系譜と言えます。なぜか右ぎっちょのD型アミノ酸は、誰にも相手にされませんでした。
懸命なる婦女子の皆さんの中には既にお気付きの方もいらっしゃるものと思われます。そうです。その通りです。ハジジャンは右ぎっちょのD型アミノ酸で出来ているのです。姿形は同じでも全く持って似て非なるもの。姿は人間の形でも彼らハジジャンは私達人類を含め地球に既存する全ての生物とは全く別の生態系を持つ生き物なのです。
彼らハジジャンは進化の過程を経る事もなく遅ればせながらも突然参入して来ました。我々が属する進化の木とは別モノの進化の木です。
この様に私達の常識外の突然変異が、今、起こっています。その兆しが見え始めたのは僅か二〇年から多くて五〇年前からでしょう。三〇億年の時間に比べると、それは余りにも短すぎますが私達人類はその歴史的瞬間に偶然にも居合わせているのです。
彼らがどうして現れたのかは、今の段階では万人を納得させ得るだけの明確な答えを私達敷島研究所では用意できておりません。が、彼らハジジャンは現実に存在します。そして私たちに気付かない間にその数を確実に増やし続けています。
幸い私達の観察ではかれらハジジャンに攻撃性や凶暴性は見られません。ただ、そこにいるだけの全く人畜無害な生き物です。また、生態系の違いから私達人類の限られた食料在庫を脅かす事もありません。発生の謎は今後の研究課題として私達はハジジャンの存在を受け入れる時に来ています」