きさらぎ駅で初めまして
岡実 八重子の章
カタン、カタン。
カタン、カタン。
電車が揺れる。ぼんやりとそれを感じながら座席に座っている。
会社でヒーヒー言いながら仕事をこなした後、私は終電の電車に何とか間に合い、夜の帳が完全に降りた街の景色が流れる車内に座り、隣の県にある自宅へと向かう。
窓の外は真っ暗だ。まばらに建物の明かりがともっているが、それも夜の闇に負けてしまっている。
いつもこの駅を通過すると、乗っているのは私だけになる。しんとした電車内に、電車の走る音だけが響く。
毎日機械的に繰り返す日常。何一つ変わらない日常。
だが今日は本当に疲れた。あの上司、悪い人じゃないんだけど、私に仕事の塊をぶつけてくるのはいただけない。
あぁ、ぼんやり、ぼんやりと。瞼が落ちる。
カタン、カタン。
カタン、カタン。
◇◇◇
気が付くと、夜より深い闇の中にいた。いや、瞼が落ちきっているだけか。
あれ、私寝ちゃってた?
そう思い、重い瞼を開ける。
そこは電車の中。当たり前だ、私は電車に乗っていた。
車内には私一人。まあ、寝てしまった時もそうだったし。
窓の外は真っ暗。まあ夜だから。しかし、ここまで暗かっただろうか?
なぜだろう。とても空気が重苦しい。ここにいてはだめだと思ってしまう、そんな重苦しい空気が、電車の内部に漂っている気がする。
そう感じると、それを呼び水にいろんな疑問が浮かび、心を蝕んでくる。
あれ、上に張られてた広告ってこんなのだったっけ?
椅子とか壁とか、こんなに古臭かったっけ?
あれ?
アレ?
あれ?
そんな疑問が、恐怖に変わっていく、その気持ち悪い感覚に心がかき回されるのを感じながら、私は必死に思い出そうとしたが、思い出せない。元の電車の内部が。降りようとしていた駅が。私の家のある県の名前が。町の名前が。
ぞっと、背筋に氷が流れるような感覚を感じつつ、私は決めた。次の駅で降りようと。
『次は、きさらぎ駅ー……きさらぎ駅ー……』
その薄気味悪い響きのアナウンスを聞き、私は急ぎ電車を降りる準備をした。といっても、立ち上がり、扉の前に立つだけだが。
そして、慣性の法則による揺れも感じず、電車が止まり、扉が開く。
私は電車を降りた。スーッと電車は走っていく。ふぅ……と息を吐いたが。ここはどこの駅なのだろう。
空も、周囲も暗い闇だ。夜の闇よりさらに深く、気持ちの落ち着かない闇、微かに、磯の香りを嫌な感じに変えたかのような、気持ちの悪い匂いがする。
ここは無人駅のようだ。小さな建物があり、内部には数人が座れるような椅子が。灯はあるが、それは明るいと感じることのない。矛盾をはらんだ灯だった。
なんだか、この空間にいるだけで疲れるというか、息苦しい。
とにかく座ろう。座って、状況を整理しよう。
ぎしり。
軋む椅子にすわり一息。そうだ。スマホは?
電源をつけてみるが、圏外だった。ありえない。今時、圏外とかある?私は、電波やネット回線にすら見捨てられたようだ。窓から見える空を仰ぎ、月どころか星の輝きすらない空に向かい、ため息を一つ。
あぁ、ここはどこ。私は一体?
そう思っていると、窓の外を動く人影があった。
こんな場所だ、まともな存在じゃない。そんな気がしてならない。
がくがくと、体が震える。
怖い。怖い。怖い……
目をつむったままでいたいが、瞼の裏の闇すら今は怖い。
そして明るいと感じない、灯の内部にその影は入ってきた。
灯が照らす、その姿は人間だった。
両足もある。両手もある。影もある。お腹から内臓も飛び出してはいないし、顔は中々に整っている。服装も普通だ。
その人は私を一瞥すると、心底驚いた顔をし、私の前の椅子に座った。
しばらく、無言の時間ができる。虫の音すら聞こえない、お互いの息の音と、自分の心音しかない静寂。
そして彼は口を開いた。
「えっと、その。初めまして」
「あ、はい」
それに答えた私の声は、ひどく間抜けに聞こえたかもしれないが、こんな状況だ。仕方のない事だろう。
彼は言葉を続ける。
「俺以外に、この駅を使う人がいるなんて知らなかったよ」
「え?」
「何もない場所だからね、この駅」
「はぁ。何もない……ですか」
「うん。何もない無人駅さ。君は、なんでこんな駅に?」
「えっと、その。わかりません」
「わからないだって?」
「はい。気がついたら、この駅に向かう電車に乗ってて」
彼は私の話を聞くと、彼は視線を落とし、少し考える仕草を見せる。
ほんの数秒の間が空いた後、彼の視線は上がり、私を見つめてきた。
「他には?」
「えっ」
「他に普段と違ったことは起こってない? 例えば、記憶が混濁してるとか、ほかの人と連絡が取れないとか」
何故わかるんだろう。記憶が混濁してるとか、スマホがつながらないとか。
だが彼の目を見ると、どこまでもまっすぐで、吸い込まれそうなほどに澄んでいた。本当にこんな目をした人がいるんだ。
だからなのだろうか。名前も知らない、今あったばかりの彼に打ち明けてみようか。そんな思いが浮かぶ。
「実は、家のある町の名前も、向かっていた駅の名前も、何も思い出せないんです」
言葉にすると、何ともおかしな話だが、彼は真剣に聞いている。
「それに、スマホも圏外になってるし、何が何だか」
「そうか。君は」
すると彼は、目の前の椅子から隣の椅子に移動してきた。不思議と、知らない男性が近づく不快感はなかった。
「自分の名前、思い出せる?」
問われて、初めて気が付いた。
私は自分の名前すら思い出せなくなっていたのだ。
「あれ。私、私は。私の名前、は」
混乱、そして恐怖。自分の親の顔も、今日会っていた仕事仲間も、上司も、どんどんそういった記憶が薄れている。
がくがくと震える私に、彼は優しく、耳触りの良い声色で語り掛けてきた。
「大丈夫、落ち着いて」
「何が大丈夫なんですか。私、何も思い出せなくなって……」
「君が持っている鞄、その中に、運転免許所とか。そういう類いのは無いかな」
そう言われて気が付く。そうだ、思い出せなくても。
私は鞄を開け、社員証を見る。そこに記されていたのは。
『岡実 八重子』
ああそうだ。私の名前。それは岡実八重子。そう、私は八重子だ。
ほぅっとする。名前を思い出せただけで、安心感がすごい。
すると、彼は笑みながら。
「良かった、名前、思い出せたみたいだね」
「はい。よかった……」
すると、遠くから踏切の音が聞こえる。どうやら電車が来るようだ。
そうだ、乗れば帰れるかも。そう思い、立ち上がろうとして、彼が止める。
「だめだよ」
「えっ?」
「君は、次に来る電車に乗ってはいけない」
「何でですか? 私は早く帰りたいんです」
「時間的に考えて。次に来る電車は、きさらぎ駅発、常世行だ。乗ったら、二度と君の家には帰れなくなるよ」
「とこ、よ?」
「そう。君も薄々気が付いてるんじゃないかな? ここが、君のいるべき世界じゃないって」
そう言われ、私は少しうなづく。何が何だかわからないが、私は、この世といえばいいのだろうか。元の世界から、別の世界に来てしまった。そう思うしかなかった。
「少し確認なんだけど。ここに来て、何も口にしてないよね。水とか、食べ物とか」
「え、は、はい」
「良かった。なら君は現世に戻れるよ」
そう言うと、彼は人に好まれるような、そんな優しい笑顔をして、立ち上がる。そのまま、駅の外。さっきまで気が付かなかったが、公衆電話があった。
それに10円玉だろうか。それを入れて電話をし始めた。
数分後、彼が戻ってくる。
「今、信頼できるタクシーを呼んだよ。それに乗れば、君は現世に戻れる」
「本当ですか?」
目の前の彼を信じられる材料は何一つない。あるのは、目の前の人がこの異様だらけの世界の中で、私と同じく普通な見た目をしているということだけ。
でも、なぜだろうか。信じてみよう。そういう気になってしまうのは。
「あの」
「なんだい」
「あなたは何者なんですか?」
「俺かい?俺は、旅人さ」
「旅人?」
「そう。いろんな世界、いろんな場所、いろんな時代。そこを旅してまわる、ただの旅人だよ」
なんとも不思議な人だ。その言葉を信じる理由は何一つないものの、信じようと思えてしまう不思議なオーラがある。
「この駅は、なんていうか、狭間っていうのが一番近いかな。二つの世界の間に存在してるんだ。君で言う、この世とあの世っていえばわかりやすいかな。そんな感じの場所」
「私は、なんでそんな場所に」
「んー、偶に、旅人でもない人が異世界に行くことがある。本当にごくごく低い確率なんだけどね。そんな大当たり。いや、君にしてみれば大外れを引いたんだろうね」
本当に大外れだ。こんな薄気味悪い場所には、一分一秒だっていたくは無い。あの世に近いと言われればなおさらだ。
「他の駅は、こんなんじゃないんだよ?もっと近代的で、お菓子とか売ってる場所もあるね。ただ、生者と死者の世界の間の駅となると、こんな辛気臭いというか、暗い駅になるってわけ」
ということは。私は本当に運がなかったという事だろう。しょんぼりしていると、彼は慌てて励ますように。
「大丈夫。運っていうのは知らず知らずのうちに使っちゃうものだけど、ここまで負の運を使っちゃったら、明日は不運には見舞われないんじゃないかな」
そう言われ、少し気を取り直すことができた。そういえば。
「あなたは、どの世界にこれから行くんですか?」
ここは。生と死の世界の狭間らしいが、彼はどちらに行くのだろうか?
「ん?そりゃあ、君のいた世界、そして、今から君が帰る世界にだよ。死者の世界は……なんていうか、ご飯が不味くてね。旅人としては、悪くない居心地なんだけどね」
「じゃあ、私と一緒にタクシーに?」
「いや、せっかくだし、電車旅を楽しむつもりさ。ここはかなり死者の世界に近いから、君にしてみたら居づらいと思うけど、生の世界に近づけば、もっと景色が良くなるんだ」
ただ、電車が来るまで君の世界の時計で1日はかかるからねと言われ、私はクラりとした。さすがに、こんな場所に24時間もいたら気が狂ってしまう。
そう話していると、駅の前に車がやってきた。アレがタクシーだろうか。
「お、来た来た。じゃあ、これに乗れば君のいた世界に戻れるよ。お金は、5円くらいかかるからね」
そして、彼に見送られ、タクシーに乗る。
タクシーを運転しているのは、真黒な人型の何かだった。
「え、えっと」
「ああ、旅人さんから行先の世界は聞いてます。安心してゆったりしてください」
そう言われ、私は彼……旅人さんに向かい、礼を言った。
「あ、ありがとうございました」
「いいってことだよ。旅人は助け合いだからね。じゃあ、まあもう会わないだろうけど。元の世界でもご元気で」
車が走り出す。ぶろろろろろ……と、揺れが少しあるが、それが逆に安心できる。
運転手さんは普通じゃないが、普通に乗り心地がいい。
緊張がほどけたのだろうか。ゆっくり瞼が落ちていく。
ああ、疲れた……
◇◇◇
カタン、カタン。
カタン、カタン。
ぼんやりとした意識がはっきりしてくる。気が付くと、電車に揺られていた。
ゆっくりと、瞼を開ける。電車の内部。私が眠る前に見ていた景色だ。
夜の帳。暗闇だが、あの世界ほどの重く苦しい闇ではない。
電車内部の明かりはすっきりとしている。
ほぅ……ッと息を吐く。随分と嫌な夢を見ていた気がする。
スマホで時計を見ると、きちんと電波は届いており、もうすぐ家のある町の駅だ。
「次はー。〇〇駅、〇〇駅」
そうアナウンスがあったので、私は扉の前に立つ。そして慣性に揺られた後、駅に立った。
空気はスッキリ軽く。よかったと何故か思えた。
先ほどの夢の事はだんだんと忘れてきたが、夢で出会った彼のことは、なんとなく覚えている。
かっこいい人だったなぁ……なんて思いつつ、家に帰る。
◇◇
その後の事だ。某SNSを見ていれば、ホラー系の呟きが流れてきた。
その写真は、「その時代にあるはずのない服装の人がいた」という系のホラー写真らしい。
それを見て私は仰天した。
だってその写真に写っていたのは、あの夢の駅で会った彼だったのだから。