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  作者: 櫻庭ちえ
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光ー8

 ココアを大事そうに抱えて飲んでいる美樹に、私は村井綾香との出来事を話した。話している間、美樹はココアのカップから手を放さなかった。

「で、彼女はその生理不順っていうか、結局ストレスが原因だったわけ?」

「まぁ、そうだね。ストレスだったね。来ないって思っていると、ずっと来るはずのものも来なくなるっていうか・・・」

 私の言葉に美樹はうーん、とちょっと考えるような声をあげた。

「そっか」

 美樹は私の話をゆっくりと咀嚼しているようだった。

 彼女は一人で何かを考えている様子で、ココアを一口飲んだ。私も目の前のポットから、残っていたミルクティーを自分のカップに注いだ。

 カップの中でゆれているミルクティーを見つめながら、私は村井綾香のことを考えた。彼女にとって、あの出来事はどんな意味を持ったのだろうか。彼女は子どもができていないということを知って、どれだけの安堵感を持ったのか、私が知ることはないのだ。

「そういえば」

 私はふとある言葉を思い出した。

「何?」

「Dar a luzってどういう意味か分かる?」

 私はスペイン語の熟語について美樹に尋ねた。。

「光を与えるってことだね」

 アメリカ帰りの美樹はスペイン語もお手のものだった。

「直訳するとね。でもね。この言葉、出産するとか、子どもを授かったときに使う単語なんだよ」

 そう、光を与えるという意味のこの言葉は、スペイン語では子ども産むという意味だ。命は光輝くものということから、光を与えるという言葉が使われるようになったのだろう。

「ちなみにポルトガル語もイタリア語も同じなんだけどね」

「なるほど」

 美樹は納得したとばかりに頷いた。

「命は光ということなんだね」

 今度は美樹が自分からそう言った。

 光を与えると聞いて、それが命なのだと瞬時に理解する日本人は少ないだろう。それでも、皆、命が輝かしい価値を持っていることだけは知っている。

 スペイン語、ポルトガル語、イタリア語。どれをとってもおそらく、古くからキリスト教を取り入れてきた国の言葉だ。敬遠なるキリスト教の国々では子どもを途中でおろすことは認められていないのだ。授かった光を、闇に葬ることは禁じられているのだ。

「でも、妊娠することが、必ずしも光輝く未来につながっているとは限らないわけだからね」

 子どもができたことを喜ぶ女性もいれば、それを悲しむ人もいる。

 必ずしも光が、明るい未来を照らすとは限らないのだ。

「私、多分大丈夫やと信じてる。今は」

 突然、美樹がそう言った。

「大丈夫ってどういう意味?」

 私が聞きかえすと美樹は、妊娠してないと信じたいねん、今は。と短く答えた。そしてカップの中のココアを飲み干した。

 今の彼女にとっての光は、妊娠していないことを信じることだ。彼女はまだ、今の彼氏と子どもを育てる準備ができていないと言っていた。

「ところで」

 美樹は小さくため息をついてから言った。

「私が悩んでいることは、中学生の生徒と変わらない問題ってことやんね」

「まぁ、二人とも私のかわいい生徒ってことかな」

 私たち“女”という生き物は、子どもを身ごもる能力を持って生まれたがために、毎月毎月、月のものに悩まされる。そして、月のものがこなくなったとき、それは時に命を授かったことを意味する。そのことに年齢は問われないのだ。命を授かる準備ができた時に、月のものが始まるのだから。

「とりあえず、妊娠検査薬を使ってみて、結果がどちらになったとしても、水曜に病院へ行くことを約束しなさい」

 かつて、村井に言ったときよりも、もっと明確な言葉で私は美樹に言った。

「はい、秋山先生」

 冗談まじりに、でもしっかりと美樹がうなずいた。

 とりあえず明日妊娠検査薬を使ってみて、結果がどうであれ、その翌日には病院に行くことを彼女は約束してくれた。

 結果はどうであれ、美樹は事実を受け入れるだろう。中学生が一人悩んでいるのとはわけが違う。それでも彼女の親しい友人の一人として、美樹が望む結果であることを心のどこかで願っている自分がいた。

 彼女の未来が光で満ち溢れていればいい。そう願いながら、その日は駅の改札口まで彼女を見送りに行った。月曜日だからか、人もまばらな改札口で美樹に手を振って、その日は別れた。


 水曜日の夕方に役員報告を控えていたこともあって、火曜日は美樹のことを気にする暇もなく過ぎ去って行った。

 実際、昨日は日付が変わるころまで会社にいて、美樹がどうなったのかについて考える余裕すらなかったのが本音だ。

 役員報告が無事に終わってひと段落した夕方五時過ぎになってふと、美樹が本当に病院に行ったのかが気になりはじめたのだ。

 美樹はきちんと検査薬を使ったのだろうか。そして病院に行く決意はついたのだろうか。考えれば考えるほど、彼女がどうしているのか知りたくなった。

 とは言え、美樹も私も立派な大人だ。きっと彼女は自分の心が落着いた時点で、きちんと結果を私に伝えてくれるだろうと思い直した。今頃きっと彼女は、産婦人科で検査を受けているはずだ。

「今晩、打ち上げ行くよね?」

 パソコンに向かいながら、自問自答していたところ、同僚に声をかけられて、私は我に返った。

 長い間携わってきたプロジェクトの役員報告が今日、やっと終わった。

「行くつもりです、せっかくですし」

 新しい商品を企画し世の中に出すプロジェクトに入っているため、こうやって度々役員報告をするタイミングがやってくる。

 今回報告したのは、女性向けに出す新しい商品の企画提案だった。女性向けと一言で言うと簡単だが、世の中の女性の心をつかむのはなかなか難しい。

今日役員から無事“了解”との言葉をもらうことができたので、今度は実際に商品化するのが仕事になる。

自分が携わった企画が商品という形になり、市場に出て行くのはなかなかやりがいもあって楽しい仕事だ。新しい命を吹き込んだ商品を、世の中に出していくのが私の仕事だ。

 売れた商品もあれば、なかなか売れずに苦労した商品もある。でもどの商品も生み出すのにたくさんの人とたくさんの労力がかかっていることを、私はよく知っている。

 打ち上げは小さなイタリアンレストランで行われた。

 プロジェクトに参加するメンバー二十名が集まって、今日の報告が無事に終わったことをお互いに祝いあった。

 お店を貸切にしてのパーティで、皆、これまでの苦労を語りあった。

 市場調査から、ニーズの把握。そして市場に眠る顧客のポテンシャルを把握する仕事をずっとこのチームでやってきた。

「やっと日の目を浴びるね、女性向け商品のプロジェクトが」

 長年、商品開発プロジェクトをやっているメンバーがそう言った。

 確かに、女性をターゲットとして商品を出すことについては、これまで様々なプロジェクトチームがチャレンジしてきたのだが、企画時点でどれも了解を得られずに終わっている。

 私が所属するこのプロジェクトチームがはじめて、女性向け商品の企画に成功したのだ。

「これまで数知れない企画が闇に葬られてきたからなぁ。この企画は絶対、形にしないとなぁ」

 偶然、隣に立っていたプロジェクトリーダーがそう言った。

 そのとき、聞き覚えのあるブォーンという音が三回、私のパンツのポケットで鳴り響いた。

 美樹からの連絡だ、と直感が私に知らせる。

 まだ会話を楽しんでいるプロジェクトリーダーたちに会釈をして、ちょっと失礼と何食わぬ顔で化粧室に向かった。

化粧室に入ると、洗面台の前で私は携帯電話を取り出した。

 画面にはメールが来ていることを知らせるマークが点滅していた。マークにボタンをあわせるとタイトルと送り主の名前が出てくる。

 携帯電話の画面には『タイトル:舞子へ 送信者:坂本 美樹』と出ていた。おそらく検査の結果が出たのだろう。

 メールを読む前になぜか私は、小さく祈った。

それは、このメールに書いてある内容が美樹にとって明るい未来であって欲しいと純粋に思う気持ちからだった。


<完>

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