光ー5
私はこの日、そのまま彼氏の家に泊まるつもりだった。
彼氏と会うのは実に一週間ぶりだった。
「夏休みに入った途端会えなくなっちゃうなんて、本当に残念」
私の顔を見るなり、両手で力いっぱい抱きしめて、彼はそう言った。
「勇ちゃん、痛いってばぁ」
勇一とは付き合って半年くらいだ。
大学一年の演習クラスが同じで、好きなミュージシャンが同じという理由で、一緒にライブに行ったりするようになったのがきっかけだった。
大学近くの1Kで一人暮らしをする彼の家に遊びに来るのは、本当に久しぶりだった。彼も学校の先生を目指す人の一人だ。だからこそ、私のアルバイトへの理解もある。勇一は勇一で、塾での個別指導講師と家庭教師のアルバイトをしていた。
塾の先生や家庭教師のアルバイトはお給料がいいという理由でやる学生も多かったけれど、私と勇一はそれぞれ、自分の夢のための架け橋だと思っていた。
だからこそ、塾のハードな時間割にも耐えることができたのかもしれない。
「勇ちゃんだって夏期講習あるんでしょ?」
「あるよ。でも舞子みたいに教壇に立つわけじゃないからねぇ」
塾において、集団授業の教壇に立つことのメリットは、学校さながらの緊張感ある授業を体で覚えられることだが、もちろん予習や授業計画を作るのが大変というデメリットも大いにある。勇一はそんな風に時間をかけるのは、教師になってからでいいと割り切っていて、個別指導とか家庭教師のアルバイトを選んでいた。
「今晩は、ゆっくりワインでも飲もうよ」
久しぶりに勇一と過ごす夜だった。
実家から大学に通っていることもあって、私は彼氏の家にそんなにしょっちゅう泊まりに行ったりはできなかった。
勇一が近所の輸入物を取り扱うスーパーで、美味しい白ワインを買っていた。冷蔵庫の中でよく冷えている。
私と勇一は大好きなイギリスのミュージシャンのDVDを見ながらワインを楽しむことにした。音楽の映像を眺めながら、勇一とソファーに座る。
ソファーの上で、勇一の腕が私の背中を支えていた。勇一の肩に頭を預けると、優しく、彼が私の髪に触れた。彼のしっかりとした腕に身を預けると、私の意識が遠くに去っていくのが感じられた。疲れているのと勇一の体に守られている安心感が、私の心を現実から夢の世界へと誘っていくのが、心地よく感じられた。
遠くで、エレキギターのやさしく、切ない旋律が響いていた。
勇一が私の体に触れるのを感じながら、私は夢の中へ落ちていった。
目が覚めたとき、私はベッドの中だった。勇一の腕が私の首の下にあった。二人ともはだかで眠っていたようだ。
朝の優しい日差しの中で、私は勇一の体を確かめた。
こうやって二人でゆっくり朝を迎えられるって、やっぱり嬉しい、と私はそっとつぶやいた。
勇一はまだ夢の中にいた。彼は私が起きる気配に少しだけ、ぴくっとほほを緩ませたが、すぐにそのまま、すぅすぅと寝息を立てはじめた。
時計を見ると、すでに十時前だった。
久しぶりの寝坊だった。夏期講習の期間は、この時間、すでに塾にいる。
隣で眠る勇一の顔を眺めていると、突然、私の電話がぶぅーん、と短く鳴った。明らかにメールが届いた、という合図だった。
一度ベッドから起き上がって、携帯を手にとると、メールが来ていた。門田先生からだった。
『土曜日の朝にごめん。さっき村井から電話があった。まぁの連絡先をどうしても知りたいっていうから、教えてしまった。事情は本人から話させるから、電話かかってきたら、出てあげてほしい。 門』
少し眠たい目をこすりながら、門田先生からのメールを読み返す。つまりは、村井から電話がかかってくるかもしれない、ということだ。
「何があったんやろうなぁ」
ふと、そうつぶやきながら私はベッドから起き上がった。
起き上がろうとする私を後ろから突然、勇一が抱きしめた。
「もうちょっと、一緒にいようよ」
彼の優しい言葉に、私は思わず振り向いて、そのままベッドにもぐりこんだ。
朝をゆっくり過ごすことほど贅沢なことはない。勇一の背中に触れながら、やさしいあたたかさを感じながら、夢心地だった。
勇一の鍛え上げられた体に触れる度に、胸が高鳴るのが自分でも分かる。
誰かと一緒に時間を過ごすことの楽しさを勇一から学んだと思う。
彼に後ろから抱きつくと、その腕をさらに強く、抱きしめられる。そのちょっと強い力加減が妙に気持ちよく感じて、私はいつしかまどろみの中にいた。
うとうととするこの感覚が、心地いい。
夢の中でゆらゆらとゆれていると、突然、床の上で何かが動き出す音が響いた。
ごごごごごご。ごごごごごご。
小さく揺れるその音は、私の携帯電話から聞こえてきているのだった。
やさしい朝の夢から私を現実へ戻したその音に、少しいらだちながら携帯電話を取ろうとゆっくりと起き上がる。
さすがに勇一も鳴り続ける電話のバイブ音に目が覚めた様子だった。
電話を手に取ると、携帯の表示画面に見覚えのない番号が光っていた。
「えっと。村井から電話がかかってくるんだったかな」
門田先生からのメールが来たのはつい三十分ほど前のことだったのだが、私の中ではすでに昨日の出来事のようだった。
この三十分間、私が見ていた夢はそれほどあたたかく、優しく、時間を忘れさせるようなものだった。
「そうそう。村井だ、村井」
ごごごごごご。ごごごごご。
番号がちかちかと光るのを見て、急に現実に引き戻された。
確か村井から電話がかかってくると、門田先生に言われていた。
私は寝ぼけた声で、でもしっかりと、その電話に出た。
「もしもし」
朝起きてすぐ、そんなに機嫌よく話ができる人はいない。短く電話に出ると、受話器の向こう側で、聞き覚えのある声がした。
「秋山先生」
村井だった。
私は塾で呼ばれているのと同じように、“秋山先生”と呼ばれた瞬間、寒気を感じた。
塾の外で生徒とすれ違うこともある。生徒と親が一緒に街を歩いている時に出会ったこともある。でもこうやって電話越しに直接生徒から電話をもらうのは、実際はじめての出来事だった。
先生によっては生徒に自分の携帯を教えたりしているようだったが、私はあまり公私混同されたくないという理由で、生徒たちに番号を自ら教えるような人ではなかったからだ。
「どうしたの?こんなに朝早くに」
朝早くと言ってから、少しだけ後悔した。
すでに時計は十一時前をさしていた。いつもなら教壇に立っている時間だ。
「先生に相談があるんです」
村井は電話の向こうではっきりとそう言った。
「いいよ。それは電話ですむ話なのかな?」
村井が一言一言を話す度に、私は自分が秋山舞子から、秋山先生になっていくのを感じていた。彼女と話すときは、きちんと一人の先生として向き合いたかった。
「うん・・・」
受話器の向こうで村井が、息を飲むのが伝わってきた。
村井が話し始めるのをただひたすら待つことにした。
数十秒の沈黙のあと、村井が話しはじめた。
「先生」
最初に短くそう言ってから、彼女は一気に話し出した。
「先生、私、妊娠したかもしれへん。どうしよう」
その台詞は短いけれども、しっかりと私の耳の奥に届くものだった。
「え?」
村井の言葉が耳の奥の鼓膜を越えて、私の体の中を通りぬけていくのが分かった。
しばらく、その音が自分の中から消えていくのを味わいながら、私は受話器を再度強く握り締めた。
電話の向こうで泣き声を殺そうとしている村井の息遣いが、受話器を通じて伝わってくるのが分かる。
「村井」
耳から聞こえる声に、自然と私の口が反応した。
言葉を選ぶ間もなく、私は彼女の名前を呼んでいた。普段、塾で彼女を呼ぶのと同じように。
私の声を聞くやいなや、村井はさっきとは全く違う、冷静さも失った声ではげしく泣きじゃくりながら言った。
「そういうつもりは、なかったのに」
いつもの村井からは想像もできないような苦しそうな、そして激しい声で彼女はそう言った。彼女の声の隙間から、泣きじゃくったのであろう、苦しそうな息遣いも一緒に聞こえる。
彼女は誰にも悩みを話せないまま、一体どのくらい、このことを悩んだのだろうか。塾の講師をはじめて二年、こんな経験は初めてだった。
とにかく、村井が静かになるのを待つことにした。
生徒の進路相談をしているときや、生活指導や面談をしているときに、感極まって涙を流してしまう生徒もたくさんいる。そんなときはまず、生徒自身が落着くのを待つように建部先生からも指導されていた。
私は村井に言葉をたくさんかけるよりも、彼女が冷静になれるよう、とにかく話を聞くように心がけた。しっかりと聞こえる声で、相槌を打つ。
普段と同じように接することを心がけていたつもりだったが、不意に、電話を持つ手にも力が入っていることに気がついた。こんな風に話を聞いていたのでは、村井も緊張してなかなか、心を許して冷静になれるわけがない。私は少しだけ、電話を持つ手をゆるめた。
とにかく話を聞くことに一生懸命になっていると、次第に村井の声が落着いてきたのが受話器越しに感じとれた。
彼女は、普段と変わらないゆっくりと、でもしっかりとした口調でしゃべりはじめた。
高校生の彼氏とは、もう付き合って半年くらいになるらしい。
何度か彼と体を求め合ったけれど、月のものがこなくなったのは、はじめてのことらしい。
誰かに相談したくても、親に話しができるわけでもなく、学校の先生にも話せないということから、私に相談するに至ったようだった。たまたま忘れ物をした際に、門田先生が届けてくれたことがあり、彼の電話番号を知っていたのが幸いだったようだ。
門田先生には話しにくいからと、彼を口説いて私の電話番号を聞いたらしい。門田先生には妊娠したのかもしれないかだ、どうしても秋山先生に相談したい、と伝えたそうだ。
村井と話しているうちに、村井の最初の一言が“妊娠したかも”と言っていたことを思い出し、まだ彼女は病院に行ったわけではないのだということもわかってきた。
今の村井に私ができるアドバイスといえば、薬局の妊娠検査薬で、きちんとまず自分の置かれている状況を確認することだけだった。
気がつけば村井との電話は三十分を超えていた。
私は村井が冷静に耳を傾けられるようになったのを確かめてから、私からのアドバイスを伝えて、とりあえず電話を切った。
「はぁ」
思わず深いため息が出た。
ベッドの上で私の電話の一部始終を見守っていた勇一が、私を背中から抱きしめた。
「お疲れさん、秋山先生」
勇一の言葉に、私の中で張り詰めていた何かが切れる音がした。
「勇一・・・」
正直、怖かった。
村井が“妊娠したかも”と言ったとき、一瞬私の頭の中も真っ白になっていた。私が動揺していたのでは、村井も落着いて話をすることができないのだ。そのことを知っているからこそ、私は冷静に対応することに努めたのだ。
勇一にはそれが伝わっていたようだった。
冷静になろうとするあまり、体も心もいつしか強張っていた。気がつくと、さっきまで電話を握っていた左手がかすかに震えているのが分かった。
彼女以上に緊張していたのは、私の方かもしれなかった。
「で・・・」
彼は私を抱きしめたあと、少しいたずらっぽく笑ってこう言った。
「じゃあ、舞子に朝ごはんでも作ってもらおうかな。もう昼ごはん前だけど」
左手をしっかりと握りしめながら勇一が私にそう言った。
彼の言葉が、私の心を日常に連れ戻した。
「わ、ホント。ブランチだね」
時計の針が十二時前を知らせていた。
ブランチには炊き込みご飯と冷やしそうめんを作ることにした。
白米を洗ってから、にんじんと鶏肉、しめじをあわせて炊飯器にセットする。そうめんは湯がくだけですむから、簡単だ。
料理をしている間は、他のことを忘れることができる。
火を扱い、水を扱い、包丁を扱うことで、自然と自分の意識が料理に集中される。危険なものを扱うとき、人は自然とその集中力を発揮していると思う。料理は普段生活している中でも、危険を伴う作業が多い仕事だ。そう考えると、普段私が働いている塾の仕事は危険とは全く正反対の仕事だった。だからこそ、料理が楽しく感じられるのかもしれない。
もともと料理はあまり好きなほうではなかったが、勇一と付き合いはじめてから、彼と一緒に夕飯を食べることが多くなり、自然とするようになった。彼氏ができると女は変わるというけれど、それは本当のことだと身を持って痛感したできごとでもある。
味を想像しながら調味料を合わせていくのも楽しかった。塾の講師という仕事には勉強を教える以外に、いかにクラスの雰囲気をよくするかというクラス運営という仕事もある。クラス運営を考えるとき、生徒の個性と個性をいかに引き出し、いかに活用していくのかが問われるのだ。この仕事は料理の味を決めることととても似ていると思う。素材の味を引き出す調味料を選び、味を調えていくのだ。
「うまそうな匂いだね」
勇一がキッチンにやってきた。
私はこの人に美味しいといわれるために料理を作っている自分に気付く。
塾の講師をしている私は、目の前にいる何十人もの生徒たちのために働いているけれど、この仕事だけは、彼のための仕事だった。
誰かを好きになるということは、自分自身の行動を大きく変えることもあることを、私は勇一を通じて学んでいた。
それはきっと村井も同じなのだろう。
年齢は違えど、彼女もすでに一人の女性だ。特に中学二年生という年齢を考えると、まさに女の子から女性に変わりつつある時期だ。彼女の言動が恋愛に大きく左右されるのも無理はないと思う。
炊飯器が音を立てて、料理の完成を告げた。
私と勇一は部屋の真ん中に置かれた小さな机の上にご飯を並べて食べ始めた。
「うまいよ。これ」
一口食べるごとに、うまいうまいと言ってくれる勇一を本当に愛しく思う。
教壇に立っているとき、授業が面白くても、面白くなくても、生徒たちは私に感想を言うことなど滅多にない。居眠りする生徒がいたり、手紙を書いたり漫画を読んだりする生徒がいたりする風景を見て、私は自分を省みるしかないのだ。
そう言う意味で、今の私には勇一が必要だった。
多分彼が唯一、私を褒めてくれる人でもあった。
村井の家は、近所でも有名な医者の家だった。彼女には確か年齢の離れたお姉さんがいたはずだった。そしてそのお姉さんは去年、現役で有名な国立大学の医学部に入ったはずだった。厳格な家だという噂も聞いたことがある。彼女が本当に妊娠したりしていたら、きっともう家には入れてもらえないということもあるだろう。
ふと、携帯電話を見てみると、まだ着信はないようだった。
「村井さんのことが気になってるんだね」
「うん、ちょっとね」
彼も塾で生徒を抱える身だった。私が生徒のことを想う気持ちを人一倍理解してくれている人の一人だった。
昼食のあと、私と勇一は二人で久しぶりに映画館へ行った。映画を見た後は二人でお茶をして自宅へ帰る。
さすがに外泊を2日連続で続けるのは、難しい。私は両親と暮らしているので家を何日も留守にするわけにはいかなかった。
映画を見ている間は携帯電話をマナーモードにしなければならなかったが、結局、映画を見ている間も、勇一とお茶をしている間も村井からの連絡はなかった。
私も私で、久しぶりのデートということもあって、映画を見ている間は村井のことをすっかり忘れることができた。映画が終わってトイレに行った時にはじめて、自分の携帯電話をあわてて確認したのだ。着信がなかったことを確認して、安堵のため息をついたほどだった。
勇一と別れて自宅に帰る間、電車に乗っているときは本当に村井のことが気がかりだった。私との電話のあと、薬局で妊娠検査薬は買えたのだろうか?確か妊娠検査薬は使うタイミングもきちんと決まっていたから、彼女の場合、使うタイミングを逃してしまっていることだって考えられる。もしかして一人で悩んでいたりしないだろうか。
私が悩んでも仕方がないことはわかっていたけれど、結局電車に揺られている間、彼女のことばかり考えていた。
駅のホームに着いたとき、携帯電話にメールが入ったのが分かった。直感的に、村井からメールがきたのだと思い、携帯を開いた。
『先生、検査薬の結果は大丈夫でした。でも、生理は結局今日もこうへんのです。妊娠検査薬も絶対じゃないっていうし、病院行きたい、私。先生、一緒に行ってくれはりませんか? また明日お電話します。 村井』
よかった、と言う気持ちが私の体中をかけめぐった。彼女が妊娠していない可能性が高くなったということが分かっただけなのだが、それでも十分だった。
彼女が最初に電話越しに言った「先生、私、妊娠したかもしれへん。どうしよう」という言葉がずっと耳の奥にうごめいていたのだが、彼女のメールで、その言葉が一気に空のかなたへ消えて行ったようだった。
村井は病院へ行きたいと書いていたけれど、用心深い性格からなのか、それとも彼女は真実を知りたいのか、その目的までは推測できなかった。
とりあえず門田先生に、村井から連絡があったことを伝えて、私は家路に着いた。