光ー2
二人でもつ鍋屋を後にして、カフェに入った。
美樹とご飯に行くときのお決まりのコースだ。食事をしたあとは場所を変えてから美味しいコーヒーか紅茶を飲むのだ。時にはデザートも食べる。
「舞子、何にする?」
少しクーラーのきき過ぎた店内だった。
「ロイヤルミルクティーみたいなのがあれば」
私は美樹にそう頼んでから、空いている座席を探して座った。
ふと隣を見ると、人はいないが、座席の上にバッグが置いてあるのが目に入った。
その風景に日本は安全だなぁと改めて思う。もしかするとこのバッグには何も金目のものは入っていないのかもしれない。でも、それでも、ヨーロッパでこんな風にかばんを置いて席をはずしたら最後、スリにあうこと間違いなしだ。
美樹とロンドンに一緒に出張した帰り道、空港で日本人観光客がスリにあっていたのを思い出した。この安全な世界は限られているということを、私たちはもっと知っておかなければならないのかもしれない。
それは何も国境だけにとどまらないと思う。
人と人の間にも境目は存在するのだから。他人とどれだけ仲良くなろうとも、私たちは一つにはなることができないのだから。
男と女も同じだ。
両思いだから幸せと思うのはもしかしたら間違っているのかもしれない。
美樹が今悩んでいるのは、二人がお互いを思いあっているからこそ、なのだから。
「お待たせ」
トレイの上にはロイヤルミルクティーがたっぷり入ったポットとココアが並んでいた。
「なんかね」
机の上にトレイを置きながら美樹が切り出す。
「いやぁ、まだ子どもができたわけじゃないんだけど、もし、って考えると、どうしてもカフェインは避けるようにしたほうがいいかなぁとか思っちゃうんだよね」
照れるようにしゃべる美樹の顔は、これまで見たことがない優しさに包まれていた。
もう、彼女はどこかで母親になることの覚悟ができているのかもしれなかった。
「まぁ。子どもができていたら、そうだよね」
彼女の姿を見ながら、私はそう答えた。
「実は今週金曜日、健康診断なんだよね」
「え、そうなの?」
うん、と美樹は頷いてからココアのカップを大事そうに両手で持ち上げた。
「レントゲンとか、危ないよねぇ」
危ないというより、きっと健康診断のときに、レントゲンを取らないで終わるのではないかと思う。
「で、美樹はさぁ、病院にいくつもりはないの?」
さっきから、妊娠検査薬の話はしているけれど、肝心要、彼女が病院にいくのかどうかについては全然聞いていなかったことを私は思い出した。
「多分金曜日なら早く帰れるから、金曜日に行こうと思ってるねん」
「検査の結果がたとえ陽性でも?」
私の質問に美樹は黙り込んでしまった。
「うーん」
天井を見上げながら美樹は考え込んでいる様子だった。
「ねぇ、美樹」
私は真剣に彼女に話しかけた。
美樹も私の落着いた声に、私を正面から見つめ返した。
「自分の体が一番大事なんだから、まず検査の結果が出たら、すぐに病院行くべきなんじゃないのかな?」
私はまるで美樹の母親の気分だった。
「もし検査の結果が陽性だったら、本当に妊娠しているのかどうか確かめないとダメなわけだし。陰性だったら、生理不順になっていることの原因を調べてもらわないとダメでしょ?」
私の言葉に、美樹は無言で大きく頷いた。
一呼吸おいてから美樹は今週、オフィスに自分と課長しかいないから、なかなか早く帰れないんだけどなぁとつぶやいた。
そしてその言葉に答えるように、私は言った。
「こら。仕事は誰でも代わりがいるけれど、美樹は世界で一人しかいないんだから」
さすがに美樹も納得したようで、分かった、そうする、と大きく二回頷いた。
「明日夜にでも、検査薬を使ってみようと思っているから、水曜日に早く仕事終えて病院に行くようにするわ」
美樹が自分の言葉でそう言ったので私は少しだけ安心した。
仕事をしていると、ついつい、休めないから、とか会議があるからとかを理由に有給を取れなかったり、早く帰れないことがある。それは私も同じだ。
でも病気や風邪で休んだとき、誰かが自分の穴を埋めてくれているのも事実だ。
今の美樹にとっては、仕事を休むことよりも、彼女の体の方が大切なはずなのだから。
美樹はさっき自分でそう言っていたのだから。
「あぁ、よかった」
私は美樹が病院に行く決意をしたことが本当に嬉しかった。
そして、ふと、昔の出来事を思い出した。
「なんかね、今ちょっと昔のこと思い出したわ」