83「腹痛」【挿絵あり】
会社勤めを始めて間もない頃、という前置きで、
ある女性から聞いた話。
まだ1人暮らしではなく、実家から職場へ通っていた
彼女は、入社してからしばらくは仕事に慣れず、
疲労困憊して帰宅する日々を送っていた。
「慰めは、家にいたゴローでしたね」
ゴローとは実家で飼っていた犬の名前で、あまり
賢くなく、言い方は悪いがそのバカッぷりを
可愛がられているような雑種の中型犬だった。
家族全員になついていて、家に帰ると玄関先で
庭の小屋からしっぽを振って飛び出してくる。
犬なのに運動神経も悪く、その度によく滑って
転んだりして、その仕草も彼女の疲れを癒していた。
「勤めて半年くらいかな、
変な夢を見るようになって」
夢の中の彼女は真っ暗な世界にいて、それだけでも
不安になるところへ、“ある者”に追いかけられる。
人の形をしてはいるが、顔も格好も分からない。
ただ質感的に薄っぺらい印象で、それが全力で
追いかけてくる。
逃げて逃げて逃げ回り、目が覚めると疲れが全く
取れていない、そんな事が1週間ほど続くと、
さすがに体調も崩れてくる。
「何かもうクタクタになっちゃって。
家族には心配かけないようにしてましたけど、
ふとゴローをなでていたらジッとこちらを
見つめていて。
一応犬だし、何かに気付いているのかな、って」
しかし、それ以外は特に何の反応もせず、
小屋の中へ戻っていった。
「それで、その夜なんですけど……
また、あの夢を見たんです」
真っ暗な世界、そして追いかけてくる
異形のモノ―――
夢の中まで体力が落ちているようで、
段々とその距離は縮まっていく。
「今まで捕まった事はないけど、
もし捕まったら―――」
初めてそんな考えが頭に浮かび、それは本能的な
恐怖となって彼女の体を突き動かす。
意志とは裏腹に、どんどん手足が重たく
なっていって―――
もう少しで捕まる! と思った瞬間、目の前の暗闇が
パカッと開いた。
「本当にこう、いきなり扉が現れて開いたというか。
でも、その開き方が何かこう」
彼女は手の甲を上にして水平にすると、
親指以外の4本をぴたりとそろえて、
下の親指とくっつけたり離したりした。
それは、彼女の背丈ほどもある口だったという。
人間の口ではない事は、中にある牙が物語っていた。
あまりの事にその場にへたり込み―――
もうどうする事も出来ずにいた、次の瞬間。
「その口が、頭の上を通り越して、そのまま
後ろへ」
そして背後から、何かを噛み砕き、引き千切る音が
聞こえてきた。
同時に、“ぴぃ、ぴいぃ”という人とも獣とも
つかない断末魔が―――
何が起きているのかは充分に想像出来たが、怖くて
振り向く事は出来なかった。
気付いたら、そのまま朝を迎えていた。
布団の中ではなく、なぜか玄関前の廊下に横たわって
いたという。
靴置き場には、外にいるはずのゴローがいた。
「台風や酷い雨の日には家に入れる事もあったから、
誰かが入れたのかな、と思ってたんですけど」
よく見るとゴローの様子がおかしい事に気付いた。
どことなく元気が無く、グッタリしている。
その日は会社を休んで、動物病院へゴローを
連れて行った。
「また変なもの食べちゃったのかな、ゴロー君は」
ゴローは、拾い食いをしてお腹を壊した
経験があった。
何度もゴローを診ている獣医さんは、急いで
レントゲンを撮る準備を始め、ゴローを診察台へ
乗せる。
しかし、出来上がった写真を見て、彼は首を傾げた。
「何だろう、これは。
何か飲み込んじゃったのかな?」
白黒のレントゲン写真には、小さく角ばった黒い塊が
写し出されていた。
それほど大きな物ではないので、取りあえず病院では
薬で下してみる事にして、万が一容態が悪化したら、
すぐに受け入れる約束をしてくれた。
彼女の心配をよそに、ゴローの体調はフンが出た途端
ケロリと治った。
何を食べたのかと気になって、出てきたフンを調べて
みたところ、炭のように真っ黒な木の破片みたいな物が
出てきた事以外は、何もわからなかった。
結局、それはフンと一緒に捨ててしまったという。
「でも、あの日以来悪夢も見なくなったんです。
やっぱりゴローが何とかしてくれたのかなって」
その後、彼女たっての頼みで、ゴローは室内犬として
家の中へと入れられた。
ただ、あの日誰が玄関にゴローを入れたのかは
わからず、今でも謎のままだという。