弟 8
ぎこちない空気が、みのりと蓮見を包む空間を支配する。すると、それを振り払うかのように、蓮見が口を開いた。
「それでは、今日はこれで…。お忙しいところ、お手間をかけさせてしまってすみません。」
「…え、……もう、お帰りですか?」
このところ伊納のしつこい誘いをかわしているみのりにとって、蓮見のこの淡白さは思いがけなかった。拍子抜けしてしまって、みのりは思わず引き留めてしまうような返答してしまっていた。
「はい。本当ならお食事にでもお誘いしたいところなんですが、僕もこの後、いつ終わるか分からない仕事が残ってますし。…みのりさんが元気にしているかどうか、ちょっと会いたかっただけですから。」
「はあ…、そうですか。」
と、みのりが少しホッとして頷いたその時、玄関横の階段を生徒が降りてきて、みのりは不意にそちらへと視線を向けた。
降りてきたのは、こともあろうに愛と俊次。これから部活に行こうというところで、ちょうど一緒になったのだろう。
みのりに気づいた二人は、みのりよりも蓮見の方に目が釘付けになっている。極まりが悪く、焦ってしまったみのりは、思わず二人に声をかけた。
「今から部活?頑張ってね。」
いきなり声をかけられた二人は、不意を衝かれて目を丸くする。
「はい。頑張ってきます。」
辛うじて愛はそう返答したが、俊次は何も答えず、みのりの向かいに立つ蓮見から目を離せなかった。
生徒昇降口で靴を履き替えて、ラグビー部の活動が行われる第2グラウンドへ向かう途中、俊次が口を開く。
「あれ、みのりちゃんの彼氏かな…?」
「え…っ!彼氏?」
俊次からそう訊かれて、愛は戸惑ったような声を上げた。
そして、以前みのりが叶わない恋に切ない涙を流していたことを思い出して、考え込む。
どう見ても先ほどのみのりは、〝心の底から好きになった人〟と会っている雰囲気ではない。それに、仮に〝彼氏〟ならば、あんなふうに玄関先で会ったりせずに、ちゃんとデートをするだろう。
「…いや、彼氏じゃないと思う…。」
はっきりした理由は解らないけれども、愛は確信していた。
「彼氏じゃないとしても、インテリな感じで背が高くって、すっげーイケメンだったな…。」
ポツリと放たれた俊次の言葉を訝って、愛はまじまじと俊次を見上げた。
確かにみのりの傍に立つ蓮見の姿は、知的で清廉で、綺麗な印象さえ受けるハンサムな大人の男だった。みのりの透き通るように可憐な美しさと相乗して、まるで二人の周りだけ異空間のように感じられた。
「なあに?もしかして、あんた。さっきの人と張り合ってんの?」
愛の言わんとしていることを理解した瞬間、俊次の顔が真っ赤になる。
「ばっ…!バカ言うな!!なんで俺が…!!」
「バカなのはそっちよ。あんたみたいなヒヨッコが、あんな大人のイケメンと張り合っても虚しいだけじゃない。」
「なに、勝手に決めつけてんだよ?!ええっ?!」
俊次は顔から湯気が立ち上がらんばかりに、憤慨している。怒るところを見ると、愛の指摘したことは図星だったようだ。
災難が降りかかる前に、愛は肩をすくめて、俊次の側から走って逃げ出した。校門前の道路を渡り、第2グラウンドの入口で愛は振り返り、口の横に手を当てて俊次に向かって叫ぶ。
「みのりちゃんに気に入ってもらいたいんなら、ラグビー頑張って、もっとオトコを磨きなよ。」
踵を返して部室の方に駆けていく愛を、不穏な目つきで見据えながら、俊次はつぶやいた。
「…くそ―…。言われなくても、頑張ってやるよ。今に見てろ…!!」
第2グラウンドの入口に植えられている桜も、初々しい葉っぱが覗き始めている。咲き遅れた花のひとひらの花びらが、若葉を渡った爽やかな風に巻きあげられ、まだ真新しい俊次の学生服の肩に舞い降りた。
けれども、俊次はそれには気づかずに、ゴールポストの立つ第2グラウンドへの道を踏みしめた。
遼太郎がかつて、毎日そうしてきたように――。




