弟 7
「みのりちゃん。ありがとう。」
次の日の放課後の職員室。背後からかけられた声にみのりが振り返ると、そこにはジャージ姿の愛が立っていた。
何のことか分からず、みのりが首をかしげる。すると、愛が満面の笑みで続けた。
「狩野くんのこと。突然昨日、入部したいって部活に来たの!」
「ああ、そのこと!」
みのりも笑顔で応えながら頷いた。
「心境の変化をいろいろ訊いてみても、狩野くんは何も答えてくれなかったけど、やっぱりみのりちゃんが説得してくれたんだ。」
「説得っていうか、ちょっと話をしてみただけなんだけどね。」
「でも、そのおかげでラグビー部に入ってくれたから、みんな喜んでるよ。…ま、練習のキツさにめげて辞めなきゃいいけど。」
「そのことも、昨日ちょっと話をしたんだけどね…」
と、会話が続いていた時に、3年部の内線電話が鳴り響いたので、一番近くにいるみのりが受話器を取る。
『仲松先生に、お客様がいらっしゃってます。正面玄関で待っていらっしゃるので、降りてきて頂けますか?』
事務室からの連絡を受けて、受話器を置いた瞬間、みのりは相手の名前を聞かなかったことを後悔した。
親しい人ならば、直接携帯電話へ連絡をしてくるはずだ。こんなふうに呼びだされる人物に全く心当たりがなく、戸惑いと不安が立ち込めてくる。
その時、みのりの心をかすめたのは、――遼太郎だ。
遼太郎に会うわけにはいかないと思うけれども、人目に付く事務室前の正面玄関で待ちぼうけさせておくわけにもいかない。
『遼太郎のはずがない…』と、自分の思考を振り払いながら、愛との会話はそこそこにして、みのりは正面玄関へと向かった。
階段を下りていると厄介なことに、階段を上ってきている伊納とバッタリ出会ってしまった。みのりは思わず、そのまま回れ右して階段を駆け上がりたくなる。
「あれっ…?どこに行くの?」
みのりを一目見た瞬間、伊納の不自然に白すぎる歯がキラリと光った。そして、案の定、みのりにまとわりついて一緒に階段を下り始めた。
「ちょっと、事務室に…。」
と、短く答えながら、みのりは伊納をまこうと足早になる。
「事務室に何の用?俺も今、提出し忘れていた書類を持っていったんだ。」
しつこく絡んでくる伊納に、みのりは辟易して業を煮やした。伊納除けの古庄も、こんな時には通りかかってくれない。心中穏やかでないときに、これ以上余計な心労をかけないでほしかった。
イライラがピークに達して、伊納に一言苦言を呈そうかと思った時、みのりの目に玄関にたたずむ一人の男性が入ってきて、もう意識から伊納はいなくなる。
スーツ姿を見て、『遼太郎ではない』とホッとするどころか、『石原ではないか』と、ビクッと一瞬鳩尾に冷たいものが落ちた。
が、そうではなかった――。
「みのりさん。お久しぶりです。」
清潔で爽やかな容姿に似つかわしい澄んだ笑顔で声をかけられて、みのりだけでなく伊納も固まった。
「……蓮見さん……。」
みのりがそれに答えると、自分の居場所はないと覚った伊納は、しっぽを巻いて退散した。
伊納がいなくなっても、ほぼ1年ぶりに会う蓮見に、みのりは何と言って言葉をかけていいのか分からない。
チラチラと覗かれる事務室からのガラス越しの視線も気になる…。
「…お、お久しぶりです…。」
とりあえずみのりは、ぎこちなく頭を下げる。すると蓮見は、その爽やかな笑顔に苦さを加えた。
「…『何でお前がここにいるんだ?!』…って、顔をしてますね。」
蓮見に心の中を言い当てられて、みのりはそれを否定することもできず、返す言葉が見つからない。
「驚かせてしまってすみません…。でも、なかなかお会いできる機会もないし、ちょうど取材で近くまで来たので、ちょっとお顔を見に寄らせて頂きました。」
そう言いながら、蓮見はその言葉の通り、みのりの顔をじっと見つめた。
会う機会がなかったのは、みのりにその気がなかったからだ。あのお見合いをした後、何度か蓮見からの電話があったのにもかかわらず、みのりはことごとくそれらを無視した。
そんなみのりの失礼な態度など忘れ去ってしまっているかのように、蓮見は優しい表情でみのりを見つめてくれている。
けれども、ここは学校の正面玄関だ。そんな眼差しを注がれると、事務員たちからも訝しがられる。
みのりは落ち着かなげに首からかかる身分証を胸元でいじりながら、何とか〝何でもない知人〟を装おうとした。
「…蓮見さんは、お元気でした?」
みのりのこの一言に、蓮見はいっそう優しげに微笑む。
「はい。仕事で生活は不規則なんですが、何とか元気にやってます。…みのりさんは?」
「私も相変わらずです。病気をする暇もないほど、忙しくしています。」
「そうですか…。」
と、蓮見が頷くと、それ以上会話は弾むことなく途切れてしまった。




