弟 6
俊次は自分の足元を見つめながら唇を噛み、しばらく考えていたが、
「…うん、分かった…。」
と、短く言って頷いた。
素直に話を聞いてくれたので、みのりもホッとして息を抜いた。
「いろいろ勧誘されてるから、どの部にしようか迷っちゃうけどね。入るとしたら、どの部に入ろうと思ってるの?」
「うーん……」
みのりからの問いかけに、俊次は考え込んで首をかしげる。みのりはその表情を読んで、俊次の思考を予想して続けた。
「もっと本格的に野球に取り組みたいなら、野球部もいいし。他にできるスポーツを増やしたいなら、野球じゃない部もいいかもね。私としては、ラグビーファンだから、ラグビー部に入ってもらいたいけど。もし俊次くんがラグビー部に入ってくれたら、私必ず応援に行くわ。」
ピクリと俊次の体が反応した。そして、不安げな目でみのりを捉える。
「…ラグビーだと、兄ちゃんと比べられそうで、嫌なんだ……。」
かつての遼太郎のラグビー部での存在感は、俊次も感じ取っているところのようだ。弟だからと言って同じ期待を寄せられたら、しんどく感じてしまうだろう。
大きな体に不似合いなほどの繊細な感情に、みのりは言葉を逸して俊次を見つめ返した。それからニッコリと、笑顔になる。
「そうね。初めはそうかもしれない。でも、すぐに俊次くんは俊次くん、違う個性を持った選手だって分かったら、比較もされなくなると思うし。ラグビーは役割が細かく分かれてて、個性に合わせてそれが割り当てられるから、ポジションが違えば、あまり比べられることもないんじゃないかな。」
「…でも、ラグビーの練習って、すごいきつそうだし…」
まだ奥歯に何かが引っかかっているような俊次の言葉を聞いて、みのりは可笑しそうに笑いをもらす。
「スポーツをしない私が言うのも変だけど、練習がきつくないスポーツってあるのかな?それでも、俊次くんのお兄さんが、あれだけラグビーに熱中したのはどうして?知りたいと思わない?…それに、私は俊次くんがラグビーしているところ見てみたいな。」
一点の曇りもないみのりの笑顔を見て、俊次はしばらく考え、自分の気持ちを確かめているようだった。
そんな俊次を、みのりはもう何も言わず、ただ見守った。自分の熱意が、俊次に伝わっていることを信じて…。
そして、おもむろに俊次は目を上げてみのりを捉え、つぶやいた。
「俺が試合に出たら、必ず応援に来てくれるんだよな?」
その言葉の意味を考えながら、みのりが顔を輝かせて答える。
「もちろんよ!」
その約束をしたことで、俊次はラグビー部に入ることを確約したようなものだった
決意を固めた俊次が、気を取り直したように青空に向かって大きく伸びをする。
「あーあ、兄ちゃんにシゴかれるのは嫌だけど、しょうがないか…。」
「お兄さんに…?」
「そう、俺の兄ちゃん、狩野遼太郎。みのりちゃんも知ってんだろ?」
その名前を聞いた瞬間、みのりの体に震えが走った。
それは紛れもなく、昼も夜も四六時中みのりの心に住み続ける愛しい人――。
まさにこの場所で、みのりを好きだと言い、優しく抱きしめ、キスをしてくれた人――。
突然、みのりの胸は切なく痛みだして、息が出来なくなる。
「……遼太郎くんは…、元気にしてる…?」
遼太郎の名を口にするだけで、声が震えそうになる。その震えを隠しながら、苦しい息を押し殺して、辛うじてみのりはそう訊いた。
訊いてしまうと、もっと鮮明に遼太郎を思い出して、もっと切なくなることは分かっていたけれども、訊かずにはいられなかった。
目の前にいる俊次は、まさしく遼太郎の弟で、みのりと別れた後の遼太郎を知っている一人だから。
「元気、元気!元気すぎるよ。兄ちゃん、帰省してるときはラグビー部の練習を手伝ってて、ほとんど家にいないし。東京でもラグビースクールのコーチになったとかで、休みは相変わらずラグビーばっかり。」
「……そう…!」
俊次の少しおどけるような言い方に、みのりの気持ちも少しまぎれて、ほのかな笑顔を作れたが、体の奥から湧き出してくる震えがどんどん大きくなり、抑えられなくなってくる。
「じゃあ、みのりちゃん。俺、これから入部届出して、部活行ってくる!」
と、遼太郎によく似た切れ長の目で微笑みながら、俊次が職員室の方へと走り去って行く。
俊次の背中が見えなくなると、みのりが必死で隠していた感情の緒が切れた。
「………遼ちゃん…!」
無意識にそうつぶやいた瞬間、堪えきれなくなった涙がこぼれ落ちる。
両手で顔を覆い、震える唇をきつく噛んで、遼太郎への切なく愛しい想いが、喉元にせり上がってくるのを懸命に押しとどめた。
自分の心が、まだこの場所から一歩も踏み出せていないことを、思い知らされる。
だけど、遼太郎はちゃんと歩き出している――。
遠い空の下で、元気に暮らしていっている――。
それだけは何にも増してとても嬉しくて…、涙が溢れて止まらなかった。
誰もいなくなった放課後の犬走りで、みのりはただ独り、遼太郎を想いながら涙を拭い続けた。




