弟 1
麗らかな陽射しがあふれる放課後、みのりはふと渡り廊下に佇んだ。
窓から眼下に咲き誇る桜に目を奪われ、窓を開けて、桜の梢を渡った柔らかい風を胸に吸い込む。
みのりの心はあの時のまま、何も変わっていないのに、季節はまた巡り、また新しい春が来て、取り巻く環境だけは変化していく。
今年は3年生の担任を任された。これから怒涛のような一年が待っているけれども、今のうちは、まだこうやって桜を愛でることもできる。
美しいものを見て心が震えると、キリキリと胸を締め付ける痛みも伴ってくる。
遼太郎を想う心は、同じように純粋なものだから、こんな澄んだ感動とはいつも隣り合わせだ。
遼太郎への想いは、花のように色あせることも、散ってしまうこともなく、ますます色濃く深くなっていく。叶えられない想いは切ない痛みをともなうけれども、その痛みを、みのりはいつもそっと胸にしまい込んだ。
この痛みこそ、遼太郎がみのりの中で生き続けている証拠だから。
遼太郎がこの胸の中に存在してくれていなければ、生きていけない――。それに気が付いたみのりは、切ない痛みとも少しだけ上手く付き合っていけるようになっていた。
穏やかな空気の中に、一滴のざわめきが落とされる。
まだ新生活に不慣れで初々しい1年生たちを押し退けて、一人の男子が廊下を一心不乱に走ってくる。
「みのりちゃん!」
突然、女の子に大声で呼ばれて、みのりは声のした方を確かめた。思った通り二俣の妹の愛が、廊下の向こう側から、血相を変えてこちらへと向かっていた。
「みのりちゃん!…そいつ!!そいつを捕まえてっ!!!」
『そいつ』というのは、今まさにこちらへと走ってきている男子のことだろうと、みのりはとっさに判断し、反射的に両手を広げて立ちはだかった。
走る男子は、突然目の前に現れた障害物に対して目を剥いたが、避けることも止まることもできなかった。
「わわわ……っ!!」
みのりが声を上げるのと同時に、勢い余った男子は、みのりの方へ突っ込んでくる。
例によってドンくさいみのりは、これに対応できずに、バランスを崩して後ろにひっくり返った。さらに、巻き添えをくったその男子が一緒になって倒れ、みのりは大きな体の下敷きになった。あまりの痛さと苦しさに、みのりは声も上げられない。
「みのりちゃん!ナイスタックルー!!…って、あんた、みのりちゃんを潰しちゃってるじゃないの!!」
と、愛が言っている側から、その男子は立ち上がり、再び逃げ出そうとする。すかさず、愛がその腕を捕まえると、その男子も観念したように大人しくなった。
「もう!逃げ回らずに、ちょっと話くらい聞きなさいよ。」
「話って…!どうせ、部活に入れって話だろ?もう!うんざりなんだよなぁ~。」
そんな会話を聞きながら、みのりがようやく立ち上がり、その男子の顔をチラリと見上げた。
その瞬間、みのりは倒れた痛みもなくなり、自分の中の全てが止まった。心の琴線が弾かれて、息をするのも忘れる。
切なく愛しい記憶の中にある、あの切れ長の優しげな眼――。
「……もしかして、…狩野くん?」
みのりに名前を呼ばれて、その男子は目を丸くした。
「…何で、俺の名前知ってんの?」
初対面のはずだし、1年部の教員でもないみのりを、まじまじと見つめる。
「お兄さんの狩野くんから、4つ年下の弟がいるって聞いてたし、面影も似てるから。…ええと、『俊次』くんだったっけ?」
みのりがそう言ってニッコリ笑いかけると、優しく名前を呼ばれた俊次は、思わずみのりの笑顔に見入って言葉をなくした。




