誠意と愛情 8
「…私は、狩野くんにとって、その程度の存在なんだ…。狩野くんは、私よりもラグビーの方が大事なんだ…。」
「そうじゃない。比べる対象なんかじゃないし、茂森さんのことは大事だって思ってる…。」
「本当に…?!本当にそう思ってる?」
彩恵に念を押されて、遼太郎は口ごもった。彩恵の怒りを治めるために気休めを言っていることは、見透かされていた。
これ以上、遼太郎は何も言えなくなる。逆に、そんなふうに何も答えない遼太郎に、彩恵はますます不安を募らせ、業を煮やす。
「……本当にそう思ってるのなら…。」
彩恵は震えている唇をキュッと噛んで、続く言葉を少しためらった。
「私のことが好きなら……キスして。」
彩恵への愛情を量る決定的な要求をされて、遼太郎は立ちすくんだ。息が浅くなり、自転車のハンドルを握る手に力が入る。
遼太郎の行動を待つ彩恵の視線と、遼太郎のそれが複雑に絡み合った。
ここでキスをすれば、彩恵の興奮は収まるのかもしれない。……でも、彩恵はいずれ、その行為さえも疑うようになるだろう。
それに、遼太郎はすでに、キスの意味を知ってしまっていた。
キスはこんな気持ちでするべきではないことを。溢れ出てくる愛しさを伴わなければ、ただの虚しい行為だということを。
そして何よりも――、みのりに触れた感覚の残るこの唇で、他の女性に触れたくなかった。
「ごめん……。今は……できない。」
遼太郎のこの答えを聞いて、彩恵の顎が目に見える形で震えてきた。次々と流れ出してくる涙は、彩恵の頬を濡らした。
それをどうしてあげることもできずに、遼太郎はやるせない気持ちで見つめることしかできない。
彩恵は震える口を動かして、ようやく言葉をしぼり出す。
「……わかった。…もう、いい……!!」
そう言い残して、くるりと体の向きを変えると走り出した。
公園の出入口を出て、駅の方へと走り去っていく後ろ姿を見送りながら、彩恵を傷つけてしまったことを痛感して、遼太郎の心は苦しくなった。
このまま、こんなことを続けていていいはずがない。これ以上一緒にいると、もっと彩恵を傷つけてしまう。
いや、初めから、付き合ったりしてはいけなかった。どんなに想いをかけてもらっても、それに応えられないことは、分かり切っていた。考えてみれば、自分はずいぶんひどいことを彩恵にしてしまった…。
こうすることがみのりから課された〝宿題〟だったとしても、自分は付き合ったふりをしていただけだった。〝宿題〟をするために、彩恵を利用したと言ってもいい。
そしてそれは、みのりの本意とする〝宿題〟ではなかっただろう。こんなに彩恵を傷つけてしまうことを、みのりが望んでいるはずがない。
――…茂森さんに、謝らなければ…。
また、謝ってばかりと、責められるだろうか?
それでも、謝らなければならないだろう。たとえ許してもらえなくても。
そうは思ったけれども、遼太郎は彩恵を追いかけることはせず、自転車の向きを駅とは反対方向に変えた。
今は、まだ話せない。あのように興奮した状態の彩恵に、もう『終わりにしよう』という話は――。
別れを決意したものの、そのまま冬休みに入ってしまい、彩恵には会う機会がなくなってしまった。遼太郎はなかなか彩恵に連絡をする勇気が出ず、そのことを切り出せないまま、時だけが過ぎていく。
あんなに毎日のようにメッセージが届いていた彩恵からも、あれ以来ぷっつりと連絡が途絶えてしまった。
ラグビースクールの合宿も予定通り、充実した内容で無事に終えることが出来た。
子どもたちはもとより、他のコーチたちとも腹を割って打ち解けられて、東京で信頼できる人が増えたことは、遼太郎にとって、かけがえのない財産となった。
合宿が終わると、もう暮れも押し迫り、追われるように芳野へと帰省した。
芳野へ帰っても、相変わらずラグビー部に顔を出して、練習に付き合う毎日。それでも、ラグビーボールを持っている間だけは、やっぱり心の中のモヤモヤしたものを忘れていられる。
そして、あっという間に年が明け、毎年恒例のOB会が行われた。初めてOBとして参加するこの会で、二俣や衛藤など懐かしい仲間たちと数試合を楽しみ、思いっきり体を動かすことが出来た。
現役の時を思い出して、今のコーチとしての立場に、少しだけ物足りなさを感じる。久しぶりに作った膝小僧の擦り傷も、却って心地よいくらいだ。
楽しかったOB会はお開きになり、片付けも済むと、皆それぞれ帰途に着き始めた。
誰もいなくなった第2グラウンドを吹き渡る寒風に顔を洗われ、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
心がリセットされて初めて、遼太郎は、芳野高校の職員室を見上げられた。
職員室は、正月だというのに明かりが灯っている。センター試験が間近なので、正月返上で模試の類を行っているらしい。
――あの渡り廊下に行けば、きっと先生に会えるに違いない…。
そんな思いが心に過ると、両方の手のひらが熱くなって、遼太郎は意識せず、拳をきつく握りしめていた。
みのりに会いたいという衝動を、そうやって必死で抑え込む。満たされない思いを埋めるように、自分の中に残るみのりの息吹を探した――。