恋の正しさ 6
「……会いたかったよ。みのりちゃん。」
やっと石原は口を利いてくれたが、みのりは安心するどころか、その深い声色を聞いて体がますます強張った。
「会いたくて、会いたくて。気が狂いそうだった……。」
そう言いながら、石原はみのりに歩み寄り、かつてのように肩を抱こうとする。しかし、みのりはそれを拒もうと、肩をすくめて後ずさった。
「……どうして、私が連絡しなくなったのか、解ってますよね?」
「解ってるよ。……不倫はもうやめたい……。そう思ったんだよな?」
みのりは身をすくめたまま、こくんと一つ頷いた。
「だったら、不倫じゃなくすればいい。嫁さんとは別れるよ。」
石原と別れて、一年以上もの時間が経つ。その長い時間をかけて、考えた上で出した答えだったのだろう。石原の言葉の中には、迷いがなかった。
けれども、みのりは自分の耳を疑った。そして、とてつもなく大きな焦りがせり上がってくる。
「何を言ってるんですか!ダメです…!そんなこと!!私のせいで、石原先生の家族が不幸になることはありません。今、手の中にある幸せを、どうして壊そうとするんですか?私は……、そうならないためにも、あの時会うのをやめたんです。」
「君にそういう態度をとられて、はっきり分かったよ。自分がどれだけズルいことをしていたのかって。」
「それで、どうして奥さんと別れることになるんですか?娘さんはどうするんです?父親が不倫をした挙句離婚したなんて…、娘さんに一生消えない傷を残します。」
「もちろん娘には悪いと思うけれども、こんなに君を想いながら、何も感じられない女と一緒に暮らす虚しさは、もう終わりにしたい。」
この非情な言葉に、みのりは絶句する。石原を説き伏せるのは難しいと、絶望感に襲われる。
あの時、みのりが一方的に別れを決めただけで、石原の中ではあの時のまま何も変わっていなかった。逆に、逃げて行ったみのりを何とかして取り戻そうと、あの時以上に必死になってみのりを追い求めている。
――…やっぱりあの時、きちんと話をして別れるべきだった……。
そうすれば、石原はこんな気持ちを抱えて、一年以上も苦悶せずに済んだはずだ。みのりは返す言葉が見つけられず、唇を震わせた。
「……君のことが好きだ。何にも増して……。」
石原はそう言いながら、みのりの髪を掻き上げて、耳の後ろへとかけた。
かつては、どれだけみのりが望んでも、絶対に口にしてくれなかった言葉だ。
でも、今更そんな言葉を語られても、もうみのりの心には響かなかった。あれから時が経って、いろんなことがあって、みのりの心は変わりすぎてしまっていた。
みのりはビクンと身をすくめて、更に後ずさりしようとしたが、長机に阻まれて半歩も下がれなかった。
唇だけではなく、体中に震えが走る。この状況にどう対処すればいいのか分からずに、涙だけが溢れてきた。
「……そんなふうに、奥さんと娘さんを裏切って、私と一緒にいても石原先生は幸せになれません。今ならまだ何もなかったように、元に戻れます。」
髪を撫でられながら、みのりは必死に説得した。けれども石原は首を横に振るばかりだ。
「今だって、幸せじゃない。」
「それは気持ちの問題です。私にこだわらなければいいんです。」
みのりがそう言い切ったのを聞いて、石原は弾かれたように、力強くみのりの肩を掴んだ。鋭く悲痛な眼差しでみのりを貫き、感情の高ぶりに任せ唇を震わせる。
「…愛してる。君を愛してる…!こんな気持ちは他の誰にも感じたことはない。俺には君しかいない!」
みのりがこの言葉を聞いた瞬間、唇が重ねられていた。
とっさにみのりは石原を押し退けようとしたが、石原はその腕に一層の力を込める。キスから逃れようとしても、更に後頭部を押さえられ引き寄せられて、顔を背けられない。
――……いや!助けて!……遼ちゃん……!!
みのりは心で遼太郎を呼びながら、それ以上キスが深められないように、唇を硬く引き結ぶしかできなかった。
激しいキスから解放されたにも関わらず、みのりはその身体をガタガタと震えさせた。感情の制御が利かず、涙が止めどもなく流れ出してくる。
かつては好きでたまらなかった人の腕の中にいるというのに、みのりの心の中は遼太郎でいっぱいだった。みのりの心も体も、遼太郎以外は受け入れられなくなってしまっていた。
だから、何としても、このまま石原の激情に流されるわけにはいかない。




