ライブの夜 1
薄暗いその空間に足を踏み入れるとき、遼太郎の心臓は緊張のあまりドキドキと鼓動を打った。
「ドリンク、ワンオーダー制となっております。」
バーにいたお姉さんからそう言われて、遼太郎はあたふたと財布を取り出して、アルコール…ではなくコーラを注文した。そのコーラを片手に、遼太郎がきょろきょろと辺りを見回していると、樫原の声が後ろから響く。
「狩野くん。こっちこっち!遅かったね。もうすぐ始まっちゃうよ。」
樫原はテーブル席の一つを占有して、きちんと遼太郎の分の席も確保してくれていた。
「いや…、下北沢に来るのって初めてだったから、駅からここまで、ちょっと…どころか、かなり迷ってしまって。」
下北沢どころか、遼太郎にとってライブハウスに来ること自体、初めての体験だ。
「確かに、ここってちょっと分かりにくいかもね。どこかで落ち合って、一緒に来ればよかったね。」
ニッコリ笑う樫原の表情は、相変わらず屈託がなく、まるで少女のようだ。
出会った当初は、この樫原の女の子っぽい仕草にいちいちゾワゾワしていた遼太郎だったが、最近ではずいぶん慣れ、普通の会話が出来るようになってきた。
遼太郎はひとまず落ち着いて、コーラをゴクゴクとのどに注いだ。
駅からここを捜し当てるまで、優に30分は歩いている。夕方とはいえ、まだ強い日射しの夏の太陽に照り付けられ、遼太郎の喉はカラカラだった。
樫原は上下に動く遼太郎の喉仏をうっとりと眺めていたが、その向こうのフロアにいる数人の女の子に気が付いて手を振った。遼太郎も振り返って、樫原の視線の先を確かめる。
「……知り合い?」
「え!狩野くん、忘れたの?環境学部で同じクラスの女の子じゃない。一緒に遊びに行ったりしたでしょ?」
「…え、そうだったっけ?」
樫原にそう言われても、遼太郎は、もう夏休みに入ったというのに、大学の女の子の顔はほとんど覚えていなかった。
同じような髪の色と形、似たような服装をしていて、遼太郎の目には判で押したように皆同じに見えてしまう。
「きっと、晋ちゃん目当てで来てるんだよ。」
それを聞いて、遼太郎は納得した。
この数か月、樫原が『晋ちゃん』と呼ぶ佐山と一緒にいて、彼がモテることを目のあたりにしている。
高3の時、同じクラスだった平井もとにかくモテていたが、佐山は平井のように、ただ〝顔がいい〟というわけではないらしい。内側から滲み出るような、なんとも言えない魅力がある。中学生の頃からバンドをやっていて、何よりも感性を磨いてきている。
こうやってちゃんとしたライブハウスで、チケットを売ってライブが出来るほどの実力を兼ね備えているのだから、女の子たちが佐山に惹かれるのも当然だ。
そうしている内に、薄暗かった会場は、照明が落とされ真っ暗になった。鳴り響いていた賑やかな音楽も止み、騒然としていた空気が一瞬鎮まる。これから始まる昂揚感が徐々に高まって、待ちきれずに「晋ちゃーん」と呼ぶ女の子の声が響き始めた。
スポットライトでステージが照らし出され、バンドのメンバーたちが小さなステージに姿を現すと、「キャ――ッ!!」という歓声が沸いて出る。
ドラムステッキの合図の音が鳴り、ギターを弾きながらマイクの前に立つ佐山の歌声が響いて、遼太郎は全身にゾクッと鳥肌が立つのが分かった。
佐山はいつもと同じ眼鏡をかけ、特別なステージ用の衣装などではなく、普段と同じジーパンとTシャツ姿だが、レンズの向こう側の目つきが違っていた。
いつもはちゃらんぽらんな感じさえする佐山だが、今日はまるで何かが憑依したようだ。そんな佐山の顔つきの変わりように、遼太郎は驚いて息を呑んだ。
歌うのは、正統派のハードロック。佐山がギターをかき鳴らして演奏するサウンドは、とても男っぽく重厚感があり、男の遼太郎が聴いてもカッコいいと思う。ライブに来ているのが佐山目当ての女の子ばかりではなく、男性ファンが多いのも頷ける。
フロア全体は非日常の熱気を帯びて、バンドの延いては佐山から醸されるオーラが支配した。
遼太郎は、初めて間近で見るライブの勢いに圧倒された。ステージ際で熱狂するファンたちと佐山の姿は、ラグビーの試合で一つのボールを追いかけて体をぶつけ合い、真剣勝負をしていた自分たちの姿と重なった。
こんなにも打ち込めるもののある佐山が羨ましいと、遼太郎は思う。自分は、高校生活の全てを捧げたラグビーからも遠ざかってしまった。
――何か見つけたい……。
自分の全てを注ぎ込めるほどに、熱中できることを。
そうは思うが、みのりと別れたショックから自分を取り戻すのに、2か月は要してしまった。その後も大学での毎日は無為に過ぎていき、まだ自分は空っぽのままだった。




