新生活 4
箏曲部の練習の様子を見に行って、職員室へ戻る際、〝あの〟犬走りを通りかかったときのことだった。辺りをオレンジ色に染め上げる源に目をやると、春の日の夕陽が、1年前と同じ山の稜線に消えていくところだった。
夕映えの柔らかい光に包まれて、グラウンドから上がってきた遼太郎の姿が、みのりの目に浮かんだ。
1年前に同じ場所で見た光景を思い出して、不意に遼太郎を意識してしまった。途端に、みのりの心が激しく揺り動かされ始める。
見つめる夕焼けが、涙で滲んでくる。心の痛みに胸の鼓動が速く大きくなり、顎が震えてくる。
――……どうしよう……!
ここが学校だということは分かっているのに、みのりの心は張り裂けて哀しみが爆発しそうになる。
それを何とか押し止めようと、みのりは目をきつく閉じ、歯を食いしばった。
「みーのーり、ちゃ――ん!!」
その時、グラウンドの方から声がした。
突然のことに、みのりがパッと目を開けると、心の中から遼太郎の影は消えた。
みのりは目をこすって涙をごまかし、顔を上げて自分を呼んだ人物を探す。
こんなふうにみのりを呼ぶのは、二俣だけのはずだったが、女の子の声だった…。
すると、ジャージ姿の女の子が、みのりの方へと駆け寄ってきている。
「みのりちゃん、ですよね?」
そう言って明るく笑った少女を見て、みのりも弾かれるように言った。
「…二俣…さん?」
クリッとした大きな目が、二俣とそっくりだ。
「はい!二俣愛って言います。先生にはお兄ちゃんがお世話になりました。」
そのしっかりした物言いが微笑ましくて、みのりに笑顔が戻ってくる。
「二俣くんに妹がいたなんて、知らなかったな」
「ああ、やっぱり!お兄ちゃん、学校の友達とかには、私の存在を隠したがるんですよね~」
口を尖らせるその表情が、なんとも二俣にそっくりで、みのりは笑いが次々と湧いて止まらなくなった。
「どうしてだろう?こんなに可愛い妹だから、自慢したらいいのにね」
みのりがそう言ってあげると、愛は照れ臭そうに顔を真っ赤にして、みのりの肩をポンと叩いた。
「やぁだ!みのりちゃん!それ、ホント~?!」
出会ったばかりで、この打ち解け方。こんな気さくなところも、愛は二俣そっくりだ。
「みのりちゃんのことも、お兄ちゃんが言ってました。すごい綺麗で可愛い先生がいるって。いつも、ラグビーの試合の応援に来てくれるって。」
これを聞いて、みのりは肩をすくめた。
時折言われるこの「綺麗で可愛い」という評価に、みのり自身はいまいち納得ができない。大体、綺麗と可愛いが同居している存在なんて、不思議すぎてみのりには想像さえできなかった。
「本当は入学してすぐに会いたかったけど、実は先生がみのりちゃんって分かったの、つい昨日なんです。この学校、先生の数が多いし、学年の違う先生は名前と顔がなかなか一致しなくて。」
確かに、今年度みのりは1年生の授業には行っていないので、1年生にとっては遠い存在だろう。みのりも1年生と顔を合わせることなんてほとんどなかった。
「でも、みのりちゃんを見て、名前を確かめなくても、すぐに分かったよ!『あー!みのりちゃんだー!!』ってね。」
底抜けに明るい愛のこの表情に、哀しみで傷んでいたみのりの心も包み込まれて癒されていく。
この笑顔に触れ合っていられる間だけは、心を疼かせる辛いことも忘れられる。そんな生命力に満ち溢れた生徒の存在は、今のみのりにとって心のよりどころだった。
「愛ちゃんは、何か部活動やってるの?ジャージ着てるけど?」
みのりの問いかけに、愛も自分のジャージ姿を見下ろして「あはは」と笑った。
「ラグビー部のマネージャーになったんです。江口先生からスカウトされて。」
「そう…!」
これを聞いて、みのりは本当に心から嬉しくなって笑顔になった。
なんだかんだ言っても、この兄妹は仲が良く、特に妹は兄のことを慕っているようだ。そうでなければ、兄が打ち込んでいたラグビーに関わったりしないだろう。
「あっ!体育教官室に江口先生を呼びに行くところだったんだ!」
「あら、じゃ、早く行かないと!」
「それじゃ、みのりちゃん。」
そう言葉を交わして駆けていく愛の身のこなしは、さすが二俣の妹だ。マネージャーにするにはもったいないほど軽快なものだった。
愛の後姿を見送って、みのりは胸に手を置いて深く息を吸った。
――……大丈夫。私はこうやって生きていける……。
恋い慕う人と添い遂げることだけが、人生の全てではないはずだ。
愛しい人の幸せを願って、遠くから見守りながら、自分自身の人生を生きていくのも、幸せのかたちの一つだ。
幸いにも、自分にはやりがいのある仕事がある。
〝学者になる〟という本来の夢ではなかったけれど、可愛い生徒に囲まれ必要とされるこの場所が、自分の本当の居場所なんだと、みのりは思った。




